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「アジア史」動機の再編成

自分の中では、「哲学」「歴史」が「不可分の2本柱」として機能している。

一方で、この数年ほどは、特に「歴史」を棚上げしていた。

実務的にタッチできないという時間的事情が大きかったが、恐らく動機面でも削がれている面も大きかったと言っていい。

が、去年今年の旅行と、若干の読書を契機に、少しずつカンを取り戻そうとしている。

 

ただ、前に書いたが、「アジア史」に関しては、そもそも「目的」も「対象」も事実上見失っていたという、かなり自分のアイデンティティに関わる根幹的な課題が横たわっていたため、進もうにも進めない、もどかしい行詰り地点で停まっていたと言える。

 

学生時代以来、「アジア史」は自らの、「歴史」総体の中でも中核に位置付けてきており、「動機」自体はなくなった訳ではない。

しかし、現実の世界政治の変動が大きくなり過ぎた中で、次第に「目的」も「対象」も不鮮明になっていったのである。

既に開始されてしまった戦争(ウクライナ、中東)、そしてこれから開始されようとしている戦争(台湾海峡)と、また気候変動と資源・食糧危機に起因している。

当然、両者は重ね合わさっている。

しかし、これらの危機の深まりの中で、自分のやってきた「歴史=アジア史」は何の意味があるのか?展望はあり得るのか?といった「存在意義」そのものを深く問い返さなくてはならなくなった、ということである。

 

結論を言うと、「意義自体はなくなったのではないが、目的・対象・方法の再編成を迫られるに至った」ということである。

学生時代時点の動機に即して言うと、自分は「アジアの融和」に強い意欲を持ってきたため、その「統合のための歴史」を書けたらいい、と思ってきた。

(それとは独立かつ重なり合った領域として、「アジア経済史の執筆」という野心もあるが、ここでは差当り分けて考える)

 

「アジアの融和」も完全に捨てられた目標でもないが、現実問題として、自分がタッチできる領域としての関心は、事実上失われた状況、として整理がついている。

自分の中では、「目的・目標の再定位」をどこに向けるべきか?が長く判断がつきかねてきたが、当面のその整理がついた。

これは、自らの「実存=実生活」的課題とちょうど重なり合っている。

 

基本的には、以下2つに収約される。

1気候変動、資源・食糧危機への対応

権威主義とどう向き合うか

 

1の視点は、学生時代時点では全く見られなかった(そもそも現代ほど危機が認識されず、深まってもいなかった状況だった)。

2は、学生時代以来の課題を引き継いでいる。

「戦争」は1,2に含み込まれる事象として位置付けていい。

 

こうして「アジア史」といっても、極めて「自分自身に即して」アクチュアルな性質の営みへと、良くも悪くも「再編成」されてしまった。

なぜか?

先述の通り、自分のやってきた「歴史=アジア史」の無力感とともに、「贅沢感」も実感するようにもなった。

「そんなことをしている場合ではないのでは?」という。

「動機と目的の喪失」というのは、「自分自身と、そのテーマの持続可能性」を信じられなくなったことに由来している。

特に、「アジアの融和」の道は既に断たれたということと、戦争と同時に深まる「資源・食糧危機」と、各国で分断とともに強力に深まる「権威主義」とどう向き合うのか?が(連動しての)最大の課題として定位されなくてはならぬ、と再定位したのである。

 

「現実的判断」であるとは思うが、「理想性」はない。

それ故に、長く苦悩を抱えていた訳である。

では、「完全な妥協」なのだろうか?「妥協」的側面もなくはないが、その分「現実的選択肢からの可能性」も柔軟かつ強靭に探れる余地も生じてきた。

即ち、単純に「大人になった」ということである。

 

自分は「気候変動、資源・食糧危機」を重視しているが、それ故にこそ「理想主義」ではない。

確実に、徐々に、かつ時に急速かつ大規模に、「選択淘汰」が成されていくだろう、と見ている。

(現在既に、強力な物価高という形で、日本社会と大衆も直撃する「現在進行形」である)

繰返しだが、超長期的な「持続可能性」を、自分は信じていない。

「行き詰り」は今後さらに(戦争・戦況深刻化と並行しつつ)スパイラルで深化する。

 

その「選択淘汰」と、世界の「権威主義」は、言うまでもなく手を携える関係にある。

その「権威主義」とどう向き合っていくのか?

自分の「アジア史」はそこへの「解」を示せるものでなくてはならぬ。

 

現実的な解としては、「権威主義」を突き崩すことは困難と見ざるを得ない。

なぜなら、「大衆も世界政治も」さらには上述の「資源・食糧危機も」、「強権的リーダーシップ」を要請しているからである。

「危機と、危ういリーダー(強権的リーダー)」とは、スパイラルでまた要請し合い、深まっていく特性を持っている。

「強権的リーダー」を排除すれば、ますます(見せかけの「民主制」は担保される部分はあるかもしれないが)「危機の解決」からは遠ざかる。しかし「強権的リーダー」を要請すれば、より危機自体も深まってしまう。そうしたジレンマに世界全体が陥ってもいる。

 

ではどうするか?

「歴史」においては、「民」の視点に立脚したいという動機はあった。それは「無効」になっていくのだろうか?

そうとも言い切れない。ただし、「民」は「掬われない」部分が大きくなり、「無効化される視点」も広範化するのは事実だ。

しかし、「資源・食糧危機」と「戦争」により深まる「権威主義」への「批判力」としては依然有効である。

もう一つは、「民自身の」「資源・食糧危機への対応力」を高めるよりない、ということである。しかし自分は、そこで自ら高められない人々は、やはり「選択淘汰」されていくだろう、という冷徹な見通しは立てている。

自分の「アジア史」は、そこに賭けたい。

 

もう一つ再編成を促されているのは、「方法論」の部分だ。

神道」「民俗学」という「自らの内へ、かつまた外へ」と掘り下げる視点が、一挙に深化した。

そしてそれ故の前人未踏の潜在性を感じてもいる。

これらは特に「アクチュアル」な性質が強い。「自分の身体を用いて、体感しつつ探索」しに行かなくてはならぬ。

 

本来これらは、もう少し年齢がいってからだと思っていた。

そのタイミングが早まったのは、「意外な戸惑いも含んだ喜び」といった心境が正直なところ。

これらは「歴史学」的探究とは一線を画するが、それと部分的には重なり合いつつ、むしろ「実存哲学」としての色合いを深めることとなる。

今後最低2-3年ほどは、それらの「実践」的ステップを深めつつ、徐々に「アジア史」を固めるだろう、という見通しでいる。

 

社会学へのスタンスとその推移

気付けば、社会学も意外とやっている。

焦点に置いたことはなかったし、学生時代は(「社会学」という分野というか営みそのものに対して?)反発したりしていた気がするのだが。

一方で、哲学をやる以上、近代以降は無視することはできない。

 

ただ、学生時代は、「自分が置ける・置きたい社会学のポジション」が(既存の学界上に)「無い」ことをひたすら確認するだけの作業になっていたのだ。

自分がやりたかったのは「経営社会学」だったのだが、社会学界内では「生きた」ポジションやテーマとして殆ど存在しなかったのだ。

(「産業社会学」「労働社会学」というものは有力だが、著しく「労働」=マルクス主義寄りで、受容しがたかった。つまり、「経営学」との接点・交差点が準備されてない、と感じたのである)

 

社会システム論・メディア論には興味を持った。

が、ルーマンは抽象的過ぎた(し、中身を吟味をすると実際性に乏しい)。彼の視点を参照しつつ、「自分で組み立てる、再構成する」という方向性に転じたのは、ごく最近のことだ。

 

哲学と重なり合う、社会科学の理論部分に当たるところは、「広く薄く」カバーはした。

以前も書いたことがあるが、ともかく戦後社会学では、マルクス主義の理論的影響があまりに大きく、それらを捨象しつつ参照するというのが面倒極まりない作業なのだ。

 

これも後から気づいたのは、自分が著しく「経済学・金融理論寄り」であることだ。

社会科学的統合の視点においては、自らの「経済学・金融理論」を基軸に据えるのが基本構図となる。

 

ただし、整理が難しかったのは、「歴史」「法」部分との兼合いではなかったか。

今も詰めている段階に過ぎない。

「経済学・金融理論」だけで、自分の社会学的視座を全てをカバーできるわけではない。

(法、法学、法実務部分に関しては別垢ブログで扱うのではないかと思っている)

 

自分は、マルクス主義、正確には「運動主義」を忌避している。

が、完全に否定しているという訳でもない。

自分の中にも取り組みたい事業があって、それに運動的要素が無いという訳でもないからだ(「街頭運動」性は0なのだが。それこそが自分の「運動」の特異性と言える)。

 

「社会運動史」もまた広く薄くやってきたからこそ、割と勘所は押さえやすい。

つまり、知的には大いに参照できる部分があった訳だ。

(「何がしたい」というより)「どのようにやりたいのか?」という方法論の点で、「反面教師」ないし「否定命題」として機能してくれた、と言っていいだろう。

 

現実の社会観察とか社会分析(統計的手法を用いる等)において「社会学的手法」を用いよう、という動機は自分の中には「ほぼ」なかった。

敢えて学問的方法論に出しゃばられなくとも、自分自身の従来持っている観察眼とか、「職業」の範囲内での分析で十分だと感じていたからだ。

 

例外的領域は、「科学社会学」(に近い)領域だろう。

学界とか各種業界・業界構造、また資本市場や国際政治・財界(総力戦体制論や環境政治学)といった領域の「知的・学術構造」自体にメスを入れる、という(言わば「学術政治」的)視点だ。

リスク社会論的関心も、広義にはここに組み入れてよいだろう。

(これもフーコー的だと思われるかもしれないが、用いるフレームワークはそうではない。上述の「経済学・金融理論」が中核にある)

 

社会学」は、(主体的・積極的に、自己内の中核に据えて)「やろう」と思ってやってこなかった、というのが自分のスタンスの特色だと思う。

「どうも掴みどころがないな」とムカムカモヤモヤする気持ちがありながらも、「無視できない」という直感がはたらいて、各種理論書の拾い読み・斜め読みで過ごしてきた、とでもいうのが正確なところだ。

また、自分周辺に社会学をやる人や、また有名な社会学者に直接会いに行き刺激を受けたということもあった。

 

ただ、「サイド(脇)を固める」意味合いは間違いなくあった。

「何をどうやればいいのか?なぜやっているのか?」も分からないまま、グルグル回り続けていただけの「甲斐はあった」。

「社会」といった時の多義性・重層性を、当初は掴み切れていなかったのだ。

「学界・業界」とか「国際社会」、「資本市場社会」といった特殊な世界を対象に攻めたかったのだ。

その(自身固有の)テーマ性が分からない中で、「何か得られそうだし、拾っておかないといけないのでは?」といったカンだけで来たといっても過言ではなかろう。

 

(ややこしくなるので、言語思想・言語哲学言語学と重なり合う部分は除いて論じた。それらについては別の機会に整理したい)

 

現代数学、科学哲学、論理学!

今年最大の、そして嬉しい発見は、「自分と同世代で出色の日本の数学者」の存在を知ったことだ。

「90年代ジャンプ」イズムとでも言えばいいのか、「すごい奴に出会いたい」という動機は未だに「生き」ていたのだ。

同世代の研究者については殆ど意識することはなかったのだが(初めて「少しだけ先を越された」と感じたのは成田悠輔だった)、これからもっと「面白い奴」は出てくるのではないか、という予感はある。そこへのワクワクがあるのだ。

 

その数学者は、自分とは全然別のアプローチから、自分とも共有できる部分の問題群やフレームワークを扱おうとしている。

(たぶんまだ、「成功」していると言えるほどの段階には至っていない)

思想の世界で言うなら、自分にとっての東浩紀の布置関係に近いか。

 

当ブログでは数学的トピックは扱わない想定だったが、哲学部分との関わりが深いので敢えてこの機に書き記しておくことにした。

自分の数学へのアプローチも、現代数学へのアプローチも極めて特殊だったが、最近ようやく、急速に展望が拓け始めた。

(「理系からの文転」組の有名哲学者は結構いるが、自分は「哲学からの数転」組という非常に稀なパターンだと捉えている)

 

数学といっても、確信が持てるようになったのはごく最近で、誰も同様のことを考えておらず、「これは数学なのか?一体俺は、何を、何のためにやっているのだろう?」という懐疑の念に絶えず脅かされていた気がする。

確かに工学・物理学寄りではあるが、それだけではない。

「空間科学」全般であって、実装に随い肉付けされていくだろうという見込み。

(今回は「認知科学」については複雑になるので触れてない)

 

科学哲学のほうは、(科学史とセットで)非常に馴染み深い領域だが、この数年は完全に塩漬けにしていた。

「哲学」よりは「実装」を最優先にしたからに他ならない。

 

「論理学」というのは、近年はディープラーニングのおかげで、急速に実践・実務ベースでの応用が着目されるに至ったのは非常に画期的なことだと思っている。

とはいえ、今のところはAIないし確率・統計理論学習に留まり、伝統的論理学体系の中に十分に整合させられている印象はないのだが、確実にその方向にシフトしていくだろう。

 

哲学は、20世紀中盤以来の、大きな変動期・変革期に当たるのは間違いない。

自分のやや独特の「哲学史」観なのだが、「哲学の刷新」というのは、必ず「同時代の数学との接点」に触発されている、と捉えている。

その動きは、自分の見るところでは、現代哲学は田辺元で止まっている。

田辺以来で「次へ」を目指そう、というのが自分の狙いなのだ。

 

「戦略論大系」シリーズ再読開始!

自分は軍事マニアではないが、軍事書・戦史書もポツポツ持っている。

最新書よりは古典が多いが。

戦略理論・思想への関心が強いためだ。

そういいつつ、なかなか手が出なかったのは、ともかく専門性が高すぎ、「どこからどう手を付けていいのか?」が分からなかったことだ。

 

軍事戦略理論・思想は、相当の「教養度」を要求される、というのが自分の考えだ(軍事マニアを除く)。

政治センスもそうだが、用いられる軍事技術、組織や社会・個人のあり方や心理、その育成、情報・情報発信のあり様、どのような目標へと集約してどう運用するか(それが「戦略」に他ならない)等、ともかくトータルな「文明理解」「人間理解」がカギになる、と捉えているのだ。

大組織の偉いさん辺りになれば、参照できることもあるだろう。

無論、それも軍事知識や関心があればの話だが。

 

「戦略論大系」シリーズは、独自の理論体系を扱ったものでなく、孫子クラウゼヴィッツ石原莞爾といった軍事戦略思想家の古典(抄出)の集成シリーズだ。

軍事的関心の追い付かなかった自分は、今までに少ししか目を通してない。

 

「行けるな」と思ったのは、軍事史・軍事戦略理解を深める、自分の中のキータームとなる概念を定位できたからだ。

それがあれば、世界史上のあらゆる時代・地域の戦争史を一気通貫で見ることが出来る。

戦略思想・軍事思想もそうだ。

 

自分の狙いは、軍事マニアになることでも、戦史研究でもなければ、戦略の単なる学習でもない。

それは手段に過ぎない。

自分の目的は、自分独自の戦略思想・理論体系を構築することにある。

 

軍人でもない自分がそれをやるのは変か?ということは全く感じていない。

戦争のあり方が、かつてとは根本的に変わったからだ。

一口に言えば、「情報操作と文明社会攪乱・阻害」への移行。

テロリズムも含む)

一方で、軍事戦略そのものは、科学技術自体は大幅に進歩した故の兵器や戦術変化は見られたものの、それらは近代戦の「進歩」の延長線上で殆ど捉えることができる、と見ている。

 

かつて、「日本人は戦略的思考が苦手だ」という言説が広く成されていたことがあった。

今なお、そう思っている人も少なくないかもしれない。

自分は、「本当にそうなのだろうか?ただトレーニングが成されてないだけではないのか?」という「懐疑」から始まったのだ。

 

戦略というのは、「フレームワーク」(視点・捉え方)であり、理論的思考・モデリング的思考に慣れていないと、なかなか習得は難しいのは事実だ。

「やろうと思えば誰でも」というものではないし、その必要も実際ない。

「頭脳を伴うリーダーシップ」、または「それを支える頭脳(いわば参謀や軍師)」ポジションを目指す人物には必要だ。

あるいは、大組織ではなくても、ゲリラ的に社会に広いアプローチをしたい人々にも重要な示唆を与えてくれるはずだ。

 

自分が戦略理論・思想をやろうと思ったのは、哲学との親和性も非常に強いと感じたからだ。

もっとも、始めた時点では、「どう繋がっていくのか?」は全く分からなかったのだけど。

特に、自分の場合は「インテリジェンス(理論)」に対する、深い独自の関心があったから続けられたし、視点を拡張しまた深められたのだと思っている。

 

もう一つ、「なぜ、今?」というのは、歴史=軍事史を深める知的・時間的余裕が生まれたからだ。

「世界史上のあらゆる時代・地域の戦争史を一気通貫で見る」と一口に言っても、かなりの時間と知的リソースを割かねばならないのは間違いない。

(無論、それをいきなりやるというのでなく、コツコツ少しずつということなのだが)

 

簡単な作業とは言い難い一方で、ある種の楽観もある。

教養が追い付いたということもあるが、自分なりの「コツ」が見えたというのが大きい。

自分なりのキータームを定位したと述べたのがそれだ。

「戦略」というのは、「戦争をモデルで理解する」カギ概念として機能するが、その場合も、「時代・地域の戦争のあり方の変化」を単純化できる工夫が必要だったわけだ。

 

既存の軍事戦略思想家というのは、ほぼ例外なく、そのための独自の彼らなりのフレームワークを持っているからこそ、その理論・思想の新規性を打ち出すことが出来ている。

今までは、ひたすらその模索の段階にいたということを意味している。

 

「歴史」という本領に立ち戻ってみても、「アジア史」「海港史」において、「日本も関与してきたアジアの海戦(白村江、元寇、壬申戦争、アジア・太平洋戦争)を一気通貫で眺める」という課題に、ようやく取り組むことが出来る。

 

「日本人が戦略的思考が苦手だ」というのは、上述の理論的トレーニングの欠如以外に、政治感覚の希薄さ、または政治構図(または政治史)の理解の困難ということも挙げられる。

「軍事は政治の一部に過ぎない」というのはその通りなのだが、日本では、多様な政治・社会アクターのふるまいとその政治力学の構図の中で「軍事・戦争」というものを捉えなくてはならない。

それは現代でも同じ。

なぜかと言えば、日本は「最大覇権国」(を目指したことはあるが)ではないし、恐らくなり得ないからだ。また目指すべきでもない。

 

少なくとも軍事的な意味においては。

「戦略」というのは、バランス感やポジショニングの実践的政治性も求められるわけだが、そこで「政治センス」の有無が問われるという訳だ。

「最強」の国というのは、「自分が最も強い」だけに、「空気を読む」ことには鈍感なこともある。(ジャイアンを想起してもらえばよい。笑)

「最強」を目指せない国というのは、クレバーなふるまいや立ち位置により、乗り切るよりない。

 

随分と抽象的な書き回しに終始してしまった。

が、「戦略」というのは、実際のところぬらぬらと掴みどころがないものなのだ。

これから理解が進んで、自分で理論化・体系化が可能になったとしても、その本質自体は特に変わりはなかろう。

 

 

ミセス批判騒動への冷笑

(かなり入り組んだ議論をしています。苦手な方は退出をオススメします)

 

Mrs.GREEN APPLEの「コロンブス」MVを巡る炎上騒動に関して…

 

全体的に「しょーもな」というのが基本スタンスではある一方、自分の力点は、「批判(者)や批判騒動そのものの浅薄さ」を問題にしたい、というのが本論となる。

(主に歴史=「歴史観歴史学歴史教育」の観点からの議論となっている)

MVの内容や、アーティスト、それを支える芸能・メディアサイドの浅薄は今さらここで俎上に載せるべきことは特にない。

 

この手の差別的内容やその無自覚が、メディアシーンや有名クリエイターの作品内で反映されて炎上する騒動は、近年枚挙にいとまがないといったところだ。

(今年は「逆ベクトル」=「バーベンハイマ―」における「キノコ雲」騒動は、「日本発」による顕著な批判だった点で画期だったとみている)

 

制作に携わったメディアやクリエイターサイドが、「何も学んでないのか」と厳しく批判される流れが、もはや「定番」と化した観もある。

「しかし…」とも、自分は思うのである。

「同様の騒動が繰り返されるのは、批判や批判者が浅薄で本質を抉れてない、かつそれ故に力を持ててないからじゃないの?」と。

 

自分は学生時代に「アジア史」をやったおかげで、「歴史学」(特に日本において)の視座とか、既存の学問領域区分のあり方(のおかしさや限界性)について深く考える機会があったし、その素地が、今でも「ハイコンテクストな文化・社会批判の文脈」理解やそのキャパを支えてくれている、という実感がある。

 

「多様性」「包摂性」というスローガンが唱えられ、次第に社会に少しずつ定着しつつある。

それ自体は好ましいし、当然そうあるべきだ。

しかし、自分はこの手の騒動の「浅薄さ」に強い違和感を覚えるのだ。

 

その正体は何か。

歴史観そのものをアップデートしないのに、社会観が改まる筈がない」ということなのだ。

そして、「そのアップデートの作業は、社会的に担保されてるの?されてないでしょ」というのが自分のツッコミである。

 

歴史観のアップデート」と一口に言っても並大抵のことではない。

それは、歴史学歴史教育そのもののアップデートが必要な部分もあれば、「昔子ども時代に受けた学校内容を、大人になってから再教育してアップデートする」といった作業も当然必要になる。

「これは今では差別になるんですよ」といった研修だけ受けても、「根幹の部分=歴史観・社会観の刷新」がなければ、その研修や研修後は、単にその受講者の「差別アクション暗記ゲーム」にしかならないだろう。

 

SDGs教育がデフォルトの子どもたちやZ世代と、そうでなかったそれ以前の世代を、一緒くたにしてしまうのは、やはり無茶だろうというのが一つ。

そして、「若者の浅薄な歴史観」は、結局は「浅薄な歴史教育歴史観」、すなわち「それも大人がもたらしたものでしかないでしょ?」というのが2点目となる。

 

自分がこの手の批判が「浅薄だ」と感じるのは、こうした「歴史観」への切り込みを避けて、単なる「リスクヘッジ・リスク対策の不足」に問題を矮小化しているように思えるからなのだ。

 

おっさんたちの頭がアップデートされてないのは論外だとして、「じゃあどうやったらそれが『体系的に』出来るの?」

「出来るとして、誰が、どんな視座においてそれが可能なの?」

「具体的にどう進められるの?」

といった疑問も浮かび上がってくる。

そして結局は、

「地位や権力を握っているのはおっさんだから、都度この手の騒動で葬り去っていくしかないよな」という、これまた定番の結論に終始していくこととなるだろう。

 

また、自分の冷笑にはそれとは別に、「メディア上で発言している人々の忖度」も含まれざるを得ない。

メディア上の発言者は、自分たちの立場(発言できる場とかその仕事)を失えないので、直接間接に世話になっているなら猶更、どうしても大手メディアやインフルエンサーへの遠慮がにじみ出てしまい、「手ぬるい批判」やその視座に転落せざるを得ない。

「せっかく批判するのに、なんでそんなズレた批判しかできないのよ?」という訳だ。

 

そして根本的なことだが、「歴史学歴史教育歴史観のアップデート」そのものも、全部追い付いていない、ということだ。

当然ながら、それは歴史学者や歴史教師だけの問題ではなく、「社会ぐるみ」で取り組むべき作業である。

「だけどあんたら、そもそもそんなに『歴史』に興味あったっけ?ないでしょ」というのが自分の最後のツッコミとなる。

 

自分は同アカウント別ブログで、映画を通じて、黒人差別やその運動性と歴史について深めたり考えたりしたことがある。

遠い夜明け(1988) - creconte’s blog

ユダ&ブラック・メシア(2021) - creconte’s blog

 

だから自分が「エライだろう」というマウントがしたいのではない。

これは、(自分の趣味・知的興味によるということもあるが)何かのガイドラインによったり強制によるのでなく、「自発性」による理解の積極的なアクションであるということと、そうはいっても、(単に「映画を観る」という単純なアクション一つでも)その「動機の調達」も、「実際の行動」も相当の気合と手間を要する、ということを強調したいのである。

 

「多様性」「包摂性」は、人から強いられて身に付くものではない。

自分自身が持つ社会観は、知識水準だけでなく、その人個人の人格と深く結合している。

それは、その個人だけでなく、その人が育ったり、今いる組織・業務環境とも関わってくる。

じゃあそこでは皆、そうした厳しいアップデートが皆にガイドラインとして強いていて、「自己矯正」できているのか、またそれが保証されているのか。

「制度的」に考えるなら、そうしたフローまで考えなくてはならない筈だ。

 

この手の批判や批判騒動には、今後も浅薄さや隔靴掻痒の感を免れまい。

しかし、それには構造的問題や限界性があるのも指摘しなくてはフェアではない、とも感じるのだ。

 

当然ながら、今の自分にその手の影響力があるという訳でもない。

残念かつダサいことには自覚的ではあるが。

 

「思想地図」別巻再読ー「ゼロ年代思想」との距離感

昔目を通していた、「現代思想×社会課題」をいくつかのトピック立てした好シリーズ「思想地図」別巻(NHKブックス)を再読することにした。

もっとも、当時は、4本(1日本、2ジェネレーション、3アーキテクチャ、4想像力)あるうち、前者2本のみを読んでいただけだが。

 

本格再読はこれからなのだが、今回は、自分が「ゼロ年代思想」に対して取っていた、極めて特殊な距離感について整理してみたい。

ゼロ年代思想」と言っても、本格的な思想家・哲学者と言えるのは、東浩紀唯一人と言って差し支えないだろう。他の論客には少々失礼かもしれないが…

無論、東周辺にいた多くの学者や論客たちの面々や、彼らの取り組んでいた課題群やその切り口などを知るきっかけになったのは間違いない。

 

ゼロ年代思想」というと、「過去の思想」のようなニュアンスとなり、今も活動を続けている彼らが「過去のもの」になっているように受け止められてしまうかもしれないが、別にそうした意図がある訳ではない。

そのような呼び方をするのは、便利かつ象徴的であるということと、実際に自分自身が彼らに対して意識すべきなのは、主に(いわば「震災前」の)「ゼロ年代」の取り組みに対してであろう、と見当を付けてのことだ。

 

ゼロ年代思想」に対する距離感やスタンスは、表現するのがとても難しい。

(そもそも向こうは誰もこちらのことや存在を知らず、こちらから一方的に知るだけに過ぎないのだが)

その頃は諸々模索段階の学生であり、なおのこと表現は不可能だったと言える。

そもそも、その頃は当然「社会課題に広く目配り」出来る余裕も持たず、自分自身の取り組みで精一杯、という状況でもあったのだが。

東浩紀のことは、当時組んでいた研究チームの学生から聞いて知った。

(それまで「同時代の思想家」の存在を意識したことがなかったのだ笑)

 

ゼロ年代思想」への距離感は、「即かず離れず、遠巻きから、時に慎重に観察していた」といった表現が当たっているのではないか。

ポストモダン思想(特に日本)全般と(切り離すことはできないのだが)、また別個に捉えようとしていた面が大きい。

「意識していた」のは間違いなく、変に吸収し過ぎて、自分の課題意識やアプローチが巻き込まれてしまっても困る、その一方で、違和感とか距離の遠さも小さくはないので「敬せず遠ざける」と言ったところだろうか。笑

 

東浩紀に関して言うなら、「フレームワークやアプローチ、扱いたい課題群が非常に近い」面もあった一方で、彼を含めた「ゼロ年代思想」とは、対象とする領域や素材、また社会課題に向き合う際の方法論が根本的に違う、という極めて複雑な構図にあった、と今ならば整理できる。

東浩紀は、言語思想・情報思想・メディア思想の「課題群」の捉え方=フレームワークに共通性がある一方で、対象課題・テーマやアプローチが異なっているのだ。

 

同時代性=共時性は、(勝手に)持ち得たものの、専門領域や取り組み方が違っている以上、直接の接点を持ち得ない、といったところか。

ただし、彼を含めた「ポモ(ポストモダン日本思想)に対する批判性・批判意識」自体が、自分自身の思想・学問世界の構築の足掛かりになった(またはそのヒントを得た)のも間違いないだろう。

(ややこしくなるので、「現代フランス思想」との絡みは今回は別建てにすることとする)

 

当時自分が取り組んでいたテーマとは、「大学改革・大学史」である。

ポモ=(1980s東大中沢人事騒動における)「駒場派」を構成すると考えるならば、自分は敢えて「本郷派」(「専門知」の立場)に立つ、と便宜的に捉えてもらってもいいだろう。

また自分は、(現代フランス思想も含めた)ポモの「文学主義」に強い反感を持っており、「反文学主義」を取ってもいた。

「そこ(=ポモの主導した人文主義)には、学問や大学の未来はない」と直感していたのである。

と、今でこそ偉そうに振りかぶっているが、当時は訳も分からずもがいていたに過ぎないのだが…

 

何が根本的に違うかと言えば、(「文学(主義)」とも結節しているが)「メディア」へのスタンスではないか、と感じている。

学生時代は、「メディア」をどう捉えるべきか、どのようなスタンスを取ればいいのかへの答えは出せなかった。

既に勢力は衰退しつつあったものの、凋落や大衆の離反は今ほど決定的にはなっていなかった(ホリエモンによる課題提起への反動が大きかった)時期と、振り返ることが出来るだろう。

まだSNSの影響力も決定的ではなかったし。

 

「大衆的メディア」の影響力を利用しようとも乗ろうとも思わない。

この特殊性こそが、自分の特殊性と言える。

(自分がGoogleのスローガンを憎んだような)「否定命題」ではないか、と思われるかもしれない。

が、実際のところはこうとしか言いようがない。

自分の「仕事」を通じてのみ、「世(世間)」と繋がろうとしている、という。

「自分というアイコン」に無興味ではないが、それを「メディア」や「ネット」と繋げるという発想がないのだ。

時代のトレンドと完全に逆行しているのだが。

 

「思想地図」別巻再読は、こうした自分の論考や戦略を、具体的なトピックを元にして、世に展開できやすいようにポジショニングする作業となると想定している。

 

カムイのうた

(ネタバレ注意)

珍しく、というか本ブログでは恐らく初の、公開中の映画感想。
どうしても見たくて、少し遠くまで足を運んだ。

事前の情報収集はしない習慣で、迂闊にも映画が流れてしばらくして気づいたのは、知里幸恵の伝記的作品だった。
アイヌ民族の問題(正確には、自分個人ではそういう括り方はしてないのだが。いずれ機会があれば整理したい)は前々から関心があり、本を読んだり、北海道旅行で関連スポットを訪れたりもした。

アイヌ問題は、「和人」たる自分自身の「当事者性」を鋭く問われる問題だ。
何より、「少数民族」として、マイノリティ集団・個人として日本社会に生き続ける人々がいる。
彼ら・彼女らと、どう向き合うべきなのか。

「歴史」や「言語」はそもそも、「和人」とはそのあり様そのものが異なる。
というより、「宗教・習俗」全般がそうだ。

アイヌ文化というのは、「知れば知るほど、どんどん知りたくなる」魅力がある。
今回は逸れるので深くは踏み込まないが。

この映画では、知里幸恵の生涯が主軸だが、「大日本帝国」と、近代のアイヌを取り巻く差別環境をつぶさに描いている。


自分には、こうした「外にある」社会・文化・歴史問題ではなく、(少なくとも間接的な)「当事者性」も実はある。
そして、取り組みたい独自の切り口も。
しかし、「関心の全方位性」故に、逆に「どう視点を絞り込んだらいいのか、どんなスタンスを取るべきか?」が難しい。
というより、「この視点から」と決め込もうとするほど、それがどんどんカッコに入り続けていく、「入れ子構造」から抜け出せない。

今回は、映画感想に則し、自分の視点のうちで最重要な、「現代アイヌ」について整理して結びとしたい。

 

・投票で副級長を覆すクラス   

 主人公テルが、旭川の実業学校に入学した際、入試成績2位の慣例として、担任はテルを副級長にしようとするが、「アイヌの子にさせられない」という学級内投票により、別の和人の子が副級長に選出された

 和人の子らは、「なぜアイヌの子がいるの?『土人学校』でしょ」と聞えよがしに言う。

 憧れるアイヌの妹分の子に、テルの「勉強なんて大切なものなの?」と問いかける言葉が突き刺さった。

 (高等女学校は「軍人子女が通う」前提で、成績抜群だったテルは不合格とされた)

 

教育勅語を唱和

 「大日本帝国」で、「教育勅語」が「国民統合」にどのように運用されていたのかを具に知り得たシーン。

 近年、「教育勅語」再評価(?)する保守派的視点としては痛撃となろう。

 

・軍人になって、「差別されない強いアイヌ」になる

 テルの幼馴染の一三四は、言われなき差別を繰り返される現実に決意する。

 テルは反発するが、軍人になることは、「帝国」内の構造的差別から便宜的に抜け出す「階層平均化」の手段として作用していたことが窺える


・妻を和人にさらわれ、取り返しに行ったが「弓を向けるが放たなかった」

 「和人社会内のアイヌと武器」の描かれ方としては印象的。

 生きる苦悩の中、「武器、武装抵抗」を(半ば強いられ、半ば自発的に)放棄する彼らの心的過程が映し出される。  

 

・「墓泥棒の人類学」

 「アイヌ遺骨返還」問題については、以前から興味を抱いていた。

 これは、「民族問題」だけでなく、自分自身も「科学的関心=『日本人のルーツ』はどこにあるのか?」と、まさに「二元的」関心となっている。

 それにしても、「墓泥棒」で掘り起こされて、「人類学的研究」が成されてきた、という事実は衝撃過ぎた。

 「土葬で墓参りをしない」という風習につけ込むあくどさや、交番にアイヌの一人が届けようとしてもろくに相手にしようとしない、という偏見と障壁にも、頭をガンとやられ多様な気分だった。

 
金田一(映画内では兼田教授)とlanguage exchange  

 「文字のない社会の口承文学」としてユーカラの意義を見出し、知里幸恵を力づけてその功績を結晶させた金田一の偉さは、強調してもし過ぎることはないと思う。  

・鮭を運ぶ強制労働

  極寒の中でアイヌの作業が行き倒れてしまう、まさに「奴隷労働」同然の様子が描かれる。これは近世、江戸期からこの流れがあった筈だが、(歴史書の記述でなく)具体的に描かれると、「和人としての罪深さ」を実感せざるを得ない。

   
・出版、文学、民主主義、文体  

 ユーカラ翻訳に出版の話が持ち上がる一方で、出版社側は、身元を明らかにして出版することで、差別の目からテルに攻撃を加えられることを危惧したが、彼女はそれを押しての出版を決意する。

 日本の「民主主義」が面白いのは、「良くも悪くも」「文学」と共犯(=ここは「共同作業」が正しいか)関係にあることだ。

 自分個人としては、特に日本人には顕著な、「社会問題」を正面から見詰められず、誰かしらから、または当事者からの「文学待ち」のようなスタンスというのは不快で憎悪すらしている。

 が、「社会問題」には、固有の「伝え方・伝わり方」というものがある。

 「文学」が、「メディア」の手を借りて「民主主義」を部分的に補完した役割を認めないわけにはいかない。

 

 もう一つは「文体」。

 自分は、何度か読もうとしたが、「銀のしずく」そのものには、今までさほどの関心は持てなかった、というのが正直なところである。

 アイヌ民族の宗教習俗的背景や口承文学的伝統を理解できてなかったということと、ユーカラという、いわば文学的な世界観に無興味だったという、トータルかつ根本的な事情による。

 が、映画を観ると、そもそも史的背景(「アイヌ神謡集」刊行は、幸恵の死翌年の1922(大正11)年)や、その頃の「文体」的背景への無理解、ということも大きかったと感じた。大正デモクラシーの頃のことだ。

 

・タトゥー差別の日本社会  

 現代日本では、ヤクザ的連想から「タトゥー」を入れている「日本人」は特に厳しく社会的に糾弾される風潮(銭湯などでは入場禁止がうたわれる)がある。

 筆者は、これは「アイヌ民族の視点からみたらどうなるの?」という点で、前々から疑問視していた。

 

・近代アイヌの覚醒   

 このような括り方は、そもそも「差別的だ」と問題視されるかもしれないが、やはり「アイヌ自身の民族意識」が、「近代的な意味で」覚醒したのは、やはり知里幸恵の翻訳の業績を端緒と見るほかない、と捉えている。もしかしたら、これこそは一種の言わば「オリエンタリズム」、「和人固有のアイヌ史観」なのかもしれず、これから「矯正」を強いられるかもしれないのだが。その過程には、対話とか理解の深化がある筈であって、それはそれで良いし、そうあって然るべきである。

 

・現代アイヌと近代アイヌ 民族・差別問題としてのアイヌ

 自分の「アイヌ民族の問題への関心」というのは、(「和人」としての・「日本人」また「日本社会に生きるもの」としての)「当事者性」を有したものであるが、その上で、多面的かつ重層的な関心を有している。それは、上述の感想でも推知できるだろう。史的関心=「日本とは何か、日本人とは何か」を、アイヌ民族とその問題を通じて考えていることは言うまでもない。沖縄との比較的視点においても。

 

 当然なのだが、アイヌ民族とは、「死んだ、滅んだ民族」ではなく、今日本社会で生活する人々だ。博物館に飾られている歴史や文化ではない(「観光アイヌ」というあり様そのものが問題となる訳だが)。

 自分の視点はやや特殊で、「日本社会に生きる、アイヌアイヌ民族内部の葛藤」に焦点があるように思っている。

 

 無論、「大日本帝国とその遺制」が破壊し分断した訳だが、北海道のアイヌと、道外・本州にいるアイヌ(「ディアスポラ(離散民)・アイヌ」と個人的に呼んでいるのだが)との間の視点やスタンスは、全く異なる。

 本州にいるアイヌは、民族意識があっても「北海道アイヌ中心」の考え方に違和感や反発を抱くこともある。

 

 そして何より、自らのアイデンティティの在り処とその継承の方向性だ。「北海道で生活し、昔の生活を取り戻す」ことなのか、それともアイヌ語アイヌ文化を復興・復権させる方向なのか。アイヌの観方や取組は、必ずしも一様ではない。個人差もあれば、世代間格差、関心の格差など様々な差異を踏まえねばならぬ。

 これを、筆者は「アイヌ民族問題」の中にはあるものの、「史的なアイヌ民族・差別問題」からある程度分けた、「現代アイヌ」の問題性として捉えている。

 

 そして、「近代アイヌ」とは、上述の通り、「近代的な民族意識」覚醒に随い、法や民主主義、またその見直しを迫りながら、「(主に)日本社会内の少数民族」としての権利主張と承認を求め、また文化と伝統復権を求めてきた動きである。

 自分の「史的関心」というのは、こうした主に「現代に生きるアイヌ」理解に直結する視点として整理できる。