はてなキーワード: 末法とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/plumyogamat/status/1193810840807362562
ここでも触れらているがきっかけの一つとなった当該弁護士への誹謗中傷やセクハラ(以下誹謗中傷等)がひどすぎる。
以前からジェンダーや性差別からみで当該弁護士が批判するとそれに対して誹謗中傷等が大量、特にオタクカルチャー分野だとさらに多くの誹謗中傷等がよせられる。
擁護側は「法も論理も弁えなず、自己の信じる正義を盲信して感情的な行動をとる」と批判者側を解釈したがってるけど、実態は擁護側の人間がそうなんだよ。
でブコメの反応でも不当な侵害行為への法的措置の予告をやくざの脅迫に例えるのは二次加害といえる。
さらに、DD論まであるが、誹謗中傷等と批判の区別がつかないのは、衆を頼んで無理を通すなら格別理性的な議論をする資格がないので、排除した方がいいと思うよ。
火をつけたのは向こう、とか、最初に攻めてきたのは向こう、とかも批判と誹謗中傷等の区別がついてないので本当、リアルでは気をつけてね。
で、そんなのは一部だと切断処理したがってる人いるけど、有象無象の零細アカウントのみならず擁護側の複数のアルファツイッタラーや弁護士、政治家、大学教授までが誹謗中傷等をなしており、さらにリプも賛同あるいは面白がって付和雷同するのが大半という末法状態。
たとえば今回の件にかんして献血ボイコットを訴えた批判者は、同調するものもいたがそれ以上の批判者側の人間にそれはおかしいと指摘されていても、今だにフェミが献血ボイコットしたとか擁護側が騒いでいるのに、これじゃ切断は無理じゃない?(なお、朝日の報道後、擁護側にも日赤を攻撃、献血ボイコットを主張するものがいたが、なぜかぜんぜん話題にもなってないね)
大学教授はさすがにアカンと思ったのか「侮辱的と捉えうる発言をした」とぼやけた謝罪をしてたけど。
当該弁護士の写真(そういえばこれ、肖像権や著作権の侵害になるうるんじゃない?)を示して顔がどうだとか、胸がどうだとか、人間性を疑われても仕方ないよ。
直接面向かってなら言ったらいけないと分かるような誹謗中傷等も、ネット越しだと気楽に言えちゃうのかね?
あるいはエコーチェンバー内にいると周りがみんな同じ様だから大したことないと誤認しちゃうのかな?
まあ、擁護側の人間は平気で面識もない人間に誹謗中傷等をして、それをおかしいと思うものもあまりいない。とは言えるんじゃないかな?
まあ、何度負けても何も学ばず同じことを繰り返すのは勝手にしろだけど、誹謗中傷等をはしゃいでやるのはドン引きだよ。
大学時代、若くて魅力的なバイトだけに選択的に肩を触ったりするセクハラ店長いたけど、それを見てるのと同じ気分。
あと、当該弁護士の賛同者を「ファンネル」呼びするのも、意見の対立する相手を個人として扱わず、誰かの指令で機会的に行動するものと言う印象を与えたいんだろうけど、これも「ファンネル」呼びする人間が誠実に議論の相手になりうるかについて深刻な疑問を感じさせるのであんま良くないよ。
東京国立博物館や地域の博物館とかで経塚やそれに関する遺物を見かけることは多い。
経塚は、昔の人が末法の世になってもお経が伝わるように、地面にお経を埋めたものだ。
経文と共に仏像なんかも安置される。
埋められた経文を埋納経という。金属などで出来た容器は経筒という。
埋めたものが何かの拍子で出土することがあるのだ。
埋める際には、当然末長く伝わることが目指された。
経筒を密封することはもちろんだが、まわりを石で作った入れ物でさらに封をする場合が多い。
お経は紙で、溶けてしまって今に伝わらないが、後世にはお経を石に掘って埋めたり、石に墨書して埋めたものもある。
いつまで仏法を伝えればいいのか? それは56億7000万年後だ。
弥勒菩薩が現れて再び衆生を救済するまで、末法の世は続くのだ。
経塚関係資料を見ながら、埋めた人々の想いはいかばかりだったかと想像する。
色んな苦しみが今よりずっと多い時代。
拠り所とするお経というか仏教がなくなるかもしれない。伝わらないかもしれない、という想い。
金と権力がある人が示威的にやっている側面ももちろんあるだろうけれど、それだけで切りとれない要素もある。
未来に向けて伝える、という何か意気込みのようなものが実物資料から伝わってくる。
ところで、私たちは銅鐸の使い方を知らない。
多分こうだろうというのはあっても、精確なところは解らない。
銅鐸に限らず弥生時代の祭祀具は、使い方がわからないモノが多い。
さらに前の縄文時代の祭祀具(と思しい)考古学的資料も、やっぱり精確なところの使い方は解らない。
皆忘れてしまったのだ。歴史のどこかの段階で、忘れてしまった。知る人が一人もいなくなってしまった。ある種の絶滅だ。
銅鐸に替わって登場する祭祀具は鏡だ。こちらは解る。今も神社に奉納してある。ご神体のような使い方をする。伝わっている。
このあたりから、何となく使い方が実感としてわかる資料が出てくる。
例えばいきなり経塚から石板に刻まれたお経が出てきたとして、その名前や考古学的な背景が解らなくとも「うわなんかお経が書いてあるぞ」くらいはわかったりする。
あるいはそこまで行かなくても、「何か文字が書いてあるぞ」とわかる。
この辺りで「これは何か重要なものかもしれない」と多くの人は感じとることができるだろう。密封されてもいるわけだし。
専門的な仕事に携わってなくとも、例えば土木工事や農作業で経塚が今に姿を現したら、「なんか仏教関係ぽいのがでてきた」と思えると言うわけだ。
私たちは仏像なりお経なりを見たら、直観的にどんな分野のものであるか理解できる社会に(今も)生きている。
科学が発展しようが、未だに路傍には地蔵があり、葬式でなんだかわからんままお経を唱えたり、する。
仕組みを何となく掴んでいる。
そ私たちは仏教になじんでおり、仏教を今から未来に伝える一翼を担っている。
銅鐸とはここが違う。
そういう意味では、古えの人々の想いは伝わっている。
平成が終わろうとしているが、その時代にあっても仏教にまつわるものだと素人でも判断できる社会だからだ。
難しいけど、科学が発展した時代だけれど、こうした直観でわかる宗教的バックグラウンドは大切なものと思う。
今はかなり色々なことがわかる時代だが、そうじゃなかった時代に人々の心のよりどころになった考え方とその資料。
※詳細版
神話時代:天照大神が岩戸に隠れて真っ暗!!この世の終わりだ!
7世紀:白村江の戦いに負けてしまった!唐の大軍が攻めてくるぞ!!
19世紀:黒船キター!!日本も欧米列強の植民地にされるぞ!!
1920年代:不況で娘は身売りせんとあかん!昭和維新せな日本は滅亡や!
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1945年:大東亜戦争が敗北に終わるなんて!日本はもう滅亡だぁああああ
1960年:米ソ核戦争が起きて日本も巻き込まれるぞ!ヤバイヤバイヤバイ
第2次ベビーブーム:このままじゃ人口増加で資源と食料がヤバイヤバイヤバイ
1973年:石油ショックで高度経済成長が終わった!日本はもうおしまいだ!
1989年:今のバブル景気はまやかしだ!道徳的に堕落した日本は滅亡する!
1991年:そら見ろバブルが崩壊した!!驕った日本人に罰が当たったんだ!!
1995年:阪神大震災に地下鉄サリン事件、日本滅亡が始まったぞ!!
1998年:北朝鮮が弾道ミサイルを開発した!今すぐ戦争になるぞ!!
2100年:■■が起きた!今度こそ日本は滅亡だ!!
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無限に続く予定
日蓮宗では、本迹一致を立てている。この本迹一致論は、
天台大師が『法華玄義』に説いた「本迹異なりと雖も不思議一なり」との解釈によるもので、
大聖人様の御教示ではないのです。
迹門という小さな川も、本門の大海に収まれば同じ海水となるという、
決して身延のような本迹二門を対等に見た上での「一致」を説くものではないのです。
大聖人様は『治病大小権実違目』に、
「本迹の相違は水火・天地の違目なり」と、
本門は事の即身成仏なり」と法華経の本迹の相違を明確に御教示されています。
法華経本迹二門は、
その説かれる法体においても勝劣があり、
しかし日蓮宗では、「実相一体」や「本迹未分」という勝手な解釈を加え、
「本迹一致」の邪義を主張していますが、
宗祖の正意に背く謗法の論となることは明らかです。
それを要約すれば、
二、釈迦一体仏
三、大曼荼羅
四、一尊四士
五、二尊四士があり、
このうち一、と三、を法本尊、
二、四、五、を仏本尊とし、
その中心は三、の大曼荼羅と、
四、の一尊四士であるが、
祖書の教示等に照らし、
『此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。
末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか』との御文を挙げ、
「仏像出現」の語句によって本尊は仏像が正意であるとしています。
末法の仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければなりません。
後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく、
あくまで現実に現れるということを示されたと拝すのが正しいでしょう。
「此の時地涌千界出現して、
「本門の釈尊を脇士と為す」を「本門の釈尊を脇士と為る」と誤読し、
一尊四士が正意であるとしている。
しかし、宗祖が御在世中に一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、
との御教示ではありません。
法本尊について御教示された御書に照らして見ればいっそう明らかです。
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり(草木成仏口決)」
「妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼荼羅は文字は五字七字にて候へども、
三世諸仏の御師(中略)此の曼荼羅は仏滅後二千二百二十余年の間、
十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり(本尊文答抄)」
日蓮大聖人様の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、
【補足】
(二、)釈迦一体仏
男性器がカジュアルに「ちんちん」「おちんちん」「ちんぽ」「ちんこ」と呼ばれているのに対し、女性器の呼称は人前で口に出すのを憚られる言葉となっている。
よくよく考えれば不思議なことだ。誰もが一度は疑問に思うところだろう。
それは女性器がカジュアルに呼ばれることによって、人々は邪淫に染まってしまうからだ。
おちんちんという淫らな概念が人前で平気で口に出せてしまう存在となっているのは、人間の耐え難い煩悩の発露なのである。
そこにもし、「おまんこ」という呼称が補完されてしまったらどうなるだろう?
男性器と女性器を常に意識した人間は当然、ある一つの考えに取り憑かれる。
そう、セックスだ。
おちんぽに加えおまんこをも日常的に意識してしまえば、人間など淫らな煩悩が抑えられず、セックスのことしか考えられなくなる。
そうなれば結果は目に見えている。老いも若きも年がら年中セックスをするだろう。当たり前だ。
現代の我々は、盆になれば墓石に水をかけ、手を合わせているが、その行動自体は無意味だと知っている。
死んだ人間に意思などなく、故に墓に参ったところで喜ぶこともないと理解している。
極楽も天国も煉獄も地獄もなく、最後の審判も閻魔様の裁きもないとわかってしまっている。
正確に言えば、ずっと前から、みんなそんなことはわかっていたのだろう。
ただ、わかっていないふりをしていただけで、いずれはそのふりもやめるのではないかと思う。
どんな人間もいずれ死に、その心が消えてなくなるというのは、ある意味で救いでもある。
しかし、現代の日本では、それが悪い方向にばかり影響している気がする。
家族を作ったところで何の救いにもならない。
そして、宗教がその説得力を失いつつある今、これに対抗するための代用品も存在しない。
ただ、その辺を深く考えても仕方がないから、努めて触れないようにしているだけである。
この界隈に詳しくないので、どういう仕組みでやるかは予想もつかないが、
いずれさらに発展する技術で個人の人格を仮想化し、ネットワークに送る。
言わばバーチャル死後の世界というべきものを構築するのである。
現実の人生に生活費が必要なように、仮想世界の生活にもいくらかの維持費が必要だろう。
そして、生きている間はなんだかんだで政府が面倒を見てくれるが、
死後はそうもいかないかもしれない。
あの世の沙汰も金次第である。結局、頼れるものが己の金(と子供)だけとなれば、
金を稼ぐ気にもなるというものだろう。景気回復の一助になるかもしれない。
何より重要なのは、システムの維持には未来世代が文明を永続させること、
そして、彼らの手と意思により、自分たちの存在を維持してもらう必要があるということだ。
子供がいなければ将来の担い手もいなくなるのだから、少子化も一気に解決である。