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陶晴賢単語

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「陶晴賢」(すえ・はるかた - 1521 1555)とは、日本戦国武将である。当初の名乗り陶隆房(すえ・たかふさ)であり、晴賢と改名したのは晩年。

概要

周防大内氏庶流の陶氏の生まれ。大内の重臣(周防守護代)として大内義隆の下で重きを為した。は、同じく大内の重臣だった陶房。は右田詮の。(が陶で、問田盛のである養子説もある)子息は陶長房陶貞明。(寿丸という末子がいた説もある)

をも上回る武勇と軍事的才覚を発揮し、西無双大将とまで呼ばれる。敵対する出雲尼子しい抗争を繰り広げ、大内軍事面で支えた。

だがその強権的な政治手法と独善的な性格が周囲の反感を買い、次第に大内中で孤立。遂には自身を抑え込もうとした当大内義隆を討ち、事実上の大内の支配者となる。(大寧寺の変)

斜陽大内を復させるべく各地に遠征を行ったが、義と同盟関係にあった毛利元就に反旗を翻されて対立。毛利を討つべく軍を発したが、元就の策略に翻弄され、厳島にて敗北。自した。

生涯

第1章『栄光の初陣と出雲遠征』

1521年(大永元年)、陶房の次男として生まれる。
陶氏は大内の庶流であり、代々大内氏の重臣を務める名であった。元後は大内義隆から一字を賜って房を名乗り1539年(文8年)にが死去したため督を継いだ。(がいたが、既に戦死していた)

である陶房は大内の重臣であり、武勇に優れた名将であった。房は上昇志向の強い性格だったために父親に追いつき追い越すことを常に志していたという。
それに加え、大内は当代替わりごとに御家騒動を起こしてきた経緯があった。幸い(?)なことに、大内義興から義への権力継承時には何も起きなかったが、後年になって表面化する武断と文治の対立は、既に大内中で燻りつつあった。このような状況下で、一刻もく権力を握りたい房は、尋常でないほどの功名心と権勢欲に取り憑かれていったのである。

そんな房に、渡りにとばかりに戦乱の種がもたらされる。
1540年天文9年)、尼子晴久率いる尼子軍3万が、毛利元就の籠もる吉城を攻撃。当時、毛家と同盟関係にあった(事実上の大内配下としていた)大内義隆だったが、尼子軍が大軍であることを理由になかなか援軍を出そうとしない。これ隆房は強引に説得し、毛家への援軍1万を率いて陣する。これが隆房の初陣であった。
戦いは翌年まで続き、房は見事に尼子軍を撃退することに成功。滑り出しは好調であった。だが、若くして大成功を収めた房は増長し、尼子軍の追撃と尼子領への遠征を企図する。この遠征計画を、毛利元就謀だと諌め、当である大内義隆も乗り気ではなかったが、房は強引に進軍計画を進めてしまう。

1542年(文11年)、大内義隆を総大将とする出雲遠征軍が出する。房は軍監として、義からほぼ全権を委任された。毛利元就を始めとする安芸や備後の人領らも、これに従った。
遠征は緒戦こそ順調だったが、やがて尼子力の強い出雲内に戦場が移ると、次第に進軍が滞るようになっていく。元々、諸族の連合軍という側面の強い大内軍側は、戦意が低かったのだ。やがて年が暮れると、である出雲舞台だったこともあり、大内軍は降に悩まされた。
それでも大内軍は、尼子の本拠・月山富田城を包囲することに成功する。だが、そこまでだった。かねてより疲労の蓄積していた諸族の軍は、尼子側の調略を受け、次々と寝返ったのである。(特に、族の1人だった吉川興経月山富田城に攻め込むと見せかけて、そのまま内に飛び込んでしまったという)

出雲遠征は全に失敗に終わり、大内軍は瓦解・潰走した。房自身も命の危険にされ、撤退中はの肝のみを啜って慢するほど凄惨な帰路となった。

ここで大内を、2つの不運が襲った。まず1つは、大内義隆が寵愛していた養嗣子・大内持が、撤退中の混乱によってから落ち、溺死してしまったこと。この出来事は、義を落胆させ、以後の彼から覇気を奪い、極度に厭戦的な思考に陥らせてしまう。そしてこれこそが、後の大内滅亡の遠因ともなった。
そしてもう1つが、安芸の謀神毛利元就憤怒を買ってしまったことである。謀な遠征計画に付き合わされて命の危険にされたばかりか、大内軍の一員として最後まで戦い抜いたにもかかわらず、何の返礼も寄越さない大内に、元就想を尽かしたのである。
これ以降、毛利は、安芸内における大内力が減退したこともあり、独自の動き(吉川小早川乗っ取りなど)を見せていき、やがては独立勢力となっていく。

斜陽期を迎えた大内を、房は何とかして支えようとするが、内外で芽吹き始めた戦禍の火種を摘み取ることは、彼といえどできなかった。

第2章『大寧寺の変』

出雲遠征の失敗により、大内は著しく勢力を縮小させた。当・義は、寵愛していた養嗣子を失ったことで政治を顧みなくなり、代わりに政治を取り仕切る文治の官吏・相良武任が幅を利かせるようになった。対する武断の頂点に立っていた房は、遠征が失敗したこともあって中央から遠ざけられた。これは権勢欲と自尊心の強い房にとって、耐え難い屈辱だった。
1545年天文14年)、隆に待望の実子である義尊が生まれた。これを契機として隆房は相良武任を暗殺して大家の中枢に返り咲こうと画策する。そして一時は武任を追放することに成功したが、主・隆は武任を重用しており、彼の裁定によってすぐに武任は復帰してしまう。
一方の房は、武任暗殺未遂の嫌疑を掛けられて詰問を受け、中で孤立する羽になった。(この時は、両の仲裁役を果たしていた冷泉隆豊の取りなしによって、房は事きを得た。だがこれがきっかけで、房と義の関係は決定的に悪化していくことになる)

大内中で醜い政争が繰り返されている間も、領の財政は日毎に悪化していった。義による過剰な文化策によって、山口には多くの文化人や公家衆が集い、山口は「西の小京都」と呼ばれる大文化都市となる。だがその一方で、文化費や寺社の修繕費、公家の遊費がかさみ、大内の財政は火のとなってしまった。
大内の衰退と滅亡が現実味を帯び、房の焦燥感は頂点に達しようとしていた。

1550年(文19年)、半分隠居状態にあった房は、大内を改革して復を果たすため、現在の当である義し、文治を直接排除することを決める。事実上のクーデターである。その年の暮れには、中で「陶隆房が謀反を起こす」という聞が流れるまでになったが、義策だった。
1551年(文20年)、房は遂に軍勢を率いて、大内の本拠・山口を包囲した。義は、房による謀反の噂を最初から信じておらず、彼が兵を挙げたと聞いてもなかなか信じようとしなかった。だが山口館が包囲されて火がかけられそうになると、義はやっと現状を把握し、大寧寺へと避難した。義に追従した重臣・冷泉隆豊は、房と対話による解決をしようと模索したが、房はこれを許さなかった。
進退窮まったと悟った大内義隆は、息子の義尊と共に自した。これが、後世で言う「大寧寺の変」である。(まだ幼児だった義尊については、房は殺すつもりではなかったとされる。また同時に、相良武任や冷泉隆豊といった文治の武将達、三条頼や小槻治などの公家衆も殺された)

こうして大内の実権を握った房は、九州大友から、大友宗麟にして義の子である大友晴英大内義長)を迎え、新しい大内へと据えた。同時に、房は英から一字を賜り、「晴賢」を名乗った。形式的な改名ではあるが、これは従来の義体制との別を示したものとも言える。
名を改めた房もとい晴賢は、大内の文治体制を見直し、一気に武断政治へと転換を図る。だが、大内を覆う暗晴れることはなかった。対外的には名君として通っていた義を討ったことで、大逆人である晴賢への反発と非難、不満が各地で噴出したのである。

第3章『厳島の戦い、そして終焉』

1554年(文23年)、義を正室としていた石見の族・吉見正頼が、反晴賢の兵を挙げる。晴賢は直ちにこれを制圧しようとするが、これと同時に安芸では、かねてより独自の行動を見せ始めていた毛利元就が、独断で大内領の攻略。安芸を乗っ取ってしまっていた。
実のところ、晴賢は義を討つ前に、元就と密約を結んでいた。その内容は「義を討った際に生じるであろう各地の争乱の鎮定に、毛利も加勢してほしい。見返りに、安芸内の施政権を認める」というものであった。

元就の独断を見かねた晴賢は詰問状を送り、同時に吉見正頼討伐に協力するよう要請するが、元就はこれに「毛利は、先代義の代から安芸の裁定自由を認められている。それを、晴賢殿も追認なさったはず。今更、毛利を抑えようとなされるのは明確な協定違反だ」と返答した。
晴賢はこれに激怒し、毛利と陶の関係は急速に悪化していく。(実際に晴賢に返答の書状を送ったのは、元就長男毛利隆元だったとされる。隆元は義に恩義を感じており、その義を殺した晴賢にしい敵意を抱いていたことが確認されているため、文面も隆元が考えたものである可性が高い)

1555年(治元年)、晴賢は2万(3万5万?)の大軍を出させ、安芸に向かった。
だがそこで、晴賢は進軍ルートで悩んだ。陸路で安芸に侵入するルートは既に封鎖されており、強引に突破を図った先遣隊の宮川房長は敗退していた。(折敷の戦い)
一方、路で安芸に侵入するには、軍事的・経済拠点である厳島を攻める必要があった。厳島には、既に毛利軍がを建設し、そこには元・陶軍武将(裏切り者)だった新里宮内らが籠もっていたためである。毛利側に威圧を加えるためにも、厳島は何としても奪還せねばならなかった。
だがその路案に、重臣だった江良房栄が強硬に反対した。厳島は狭く、大軍が行動するには不利なので、敵の奇襲の危険がある、というのである。だが、晴賢は房栄の諫言を聞き入れるどころか、逆に房栄を「毛利軍に内通している」という嫌疑をかけて処断してしまったのである。

晴賢の元には、毛利方の動向を知らせる様々な情報が入ってきていた。

厳島の防備は薄く、兵も少ないので攻められると困る」
「江良房栄は、元就の知己であり恩もあるので、毛利軍に内通している」
「陶軍が厳島を攻めれば、その隙に吉田を奪取する」(毛利の重臣・元澄より)

晴賢はこれらの情報みにして、路を経由して厳島を攻めるを選んだ。
晴賢が直率する陶軍は、厳島に上陸。毛利軍の抵抗は極めて軽微で、厳島に建てられた要である宮ノ尾も、晴賢の率いる大軍の前に前の火となった。晴賢は、自身の勝利を疑わなかった。このまま厳島を攻め落とせば、まだ諸族の連合体に過ぎない毛利軍など、晩に瓦解する。そう信じていた。

だが晴賢は、自分が既に死地に立っていることを知らなかった。

江良房栄が危惧した通り、毛利軍は奇襲を仕掛けてきたのである。暴風雨に紛れ、密かに厳島に上陸して反抗の機会をっていた毛利3000(異説アリ)が、厳島の狭い地に固まっていた陶軍を直撃したのである。
まさか毛利軍が、暴風雨を突破してまで襲撃してくるなどとはにも思わない陶軍は、突然の襲撃によってたちまち揮系統を崩壊させ、潰走する。晴賢自身も危険にされたため、本を捨てて逃走。厳島を脱出して再起を図ろうとしたが、脱出用のは既に兵達によって乗り逃げされるか、毛利軍に味方した村上軍の手によって沈められてしまっていた。
晴賢はその時になってやっと、自分が元就の策略によって踊らされ、自ら死地を作ってしまったことを悟った。

観念した晴賢は、大江(高安原との説も)にて自した。享年35歳介錯は忠臣だった香賀正が務め、その後正は毛利軍と差し違えて戦死。
晴賢の首は、履取りだった若という少年が岩場に隠したが、毛利軍によって捕らえられたために、隠し場所は程なく判明。晴賢の首は元就の手に渡り、首実検の際にかれた。

 

何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に

晴賢の辞世の句
大内未来のためとはいえ君を討ったこと、権勢欲に囚われてしまったことなどを後悔し、こうなったのは当然の報いだと達観しているようである。
晴賢のような聡明な武将が、何故元就の策略にこうも簡単に弄ばれてしまったのだろうか。権勢欲と焦燥感に取り憑かれた気性の荒さを、元就に見透かされていたのだろうか。いは、遠からずこうなるであろうことを既に悟りつつも、敢えて火中に飛び込んだのだろうか。相は闇の中である。

晴賢の死後

大内の筆頭臣にして、事実上の支配者だった陶晴賢が死亡したことで、大内は著しく衰退。やがて中国地方の盟の座は、毛利が取って代わっていくことになる。

晴賢が死んだ後、陶督は嫡男の長房が継ぐ。だが、晴賢がいなくなった事による政治空白が埋まるはずもなく、元就の調略も相まって大内は内乱状態となる。
晴賢によってを殺されたが、陶の居だった富田若山を攻撃し、長房はの貞明と共に自。長房の遺児・寿丸(晴賢の末子との説も)は救出されるが、後の大内滅亡に伴って臣に殺され、陶の嫡流は断絶した。(陶綱などの傍流は生き残り、毛利臣となる)

厳島の戦いから2年後の1557年(治3年)、毛利元就は防長経略を行い、大内底的に攻撃。晴賢の友だった内藤盛の孫・世などが奮戦したが戦死し、傀儡当だった大内義長も自。およそ150年の長きに渡って、中国地方を支配し続けた大大名周防大内はここに滅亡した。

その後も、大内義隆従兄だった大内輝弘などの残党が決起、御を図るものの、結局は毛利軍によって鎮圧されてしまい、旧領回復は果たせなかった。

人物総評

後に『西無双大将』と謳われるほどの勇将であった。最盛期(出雲遠征の失敗前)には義の寵もあって、軍事部門において独裁的な権限を持つほどだった。
だが、それ故に武断・軍事偏重の政治手法となり、独善的な性格も相まって各所で敵を作りやすかった。その弊出雲遠征失敗後にくも表れ、義の寵を失うと途端に権威を失墜させ、失脚してしまう。

である義が元々文弱だった上、文官肌で戦争向きではない重臣が中に増えていくという逆の中、大内の勢力維持のために各地で奔走した実績は評価できる。1545年(文14年)に彼が失脚するまでは、瀬戸内海賊討伐や尼子との小競り合い、備後の諸族追討などをこなしている。
だがそれも、政治への興味を失った義の下では、延命処置に過ぎなかった。大内を救うためには当を交代させるしかない。晴賢がそう思ったのも理からぬ事だった。

一般的に、晴賢が義を殺したことは戦国初期から中期にかけて横行した『下克上』だと評する向きもある。だが晴賢にとっては、義へのクーデター大内という組みのためであり、またその後継を立てていることから、少なくとも要職を独占はしても、御乗っ取りまでは考えていなかったと推察される。
だが、その辺りのアピール力と外交力が晴賢には足りず、義交のあった周辺族が一斉に起、反晴賢同盟が出来上がってしまった。この反晴賢同盟の結成が、安芸における毛利元就の反逆を許す契機にもなってしまったことを考えると、晴賢のクーデターは精を欠いていたと言わざるを得ない。

その後の毛利元就との謀略戦では、絵に描いたように翻弄されてしまった。厳島の戦いに至った経緯や、その前後の事実に関しては様々な異説があるが、晴賢が側近の人心握にすら集中できず、元就による奇襲の危険性を承知していながら自ら厳島へ渡してしまったことなど、明らか失策を幾つも犯している。
晴賢の直情径行の性格、独善的な一面などを突かれた結果なのかも知れないが、いはこの時点で晴賢は既に正常な精神状態にはなかったのかもしれない。側近を有を言わさず処断したり、自分が有利な戦なのに、妻や家族に遺書を送っていたとされることなどを考えると、精神の均衡を失っていた可性は十分にある。

総評すると、彼は『西無双大将』ではあったが、それ以上でもそれ以下でもなかったと言える。軍事にも政治にも精通した聡明な人物だったが、あくまでも軍事優先の政治を貫こうとして周囲から孤立するなど、人心握の力には恵まれていなかったことがえる。また、大局観に欠けていたことも致命的だった。(戦国時代という歴史ピリオド上、軍事優先の政治方針は決して間違いではなかったが、身内の理解を得られなかった)
優れた大将であり武将ではあったが、一を担う大名の器ではなかったと言えるのではないだろうか。いは、生まれる場所と時代を間違えた人物だったのかもしれない。

主君・大内義隆との『ただならぬ』関係

(※以下、BLネタが含まれております)

晴賢は幼少の頃から器量に優れ、将来を嘱望されていた。房と同様に武勇に長け、政治面でも決して無能ではなかった。
その才を、君である大内義隆も大いに買っていた。晴賢が大内の重臣となれたのは、陶という名の血筋と祖の政治基盤も論あっただろう。だが、晴賢が義に重用されたのには、もう1つの理由があった。

それは、容姿が端麗だったことである。

大内義隆が、ゲイ衆道を嗜み、美少年や美青年を好んでいたのは有名な話である。そんな彼に、眉目秀麗で器量にも長ける、素晴らしい青年の側近ができた。これを義が見逃すはずはなく、即座に接近した。義と晴賢は、さほど時間もかからずに、アツい関係で結ばれたのだ。

その義の熱の入れようは尋常でなく、陶の居である富田若山まで、わざわざ5時間以上もかけて晴賢に会いに行ったことがあった。しかしこの時は晴賢は眠っており、その眠りを妨げては悪い、と義は遠慮。仕方なく晴賢への慕の念を込めた和歌を残して、そのまま山口へ帰っていった。対する晴賢も、義の寵に応えようと、必死背伸びをした。(これが、上昇志向の強い性格に拍をかけたのかもしれない)

だが、晴賢の熱意は時に回りをし、凄惨な結果をもたらすこともあった。出雲遠征の敗退と、それによる義愛人養嗣子の事故死が、まさにそれである。
積み重なるミス。そして、晴賢が成長(老化)していくことに伴う容姿と性格の変化、そして義自身の心の変化によって、2人の仲は徐々に離れていった。
の寵を失うことは、自身の凋落をも意味していることを、晴賢は理解していた。だがその一方で、義は晴賢の努力を見なくなっていた。やがて義の寵は、相良武任や冷泉隆豊といった性格の合う文治義の臣達へと移っていった。嫉妬に狂った晴賢は、義やその寵を欲しいままにする者達への逆恨みと、思い通りにならない現状へのしい不満を募らせていった。

そして晴賢と義は、大寧寺の変という最悪の結末を迎えるのである。

(※以上の記述は、筆者の推論と妄想が多分に含まれております。決して史実がこうであったと決定づけるものではありませんので、冗談半分でお読み下さいませ。ただ、陶晴賢と大内義隆の間に衆道関係があり、この衆道関係のもつれが、後年の対立に結びついたのではないかという説があるのは事実です)

逸話色々

  • 毛利の居である吉田が尼子軍に攻められ、前の火となった(そのように聞かされた)際、元就長男隆元が尼子に降できるようにと、自害して人質の役割を終えようとした。それを制したのが晴賢であった。晴賢は隆元に「殿は必ず助ける」と約束し、直ちに援軍を取りめて元就の救援に向かった。この事を隆元は後年まで恩義に感じていたようだが、晴賢が義を討ったことで両者の関係は険悪になった。
  • 晴賢は大内の重臣であるのと同時に、周防守護代という役職も務めていた。これは、中国地方守護大名である大内から、周防軍事と内政を委任され代行する役職だった。
    だが、後に文治と呼ばれる閥の領袖となった相良武任は、この体制を改革し、軍事と内政に関する権力を大名に集中させようとした。これによって既得権益を脅かされた晴賢や内藤盛(長門守護代)は、武断と呼ばれる守護代中心の閥を形成、文治と対立を深めていったのである。
  • 1543年(文12年)に、晴賢は瀬戸内の制権を確保するため、伊予河野軍と戦っている。この戦で晴賢は越智安成を始めとする多くの敵将を討ち取るも、成果は挙げられず撤退した。この時に晴賢の軍勢と戦ったのが、後に『伝説』の元となる大祝である。
  • 謀反を起こす2年前、1549年(文18年)に毛利元就息子達を伴って山口を訪れた際、晴賢は元就達の逗留している館へ出向き、会合を設けている。ここで何が話されたのかは詳細は不明だが、晴賢は元就の次男である吉川元春交を築き、義兄弟の契りまで結んでいる。
    晴賢としては、表面的には毛利大内の同盟関係を確認するためだったのだろう。だが、この2年後に謀反を起こしていることを考えると、それだけの接触ではなかった可性が高い。相手が相手だしねぇ・・・
  • 大寧寺の変によって、大内義隆を慕って集まっていた文化人や技術者達は立場を失い、軒並み日本へと離散した。だが技術者達が他へ逃れたことで、それまで大内が寡占状態にしていた機織り技術(西織に発展)や吹き法(甲州金や佐渡金山に応用)が全に伝わり、中世日本に技術革新をもたらすことになる。
    まぁ、陶晴賢がそこまで考えていたかは疑問である。日明貿易も途絶しちゃったし・・・
  • 名前が特徴的で、初見では正しく読めないことに定評のある人物である。某人と間違えた人は多いはず。

信長の野望における陶晴賢

信長の野望」(PCシリーズにおける陶晴賢(房)の力一覧。

どの力値も非常に高い、優秀な武将。軍事政治もこなせる。ただし活躍した年代が年代だけに、登場するシナリオが限られているのが惜しいところ。大寧寺の変イベント天翔記以降ほぼ恒例行事だが、厳島の戦いがイベント化されたのは以降でかなり最近。どちらにしても大内終了のお知らせとなる事が多い。

初期の作品は野望が高く義理が低い危険人物だったが(武将風雲録では、自分が擁立した大内義長にも謀反を起こす)烈風伝以降は義理のステータスはごく標準になっており、大内プレイしても安心して使えるようになった。

その理由についてコーエー側からのコメントいが、前作の将星録がリリースされた年に放送された大河ドラマ毛利元就」によるものが大きいと考えられる。この作品で陣内孝則が演じた晴賢は、それまでの反逆者というイメージとは異なり、大内の行く末を憂い、敢えて汚名を着て謀反を起こした悲劇の人物として描かれている。これが晴賢の人物像を大きく見直すきっかけとなったと言えるだろう。

顔グラは長年、いかにも武断といったムサヒゲオッサンであったが、創造PKでは「己の力に酔った若きナルシスト」というべき別人に変貌して誰だお前!?と多くのプレイヤーを驚かせた。ただ、大内義隆に寵された美貌や享年35歳という事を考えると、これまで老け過ぎだった感もある。グラも相まって、各種イベントでは元就に踊らされている印が強くなった。ちなみに大内義隆も同時にグラフィックが変更されて、いやらしいつきのホモデブっぽくなった。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 魅力 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 83 政治 70 魅力 73 野望 84 教養 72
覇王 采配 78 戦闘 84 智謀 67 政治 72 野望 85
天翔記 戦才 168(A) 智才 140(B) 政才 156(B) 魅力 73 野望 88
将星 戦闘 84 智謀 75 政治 78
烈風 采配 79 戦闘 75 智謀 67 政治 69
世記 采配 71 智謀 61 政治 68 野望 76
蒼天録 統率 72 知略 67 政治 69
下創世 統率 78 知略 69 政治 67 教養 45
革新 統率 90 武勇 85 知略 72 政治 75
統率 90 武勇 86 知略 78 政治 75
創造 統率 86 武勇 84 知略 77 政治 73

関連動画

戦国無双3Empiresにはモブ武将として登場し、史実通りに厳島の戦いで毛利元就と戦うことになる。

また100万人の戦国無双では、明らか真・三國無双シリーズ諸葛誕イメージしたと思しき「正義キャラとして登場し、やたらと「正義」やら「粛清」という言葉を連呼する。

無能無能なりに、私の役に立て」

戦国大戦ではVer1.2で君の大内義隆と一緒に参戦。武力は物足りないが、高統率で制圧・兵と特技は悪くない。

計略の「下克上」は、範囲内の敵と味方の武力を下げるもので、その効果は味方を巻き込んだ数が多い程大きい。
巻き込まないと力萎えの術に劣るため、基本的には武力の低い1コストの武将を巻き込んで使う事になる。
そして君の大内義隆は1コストで、更に相手の統率を下げる「撹乱の呪い」を持っている。史実通り踏み台として最適相性が良い。

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陶晴賢

54 ななしのよっしん
2024/03/05(火) 00:17:37 ID: 3p6ecITAKJ
公家殺しまくってるけどこれ朝廷側はどういう反応したんやろ?
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55 ななしのよっしん
2024/03/09(土) 22:55:38 ID: 6Ut9IMbOjT
>>53
おそらく「陶晴賢」って字面が中国人名前に見えるって話では?
陶淵明みたいな感じで
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56 ななしのよっしん
2024/03/12(火) 06:18:24 ID: wwmA2NJgH+
房の武者ぶりは、おそらく問田の血筋から来ていると思われるが…決め手が足りない
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57 ななしのよっしん
2024/03/17(日) 08:19:19 ID: 2yxZqfJkA8
>>sm43518757exit_nicovideo
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58 ななしのよっしん
2024/04/07(日) 22:43:27 ID: K1YO645tU7
大河に登場した頃から一時期再評価されていたのに、近年の研究で以前とは別の意味でが下がり続けているパターンは結構しい。そして今は義の再評価が進みつつある
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59 ななしのよっさん
2024/04/10(水) 11:52:31 ID: jmjxZNQEJT
も数ヶ準備されてきたクーデターをまるで認識できてないしどうなんだろう…
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60 ななしのよっしん
2024/04/18(木) 02:00:25 ID: tL6W3BL1ya
英を後継にすると大友に打診してたから陶も弑逆という行まではするまいと思っていたか懐の長門の守護代の内藤大丈夫だろうという考えだったのか…
大内義隆を排除するにしても、当補は
大内義尊(義の子)大友晴英(大友)大内輝弘(先代の高は義謀反起こしたなのでほぼ理)
ぐらいで、陶が反義を掲げた際の対抗がそもそもいないから君押し込め狙いに軽く見てた節はある?なお陶は既に大友と結託してた模様
大友義鑑足利義晴と明確に連帯してるから二階崩れが起こらなかったら警してたんかなぁ
「備後を尼子、安芸を(若狭)武田」という幕府の方針に賛同して尼子と和しようとしてそれが毛利元就にバレて「こいつ儂らを見捨てる気か!?」で元就ブチギレとか何してんの?ムーブすぎる…
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61 ななしのよっしん
2024/04/21(日) 17:25:56 ID: 2yxZqfJkA8
>>59
クーデター自体は認識していたが、その規模とその後をあまりにも考えていないタイミングの決起は予想してなかったという感じでは?
一応本人的には防御策をとっていたとは思うが、頭が良すぎての考えは読めなかったんだよ…
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62 ななしのよっしん
2024/09/17(火) 16:07:38 ID: 8XQaXzQx8N
二階崩れの変で大内とみられる義鎮が当になったから安心しちゃったのかも
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63 ななしのよっしん
2024/09/28(土) 19:44:21 ID: wwmA2NJgH+
>>sm44111495exit_nicovideo


近年の研究によって、最期までがなぁ…
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