元増田がもし見てくれたら嬉しいのだけど。
もし理系の大学でも他学部他学科の講義にもぐりこんで聴講したりできるよね?
あと、卒論・修論は著作権の関係で複写できないので直接読みに行くしかない。
こういうことって今できることのなかですごく価値がある。
あと情報系のうらやましいところは成果発表を美大並みの頻度でやっているとこ。
また、基礎的な勉強はある程度割り切って基本情報とか資格の勉強からとっついてみるのも手だと思う。
実機(CISCOルーターや高性能サーバーなど)や高価なソフト(Adobeの各種ソフトやCADソフト)さわれる環境があるだろうから
バイトもサークルも当人が楽しんでいたり、生活のために必要であったりするにはいいのだけど、
「バイトガツガツやってる俺偉い」とか「サークル頑張ってるの偉い」とか自己顕示欲のためにやっている人と
抜けたらシューカツで…とか学内で顔合わせるの怖いとか
お前がいないと回らないって洗脳でこき使われて思考停止して学校とバイトorサークルですり減っている人って
かなりいる。
われているのだろうか?(タイトル入りきらなかった)
http://toshinoukyouko.hatenablog.com/entry/2013/02/05/013220
それにしても、と僕は思う。
日本には、アニメに関する批評が存在しない。批評家が存在しないだけでなく、批評の場そのものが存在しない。
(「庵野秀明はいかにして八十年代日本アニメを終わらせたか」東浩紀)
東浩紀が上のように記したのは1996年で、それから17年が経った今日におけるアニメ批評のややうんざりするくらいの百家争鳴、玉石混交を伴う興隆ぶりは周知の通りだが、然るに未だに日本には、アニメ作画に関する批評が存在しない、という一抹の事実には素朴に驚かされる。とはいうものの、作画について語るという文化自体が、せいぜいここ十年くらいの間に醸成されてきた、というこれまた意外に思われる史実と突き合わせてみれば、それほど驚くべきことでもないのかも知れない。
中略
ゼロ年代のアニメを含むサブカルチャー批評史と作画史は並行して進みつつも交わることはついになかった。大塚英志や斎藤環や東浩紀やその取り巻きはアニメ作画を完全に無視したし、作画オタクも東浩紀界隈を完全に、気持ちいいくらいに無視した。例えば伊藤剛は2005年に「テヅカ・イズ・デッド」を上梓して、漫画批評の側から手塚治虫神話の精算を図った。ところが一方で、アニメ作画の側ではほとんど同時期にウェブ系アニメーターを介して一種の手塚治虫への回帰が見られていた。
本当になんでだろうね。
作画系に強い氷川竜介ですら、作画マニア的な"紹介"に留めて批評の域には持って行こうとしない節がある。「20年目のザンボット3」でも、金田伊功だけで1章割いてかなり詳細にデータやら作画の個性やら文章を連ねても結局は「金田作画、たまんねえ」で終わる内容だったりする。それはそれで悪いことでは決して無いけど。
小黒祐一郎は?小黒は編集者であって評論家ではない、しかしアニメ制作者にその辺を積極的に語らせようとはしている。
旧アニメスタイル第1号のロングインタビュー「庵野秀明のアニメスタイル」はその結集だ。
アニメと作画の密集した関係性をあそこまで徹底的に語った記事は未だかつて存在しなかったしこれからも無いと思う。間違いなく論の域に達していた。
語ったのは庵野秀明本人だが、ここまで語らせたのは小黒祐一郎の手腕によるものだろう。これが竹熊健太郎とかその辺だったら絶対に聞き出せなかったと言い切ってもいい。
それでなくとも旧アニメスタイル1号、2号はアニメと作画の関係性をがっつり語ってみようぜ!!というエネルギーに満ちあふれていた本だった(アプローチには異論反論ある人もいるだろうけど)。
これは当時作画オタが絶滅しかかってた事を危惧して・・・というよりも、「昔みたいな作画おたくもいなくなっちゃったし、そろそろここらで語ってみるか!」みたいなノリだった、という気がするんだけど・・・。
今は当時より作画オタ(というかニワカ含めて俺も作画をかじってみたいよ的な奴)が増えた状況なので、リニューアル後のアニメスタイルは作画オタ啓蒙寄りな本になっちゃったと思うな。
なんつーか。作画オタなんて下らねえ→したがって作画を論じる事も下らねえ→作画語りは作画オタだけでやってろ、その辺で「たまんね」ってホザいてろカス。
という空気は形成されつつあると思う。
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・・・これ、そろそろ何とかなりませんかね? > id:jkondo
P.S. 遅延どころか、502多発でそもそも投稿が困難でした。
Proxy Error
The proxy server received an invalid response from an upstream server.
The proxy server could not handle the request POST /************/edit.
Reason: Error reading from remote server
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
一年前くらいから毎日のようにメールや電話をしてくるようになった女友達がいる。
一向に気持ちは諦めきれないが、万が一仮に付き合えても幸せになれない気がしてならない。どん詰まりだ。
最初はバイトの休憩時間、ほとんど話したことのなかった彼女が俺の読んでいた本を見て、「実は私もその本が好きで」と話しかけてきた。
それまではただ、物静かでちょっと綺麗な子だな、と思ってたくらいだった。
それから、向こうから誘われて、バイト帰りに食事に行ったり二人で何度か遊びに行ったりもした。
他にも、ややマイナーな趣味(観劇系)が合うことがわかって、意気投合した。
二人で話すと彼女は意外なくらいよく喋ったし、よく本を読んでて話の内容も面白かった。
その頃からほとんど毎日、長文のメールや電話が来るようになって、恋愛抜きでもすごく楽しかった。
そんなとき、別のバイト仲間の女の子から、彼女に恋人がいるらしいと聞いた。
ちょっとショックだった。なんだそれ、と思ったのも正直な気持ち。
そのときは好きになりかけてて、彼女も俺に気があるんじゃないかと自惚れてたから。
聞いた話が本当かどうか気になったし、本当なら、二人で出かけるのも彼氏に悪い気がしたし。
そうしたら、明らかに動揺した表情で曖昧に濁されて、次に会ったときに気まずそうに告げられた。「ごめん、本当は彼氏いるんだ」。
隠してた理由は、彼氏が元々同じ職場の正社員だから(俺は直接の面識はないが)、らしい。
少し距離を置いてみようと当たり障りなく接したら、
「なんで」「遠慮しなくていいのに」「彼氏とは、交友関係に干渉する感じじゃないから。お互い束縛は嫌いだから、しないようにしているし」
そう言って彼女は、悲しそうな顔をした。
その彼氏がよく女の子とも遊びに行くのは本当らしいので(バイト仲間から聞いた)、それは嘘じゃないんだろう。
結局、俺は自分の気持ちを隠したまま、彼女を傷つけず適切な距離を置くことに失敗した。
俺は就職、彼女は大学院での研究に専念するため、バイトを辞めた。日常的に顔を合わせる機会はなく、たまに飲み会で顔を合わせる程度。
俺は、少しの後ろめたさとままならなさを抱えながら、今日も電話に出てしまう。
基本的にこちらからは連絡しないが、好きな子からの連絡を無視できるほど心が強くもない。
雑談するときも、思い切り惚気てくれるんならともかく、彼氏の話題は全然出してこない。
そこまで頻繁にデートしている様子はないが、かといって、特に別れそうでもない。
たぶん彼女にとっては、手軽に連絡が取れるし趣味嗜好が近いし、女友達よりも気を遣ってくれるしで、いいこと尽くめなんだろう。
彼氏に甘えられないときの寂しさや暇を埋めてくれる相手なり、便利な友達なりとして。
彼女が心地いいならそれでいい、と思う気持ちも本当だ。俺だって楽しんでいるのだし。ただ、嫌でもつい下世話な想像をしては、しんどくなる。
恋愛対象として全くナシならナシで、「(俺のことを)結構頼りにしちゃってるみたい」とか、「もっと私に甘えてくれてもいいよ」なんて言わないでくれ。
……たぶん俺の方に恋愛感情さえなければ、「いい友人関係」に他ならないはずで、彼女のことを責める気にもなれはしないけど。
もしも彼女も気づいているんならほんの少しだけずるいよなあとは思うが、いい友達ぶっちゃってる俺も悪いのだ。
恋愛に関する価値観がそもそも違っていそうなので、(脈云々は度外視しても)彼女がフリーになるのを待つのはあまり現実的でない気はする。
俺は普通に女の子とも友達付き合いをするほうだけど、さすがに自分の彼女が知らない男友達と連日こんだけやり取りしていたら気分はよくないし。
玉砕してすっきりする……も考えたものの、万が一でも上手く行ってしまった場合に自分が困る告白もどうよ、と思うわけで。
ガキっぽいかもしれないが、彼氏がいる女の子にそれと知って告白するのは、なんだか嫌だ。
男でも滅多にいないくらい趣味が合うので、友達としてもかけがえのない相手だと思ってはいる。
だが、気持ちを切り替えようと他の女の子と出かけてみても、彼女と比べてしまって申し訳ない気持ちになる。
・ネットの流行りネタをよく理解していないのにやたら使いたがる。旬が過ぎてもしつこく使い続ける。
・まるまるパクリ。すぐわかるんだけど恥ずかしくないのかなー。
つっこんだらいいのか、見て見ぬふりをしてスルーしたらいいのか。
神経伝達物質をだす器官をぶっ壊します。凹み系の物質をだだ漏れ状態にしなければいけません!
例えば暴飲暴食を続ければ胃が負荷に絶えられず胃酸過多になったりします。
よって凹むこと、怖いこと、恐ろしいことを想像したり、もしくは自分を責め続け、神経伝達物質をだす器官に負荷をかけ続ければ良いわけです。
簡単ですね!
ただ負荷をかけ続けるだけでは人の蘇生能力に抗えない可能性があります。
寝不足、疲労、病気などをコンボで引き起こすように心がけましょう!
過去、現在の出来事から、トラウマ級の嫌なことを思い出し、20個リスト化しよう!
↓
その時の空気、肌触り、音、触感、温度、人の視線など、五感の全ての記憶を引き出し、書き出してみよう!
↓
書き出したものを元に、目をとじ、それを克明にイメージしよう。それを10回は反芻しよう!
↓
毎日続けよう!
↓
一週間程続けると無気力感や倦怠感が強くなってきますので、それに便乗し食事をとらない、あまり寝ないを実行しよう!
↓
毎日嫌なイメージを克明に反芻することによって、被害妄想などにとらわれてきます。もう少しです!
↓
体も弱りきり、突然大病に襲われるかもしれません。襲われればかなり高い確率で発症します。もう少し頑張りましょう!
↓
「○○(祖母の名前)さんにグルコサミンが代引で届いています。代金を用意しておいてください。今すぐ行きます。」
と、そんな感じの内容だったらしい。その場に居合わせた祖母に確認したところ、全力で否定したそうで、結局断ったと言っていた。
祖母が通販を使うことは滅多にない。ネット通販を使うのはもっぱら自分であり、クレジットカード持っていないので代引をよく使う。
たまに家族に頼まれたものを注文することもあるが、自分の名前で注文する。祖母の名前で商品が届くことはほとんどありえない。
はっきり言ってうちの祖母は我が家で一番しっかりしており、注文したのを忘れることも考えられない。
だいたい、我が家で誰かが何か注文したときは代金と金額のメモを見えるところにぶら下げておくので、忘れるということはあまりない。
さらによくよく聞いてみると、いつもの宅配便の電話と様子が違うらしかった。
配送業者名を名乗らないとか(いつもならクロネコとか佐川とか名乗るはず)、金額を言わないとか(いつも代引のときは金額を確認するはず)、
グルコサミンと具体的な中身を言うのもあんまりない感じである。怪しい。十中八九詐欺だと思う。
それにしても、住所を確認したら番地まで正確に言ったそうだし、今すぐ行きますとか言っていたのだから、本当に来るつもりだったんだろう。
というかすぐそばに来ていたんだろう。これはなかなか怖い。
代引での買い物は本当にしょっちゅうやっているし、サプリメント類も家族に頼まれて注文することがよくある。
もし電話の内容がいつもの宅配便と何ら変わらないようなものだったら、もし本人不在だったら。結構引っかかるかもしれない、これは。
今回は自分以外の家族が全員その場にいて、それ怪しい怪しい!断れ!とか応援していたらしいので、もし誰かが一人きりのときに電話に出ていたら、払っていたかも。
というわけで、皆も気をつけるといいと思います。代引やめて全部amazonギフト券にしようかなあ。
この本を読んで一番感銘を受けたのは、この部分です。 以下、引用。
本書の締めくくりとして、書いておかなければならないことがあります。
ヒッグス粒子発見によって、私たちの生活にどんなメリットがあるのか? どんなことができるようになるのか?
多くの方が、ニュースを見ながらそんな疑問を抱いたかと思います。
(中略)
今切り拓いたヒッグス粒子の「発見」が、実際に何か役に立つ形となるのは100年以上後になるかもしれません。
そのとき、どういうふうに実用化されているのかというのは、今の段階ではまったくわかりません。
今は役に立たなくても、必ず役に立つときが来る、その礎を常に作り続けていくのが科学者の研究なのです。
言及してもらってありがとうございます。
http://d.hatena.ne.jp/hagex/20130322/p11
の後半に返信を書きました
http://anond.hatelabo.jp/20130322031333
プログラミング出来る方法教えるだって?そんなものは丸めてゴミ箱にでも捨ててしまった方が資源の再利用になる分いくらかマシだ。
こんなタイトルにホイホイと釣られてこんな記事を見に来るような馬鹿を一網打尽にし丸めてゴミ箱へ捨ててやる。
そんなものは存在しない。教えることなど出来ない。何故なら芸術のような創作活動と同じだからだ。
本来プログラミングとは、教えを乞うものではなく、自分の内から捻り出す物なのである。プログラミングが心のそこからできるようになりたいと思う強い気持ち、努力、その結果なのだ。教えるというのは、そこにちょっとした手を差し伸べる程度のことしかできないのだ。
「プログラミング出来ない奴ちょっと来い」という記事タイトルだが、これは間違いである。出来ないやつを呼び込んだって読むだけで「なるほど!」とかいうだけで結局やらない。絶対やらない。確実にやらない。やるわけがない。そんなものは押入れの隅で眠るライフハックのようなものだ。
「絵が描けないやつちょっと来い」「筋トレ続かないやつちょっと来い」こういうのは絶対にやらないやつしか集まらないのだ。
「プログラミングを心のそこからやりたいと思ってやってるやつ来い」が正しい、正しいんだが、心のそこからやりたいと思ってるやつは上記記事を読んだところで殆ど糧にならない。絵をうまくなるにはデッサンが良いです!程度のことしか言ってない、初心者用のサイトや本を見てればだいたい書いてあることばかりだ。
さて、ここからが本題だ。長い長い前振りになってしまったことを申し訳なく思う。
タイトルの通り、ここからは心のそこからプログラムやりたいわけじゃないなくて、こういう記事を見つけてはやれない理由を探して結局やらない人たちに向けて話そう。
ズバリ君たちにプログラムは向いてない。やらない方がいい。他にすべきことがあるはずだ。それをやり続けるといい。
君が興味を持って勝手に手が動くことを探してそれをやろう。
そもそも今時プログラムなんてネットで検索すれば1分もかからず動くものを書くことが出来る。ブラウザ上で実行させることだって可能だ(http://codepad.org/ etc)
サーバー借りてPHP等のプログラムをアップするのだって手順通りやればすぐ出来る。1時間もかからないだろう。
絵を描いたり、筋トレするよりも遥かに早い時間で結果を出せるのに、それすらやらないという時点でやる気がないんだろう。
なのでこれを読んでいる君!目を覚ませ!君は本当はプログラムなんかやる気はないんだ!やらなくたってなんの不自由もないし、そこまで面白味も感じてないはずだ!できたらいいなぁ程度のことだったんだ!
こんな無駄な記事を読んでる暇があったら別のものを探せ!いいな!振り向くな!がんばれ!僕は君を応援している!
参考になった。
確かに、参考書籍を読んで写経という流れよりも、参考書に書いてある問題を自分なりに考えて、間違いを修正するという、トライ&エラーの方が学習効果が高いという実感はあった。
その実感と照らし合わせると、なるほどと思う内容が多かった。
デバックについては、なし崩し的に身に着けているところが多いと感じたので、人に聞いたり調べたりしてみたい。
続きがあるようなので期待してます。