はてなキーワード: 家庭科とは
結局家庭でどれだけやらせてるかな気がする
仕事と同じでできる人に教えてもらって、基本的なこと学んで失敗してもできる人にリカバリー方法教えてもらったりコツ教えてもらったりとかあると、取り掛かりやすいし苦手意識もそんなにない
1958年、学習指導要領が男女の学習内容を分けるものに変わった。
中学校では男子は社会で役立つような「技術」を、女子は家庭の担い手となることを想定した「家庭」の内容を学習するようになった。
この方針は後々撤回され、中学校は1993年の全学年から技術・家庭科として男女共通授業に戻り、高校は1994年入学の1年生から家庭科の授業が男女共通になった。
男性は家庭科を学ばなくて良いという価値観は、実のところ長い歴史を持つものではなく、「高度経済成長への対応」のための限られた時期の国策である。
文科省が男女差別方針を採用していた時代に中学校に通っていた世代の男性は、女性が家庭科を学習して生活を支えるから男性は家事無能でOK、
男性ならば製造業の労働者であることに専念しなさいという学びを「義務教育によって」押し付けられており、結婚できなければ生活が終わるリスクが相当高い状況に追いやられていた。
若い世代で家事ができない男性については、本当に自業自得。少なくとも男性差別の結果ではない。
1993年以降に中学生だった世代については男子も平等に家庭科教育を受けられているので、家事教育の機会が女性と均等になっている。
何も知らない人間については「義務教育で習ったのに真面目に授業受けてなかったんですね」となり、文科省・国策による男性差別のせいなどではないし、
今の時代に至ってはYouTubeもレシピサイトも、無料でアクセスできるノウハウが大量にあり、何の言い訳もできないくらい充実している。調べられるのに調べていないだけである。
しかし高齢男性が家事無能化したのは文科省が男女差別方針をとっていた時代の男性であり、インターネットを使いこなすのも年齢的に厳しかったりするので、
国策として家事無能の製造業従事者を生産しようとした結果がこれであり、100%の自業自得とは言えないのではないかと思う。
文科省は「ゆとり教育」をやって撤回したように、「男性に家庭科を教えない教育」をやって撤回したのだ。要するに、失敗したのだ。
家事無能の彼らは失敗した教育方針の被害者であり、だから独身男性の生活の質は既婚男性よりも極度に低レベルなものになり、15年も短命なのだ。
当時のことを思い出しながら書いたので、良かったら読んでみてほしい。
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俺が中学生だった、ある日のこと。
朝登校すると、校舎の一階にある理科室の前に人だかりができていた。
10数名の野次馬らしき学生と、バケツと雑巾を持った数名の先生たち。
よく見ると、校舎内の廊下の床が濡れている。
野次馬を避けつつ廊下から理科室を覗いてみると、理科室の床も一面水でひどく濡れていた。
水が少し溜まっている箇所さえある。
さらによく見ると、四方の壁が、高さ1メートルくらいの部分まで濡れている。
「何があったんですか?」
「私が朝学校に来たら、理科室の中に水がプールみたいに溜まってたんだ。
扉を開けると一気に水が出てくるから開けるわけにもいかず、バケツで水をかき出して窓から出してたんだよ」
先生は、汗だくになった顔をぬぐいながらそう答えた。
「えっ、なんでそんなことが起きたんですか?」
理科室には、実験等で使うため、蛇口と流し台が各テーブルに備え付けてある。
「そうだったんですか。ということは、蛇口が壊れてたんですか?」
「いや、そうではないんだ。水をバケツで汲み出した後、部屋の中に入って蛇口を閉めたんだけど、
ちゃんと水は止まった。何度か開け閉めしたが、壊れた様子はなかったんだ」
「え、じゃあ何が原因なんですか?」
「それなんだよな・・・」
先生はため息をついた。
先生によると、蛇口の栓は最大まで開けられて、蛇口から水がすごい勢いで出ていたそうだ。
「じゃあ、誰かが夜に忍び込んで、蛇口を開けたとか?」
「いや、それはない。部屋の入り口の扉の鍵は閉まっていた。窓の鍵も全部閉まっていたんだ」
「え?」
「昨日の鍵閉め担当の先生にも聞いたんだが、確かに昨日の夕方、理科室の窓が閉まっていることを確認して、
入り口の扉の鍵を閉めたと言っている。」
「ということは、誰かが夜に入ることは?」
「ありえない。蛇口から水が漏れてたこともなかったそうだし・・・」
相当参っている様子だ。
「でも私は、これは誰かがイタズラでやったんだと思ってる」
「え、そうなんですか?」
「理由はいくつかある。一つは入り口の扉の隙間に、雑巾が詰められていたことだ」
「雑巾?なんでまた?」
「水が隙間から漏れないようにさ。入り口から水が漏れたら中に水がたまらないだろう?
雑巾は外から詰められていたから、鍵が閉められた後、誰かが詰めたんだろう」
「そんな・・・」
「もう一つある。水が出ていた蛇口の流し台。そこの排水溝にも雑巾が詰められていた。
水が流れていかないように、そして水が跳ねて外に出やすいように」
「・・・ということは、誰かがやったと?」
「そうとしか思えない。残りの5つの流し台の排水溝は開いていたから、幸いそこから水が流れていき、
それ以上は水がたまらなかったようだが」
「でも、中に入れないのにどうやって蛇口を開けたんですか?」
「分からない。でもきっと方法はあるはずだ。これは意図的に仕組まれたものだ」
先生はそう言って床の清掃に戻った。
教室に戻っても、俺は理科室の事件のことが気になって仕方がない。
授業にも集中できない。
よし、明日になったら先生を捕まえて、その後どうなったか聞いてみよう。
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早速呼び止め、昨日の事件について聞いてみた。
「うん。推測でしかないが、きっとこれだろうというのは分かったよ」
「えっそうなんですか!?」
「まあ断定はできないんだけどね」
「まず気になったのが、蛇口の水の勢いだ。なぜ最大まで栓が開けられていたのか。
すごい勢いで水が出ていたんで、これは何か意味があると思ったんだ」
「意味?」
「いや、知りません」
「大抵の学校の水道の水は、一旦貯水タンクに貯められ、そこから学校中の蛇口へ給水されているんだ。
この中学校もその仕組みになっている。
貯水タンクは校舎の外の庭の一角にあり、そしてその貯水タンクを調整するバルブもそこにある。
フェンスで囲まれてはいるが、校舎内に比べれば簡単に入れるんだ」
「なるほど。そんな仕組みになってるんですね。
「理科室には鍵がかかっていて入れない。
でも貯水タンクのバルブは校舎の外にあるから、誰でも操作できるのさ。
すると、バルブが最大まで開けられてたんだ」
「最大に?」
「そう。管理している係の人に聞いたら、普段は中間までしか開けてないそうだ。
最大になんて開けたりしないって」
「・・・じゃあ誰かが最大にしたんですか?」
「?」
「夜の学校は全ての蛇口は閉まってるだろう?犯人はそこに目をつけたんだ。
学校すべての蛇口の栓が閉まっているのに、たった一つだけ蛇口が開いていたら?」
「・・・?」
「犯人は夜に理科室の蛇口を開けたんじゃない。元々蛇口は開いていたんだ。
すると水は止まったままだ。
しかし、貯水タンクのバルブを最大にしたら、それ以外の蛇口は閉まっているのだから、理科室の蛇口に一気に水圧がかかる。
すると理科室の蛇口の栓が抜けて、水がドバッと流れてくるってわけさ」
「・・・!」
「もしそれなら、きっとその栓が理科室に残っているはずだ。
私はそう思って、理科室に戻って探したよ。
昨日みんなで部屋を片付けてた時に捨てたのかもと思い、
ゴミ箱を漁ってみた。するとこれが出てきた」
「これが・・・」
「まあ、これも推測にしかならないけどね。
でも理科室でこんなコルク見たことないからね。誰かが詰めたんだろうな」
そこで私は、理科室に水が溜まっている時に浮かんでいたものを思い返してみた。
確かめるためにゴミ箱を見てみると、やはり雑巾とビニール紐があった。
雑巾とビニール紐・・・・つまりコルクで栓をし、その上から雑巾をかぶせ、ビニール紐でくくったんだじゃないかな。
これなら水圧に耐えられる」
理科室の床に実験器具や資料を置いてたんだけどね。それらが全てテーブルの上に置かれていたんだよ。
水はテーブル横の流し台の排水溝から出ていくから、それ以上は水位は上がらない。
だから濡れなくて済んだんだよ。
つまり、今回の事件で被害を受けた物は一つもないんだ。教室は濡れたけど、乾けば元に戻るし。
まあ、椅子だけは水にプカプカ浮いてたけどね」
「ということは、被害がなかったということですか」
人を傷つけない愉快犯、イタズラといったところかな」
いつもと変わらない授業風景。
しかし、生乾きの椅子に座り、しっとりと湿る床に足を置くと、事件が本物であったことが実感として湧き上がる。
ふと、昨日水が出ていた蛇口を見る。
そんなことを思いながら時間は過ぎていった
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20年以上が経ち、今に至る。
犯人は誰だったのか?
俺はこれを書きながら、一つの仮説を思いついた。
それを聞いてほしい。
一体犯人は誰なのか。
動機は何だったのだろうか。
どこかで聞いたトリックをやってみたのだろうか。
もしくは、自分でトリックを思いついたから、試してみたかったのだろうか。
きっと後者だろう。犯人は、自分の発想が正しいか試したかったのだ。
頭で考えた理論を立証する。
そう、実験。
なぜ理科室だったのか?
そのためには、鍵担当の先生が扉の鍵を閉めた後に理科室に行き、扉に雑巾を詰める必要がある。
それなら、学校外の人間が校舎に入り理科室に行くのは、相当リスクがあるのではないか?
つまりその人物は、理科室の前にいてもおかしくない人物なんだ。
先生だ。
そもそもなぜ理科の先生がそこまで推理ができるのか、不思議ではないか?
都合よくコルクや紐が見つかるのも怪しい。
またトリックも学校の仕組みに精通していないとできないし、その実験が成功したかを現場で見たいはずだ。
・・・いや、何考えてるんだ。
そんなはずがない。
自分が授業で使う理科室を水浸しにしたくないだろうし、当日の慌てっぷりは本物だった。
こんな罪の押し付けはもうやめよう。
先生はそんなことをする人じゃない。
俺がそれを保証する。
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もし今度、同窓会があったら。
そしてもし先生に会えたら。
俺は悪戯心を込めて、こんなことを言ってみるつもりだ。
長年秘めていた隠し事を明かすような顔をしながら。
深い暗闇に住んでいて、ときおり我らの住む浅瀬へ浮いてきては我々を魅了する。しかしいくら個体を調べたところで、その生態は深海に生きる者しか知らず、浅い海に生きる者にとっては永遠の謎でしかないのだ。
……こんなことを真顔で言ったら一発で社会的に死ぬかもしれないが、女性とは何者なのか、小さい頃から気になっている。
筆者には女性の服の下にあるものをよく知らない。というとまず、母親の裸くらい見たことあるだろという反論が飛んでくるだろう。厳密には、筆者は先天的に視力が悪かったために、両親の身体的な区別がつかなかった。要するにぼんやりしていて記憶にないのである。幼児期には男女で混じってトイレや入浴、着替えをする機会もあるだろうが、メガネという文明の利器を得るのが遅すぎた。服装や趣味嗜好のほかに男女の違いなど見出せない解像度の低い幼少期が横たわっている。
性差の興味を持つきっかけは、習い事として始めたスイミングスクールだった。
小学校の水泳授業では、児童は各家庭から水着を持ってきていた。興味はなかったが、女子は模様入りの"ワンピースのような水着"を着ていることが多かったと記憶している。
当時の男子水着はVパンツと呼ばれるもので、動きやすさ重視の、大事なところを隠すだけのわかりやすい水泳パンツであった。しかし女子は全員競泳用のワンピース水着を着ていたのである。
指定水着に限らず、制服というものは集団をカテゴライズする。10年足らずの人生に於いて初めて、男子と女子を身体的に明確に区別した集団という者に遭遇したのである。
女子の水着には上半身と下半身の繋ぎ目すらなく、肩紐が背中でX字に交差して、奇妙な服装という印象を与えた。もはや水泳パンツではない、謎の女子専用水着の仕組みが気になって仕方なかったが、全ては女子更衣室の中で起こることゆえ男子には一生わからないのである。
やがて筆者にも思春期がやってくるのだが、このときまだ性知識が乏しく、異性に対する興味も薄かった。
筆者は中学受験キッズなので、胎児の発生において、父親の精巣で作られる精子と母親の子宮の中の卵子が結合するという概念があることは暗記していたし、卵巣と精巣の構造も予備校のテキストに描かれた性器の断面図から知っていた。
しかしこの性器がどこにあるかわからないのである。子宮はお母さんのお腹の中にあることはほぼ確実とみれるが、精巣は男性の一体どこにあるのだろう。
大人になったいま改めて、小学校向け理科教材を見返しても精巣の在処は伏せられているのである。
おちんちんは男性器の呼び名であるが、思春期以前の男子にとっては「おしっこをするところ」であって、精巣がここにあるという発想に至らなかったのだ。
ようやく性教育に出会ったのが中学時代。筆者は教科書が配られたらまず一通り目を通すタイプなのだが、保健と家庭科の教科書に性や家族計画にまつわる記述があった。やっとのスタートラインだった。
教科書を通じて、女性に膣という器官があることと、月経という現象があること、そして、精巣の場所と性行為について学んだ。陰茎が尿器から性器という概念に変わってようやく、女性に陰茎がないと言う現実を受け入れさせられた。そして身の回りの女子は毎月血を流しながらも平然と生活している。という想像し難い知識にただならぬギャップを覚え、異性への興味がエスカレートしていた頃だった。しかし女友達と仲良くなっても、この疑問をぶつけることはとうとうできなかった。
紆余曲折ありながら敷かれたレールを走り切って社会人になって、縁あって関わり始めたのが今の交際相手だ。付き合って2年ぐらい経って、いよいよ身体を見せ合った。初めて女性の体をメガネ越しに見て、本当に男女の身体機能が異なっていることを実感した。人生の大きな一歩だった。本当に長かったと感じている。
とはいえ、身体を交えて快楽を得ても、知的好奇心は満たされなかった。
男子が陰茎を心の友として生きてきたように女性にも女性の何かがあるはずだと筆者は考えた。しかし身体をまさぐったところで真実には辿り着けないし、拗らせた疑問を投げかけても答えが返ってくるとも限らない。
そもそも体が目当てで交際したわけではないので、消去法的に彼女を欲望の捌け口にしてしまうことは避けなくてはならない。
そんな筆者の欲求に、ある程度は応えてくれたのがAVである。盗撮は犯罪であるから女優によるヤラセであると知っていながらも、スクール水着の着方、ブラの付け方、男には縁のない知識をこうした動画で多く学んだ。
しかしこれでも満たされないものもある。AVと違って現実のトイレはいつも行列を作っている。「どうして女子トイレは並んでいるの?」なんて女性に軽く聞いても、それが普通なせいかなんとも思っていないようであった。いくら親しくとも筆者にはここが限界だ。排泄に時間がかかるのか、スマホでもいじっているのか、なぜ個室しかないのにゾロゾロと連れションしたがるのか。いろいろな文化が気になっても聞く勇気がない。
自分で言うのも変だが、筆者の人生は敷かれたレールの上を上手く走っていると思っている。それは絶対に脱線できない人生であることの裏返しだ。今の時代、異性とみだりに関わることはリスクを伴う。そう言い聞かせてやがておっさんになってもなお今更聞けない謎を一生引きずって生きていくのだろうか。
浅瀬で見かける魚が深海で卵を産んでいても、それを知る術は、浅瀬で卵を産むのを待つか、自ら深く潜るか。どちらにしても茨の道である。
高校ん時行った家庭科の強制ボランティアで、人が話してる時には相手の目を見ろって注意された。社会性に関する指摘においては非常に素直なので、それ以来かなり意識的に実践してる。
10年近く経った今でもまだ慣れない。ゲームで水中入った時の酸素ゲージみたいにストレスがキューーーッッッと上昇する。適宜目線を下げてゲージを回復させないと無理。
必ずしも目を見なくとも鼻の辺り見てればいいとかネットで見てそれも実践してみるけど、あんまり変わらんような気もする。
胸元開き目の相手だとあんまり目線を下げてもアレなので、回復度の低い首か顎辺りまでしか行けなくて疲れる。おれは性欲を隠すのがカッコいいと今でも全然思ってるし、チビ(事実)とか陰気(事実)とか言われても別に構わないけれどガッついた人間だと思われるのは嫌だ。
常日頃からしっかり目線合わせてたら気が狂うので面接とかタイマンの面談とかの場でしかやらんけど、常日頃からやらないから慣れないんだろうなと思う。
中学の入学初日、クラス全員の自己紹介(1人ずつ立ち上がって名前と趣味等の一言をいう、みたいな)をやった。中学受験をするタイプの学校だったので、ほぼ全員が別々の小学校から来ていて、全員アウェーみたいな状況である。
Aは、立ち上がって名前を名乗ると、しばらく無言になった後、泣き出した。(多分、この辺で先生とか周りの席の子が声掛けしたんだろうけど、それは覚えてない)少し落ち着いてからAは、泣きながら「名前からもわかるように、私は、在日韓国人です。小学校では、それで嫌な目にもあってきました。どうか、人種で嫌うようなことはしないでください」と言った。
当時の私は本当に世間を知らない馬鹿な12歳だったので、在日韓国人差別があるという認識がなかった。それどころか、Aの名前を見ても「珍しい漢字だなー」くらいしか思わなかったし、ましてや国名とは紐づかなかった。
その知識レベルでいきなり号泣されたものだから、びっくりして、Aは小学校でとても大変な思いをしたんだな…と受けとめた。
学校生活が始まってから、Aと私は部活も交友関係もあまり被らず、「同じクラス」程度の認識だった。
それでも人となりくらいはわかるもので、常に歯に衣着せぬ物言いをするAが、私は苦手だった。だから交友関係もあまり被らなかったんだろう。
決定的だったのは家庭科の調理実習だった。その日のメニューに粉ふき芋があり、家事の手伝いも疎かにしていた私は、何も考えずにじゃがいもの茹で汁をシンクに捨てた。熱湯のままである。
大きな音に驚いて、もしかしたらやってはいけないことをしたか?と思った瞬間、別の班からAが飛んできて、まくし立てた。
「あなた、熱湯をそのまま流したの!?信じられない!!配管が傷むから流しちゃ駄目じゃない!そんな事も知らないの!?常識がないんじゃない!??」
Aの言うことは間違ってはいないし、リカバリのしようもないので、ごめんなさい、と謝るしかなかった。
けど、熱湯を流すなと事前の注意も受けていなかったし、やってしまったことを同級生にここまで悪しざまに罵ることもなかろうよ、しかもわざわざ別の班から来てまで、と思った。
(今思えば、Aは家庭科部だったので、調理実習のときに教師の補佐としてクラス全体に気を配るように言われてたのだろう)
以来、Aは、私の中で「あまりかかわらないクラスメイト」から、「嫌いで関わりたくないクラスメイト」になった。
そうすると、思い出すのは自己紹介のことだった。
「私はA個人を見てAが嫌いだが、ほぼ絡みのないAを嫌いだと口外したら、人種差別をしたと思われるのだろうか」
調理実習の件を知らない相手が聞いたら、私は、「嫌う要素のない(嫌うほどの付き合いもない)のに一方的にAを嫌っている」わけである。
その後もAとは交友関係が被ることがなかったし、1年のとき以外に同じクラスになることもなかったので、Aが嫌いだと口外することも、Aの印象が良くなることも悪くなることもなかった。
だから、余計に答えがなくて、春が来るたびに思い出す。
そして同じく12歳だったAが入学初日に背負っていたプレッシャーは、あの気の強いAが見知らぬ同級生の前で泣き出すほど重かったんだろうなと思い至る。
答えがあったところで、Aと私は今後会うこともないだろうし、Aのことが嫌いだったなぁという思い出も覆らないだろうけど。
仮説1→事実
共働き世帯での家事・育児の負担は依然、女性に偏っている。総務省の社会生活基本調査によると、2021年に6歳未満の子どもがいる共働き世帯の1日当たりの家事関連時間は妻が6時間32分だった。1時間57分だった夫の3.4倍にのぼる。
06年は妻と夫はそれぞれ5時間19分、1時間1分だった。当時5.2倍あった格差は15年で縮まったとはいえ、米欧などと比べて女性への偏りが目立つ。
仮説2→男子は家庭科がなかった時代を生きてた団塊ジュニアはまだ中年で男性のボリュームゾーン。家庭でのお手伝い男女格差もあった、家事能力差は当然ある。
仮説3→有配偶の場合、死亡年齢の中央値は男性約82歳、女性約79歳。未婚の場合は男性約67歳、女性約82歳。