安藤紘平は「僕は大林宣彦監督が自主映画作家時代に撮った『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』(1966年)に衝撃を受けて、榎本了壱、萩原朔美と共に『ファミリーフィルムメーカー』という映画グループを作り、それは後に『ビックリハウス』という雑誌になりました」と述べている[1]。 1975年、劇団 天井桟敷出身の榎本了壱と萩原朔美が編集プロダクションである、株式会社エンジンルームを設立。萩原が代表取締役に就任し、雑誌ビックリハウスを創刊。創刊当初は渋谷のタウン誌と同等の内容に過ぎなかった[2]。 その後、読者を「ハウサー」と呼称し、萩原が「ビックリハウスは読者の上に読者を作らず、読者の下に編集者を作る」が表明した通り、読者からの投稿が雑誌の柱となり、数々のコーナーが作られた結果、パロディ雑誌として一時代を築いた。1977年から高橋章子が編集長となり、1985年の休刊まで勤めた。 8