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ゼロ戦(零式艦上戦闘機)

登録日:2009/05/28(木) 20:12:20
更新日:2024/12/17 Tue 12:33:40
所要時間:約 5 分で読めます




大戦初期はアメリカも警戒した重武装・高速力・高機動・長航続力をもって君臨した旧帝国海軍最強の戦闘機。

設計思想は「対戦闘・爆撃機両方行える機体」
正式名称 三菱零式艦上戦闘機〇〇型
〇の一桁目に機体、二桁目にエンジンのバージョン
由来 皇紀二六〇〇年制式採用
米軍のコードネーム Zeke:ジーク(32型のみHamp:ハンプ)
全長 9.07メートル
全幅 12メートル
重量 1.68トン
発動機 中島【栄】一二型空冷星型複列十四気筒
後続力 正規2222キロメートル/過過重3350キロメートル
武装 7.7ミリ機銃×2、20ミリ機銃×2、3番ないし6番爆弾×2
得意技 左捻り込みを始めとする格闘戦

1000馬力と非力なエンジンだが、沈頭鋲や翼端捻り、低剛性索、定速回転プロペラ等の革新的技術で出せる限界のスペックを誇る。


【開発の経緯】

第一次大戦以降、航空機の発展は目覚ましく、航空機が今後の戦争に不可欠となるのは誰の目にも明らかだった。
日本海軍もその方針の例外ではなかったが、大きな問題が立ちはだかっていた。
日本を取り囲む地球最大の広さを誇る大洋「太平洋」である。
どういう形にせよ日本が戦争をする舞台に太平洋がなるのは必然であり、この広大無辺な大洋で戦うにはいかに航空機でも広すぎる。
そこで着目されたのが海洋を移動する航空基地「航空母艦」と、それを母艦とする艦載機である。
しかしいくら空母があっても広大な太平洋で作戦行動をするには艦載機にかなりの航続距離が求められる。
これが狭い欧州や大西洋、地中海であれば1000キロちょいも飛べれば十分であり、実際イギリスをはじめ欧州の航空機の航続距離はそんなものだった。
が、太平洋ではその程度の飛行距離ではぜんぜん足りない。日本海軍はなんとしてでも長大な航続距離を持つ戦闘機の実用化に心血を注いだ。
外国から航空技師を招き、研究を重ね、ついに日本は初の全金属性単葉機である96式艦上戦闘機を完成させた。
これは初のフラップ採用などの革新的技術を多数盛り込んだ意欲的な機体で、実戦では片翼を吹き飛ばされながらも基地への無事帰還を果たすなどの抜群の安定性を持つ傑作機となった。
だが海軍は96式艦戦で満足せず、三菱の堀越技師らを中心にさらなる高性能機を要求。
こうして完成したのが、
  • 空気抵抗が少なく見晴らしのいい涙滴型風防
  • 重装甲の敵機の機体をも破壊し得る20ミリ大口径機銃
  • 引き込み脚の採用による空気抵抗の減衰
  • 超ジュラルミンよりも強度の増した超々ジュラルミンの採用
  • 3000キロを超える長大な後続力
などの革命的性能を盛り込んだ最新鋭機「零式艦上戦闘機」だった。
これは海軍の求め続けた性能をほぼ完全に実現したと言えるもので、特に航続距離3000キロ以上は当時のどこの国も持っていない突出した性能だった。
海軍はこの零式戦の航続力を基本にそれ以降の様々な作戦を決定したと言っても過言ではない。
それが栄光と悲劇の両方を作り出すことになるのだが……。

零戦神話

「空中で、雷雲あるいはゼロと遭遇したらただちに避退すべし」
完成時、その時なお一線で活躍を続けていた96式艦戦を、さらに発展させて誕生した零戦はその黎明期から無敵神話を生み出した。
まずはその初陣は大陸方面となったが、出撃した13機が敵27機と遭遇、それを全滅させ味方は被害なしという完全勝利をおさめ、味方の士気を大いに高めた。
太平洋戦争開始時も、黄色い猿の戦闘機は紙と竹でできていると侮っていた米英の空軍を完全に圧倒。上記のように、彼らの心胆を寒からしめる活躍を果たした。
真珠湾、インド洋、屈辱のミッドウェー海戦においても零戦は米英のF4F、スピットファイアなどを駆逐し続けた。

しかし、この洗練し過ぎた「僕の考えた最強の戦闘機(海軍航空行政の傲慢)」には軽量化以外の拡張性がほとんどなく、納入機の半数が何らかの欠点を抱え*1、それ以上に基礎工業力がお粗末すぎて十分な発動機を用意できなかったことが後継機開発にも祟る。
機銃についても同様であり、日本初となる20ミリ機銃は機銃弾の生産が追い付かず、真珠湾攻撃の際には定数を満たせずに、7.7ミリを主軸に空戦を行わざるを得ないようなギリギリさだった。

当初は遭遇したら撤退していたアメリカ軍も*2海戦を続けるうちに苦手パターンを蓄積。
そしてアリューシャン列島の攻略作戦の最中、アクタン島に不時着した一機の処分を日本側が怠ってしまっことが決定打となる。
その場所は湿地帯のド真ん中で、とても回収などできるわけがないと日本側は思っていたのだが、米軍は湿地帯を切り開いてその機体を回収・分析されたことで弱点を暴露し、その地位を失う。

  • 機体本体の剛性が低い(急降下制限速度が低い)
  • 防弾装備がない(後期型では防弾タンクになり、装甲も申し訳程度についたが、零戦では取り外される事も多かった)
  • 武装が貧弱(後述)
  • 高速時の操縦性の低下
  • 右旋回では左旋回時より小回りがきかない。
  • 計器の配置が悪くて見にくい。
  • コクピットが狭くて居住性が劣悪(これは当時の日本人とアメリカ人の体格差による)

零戦にミッドウェー海戦で有名なサッチウィーブが考案されたのでマリアナ沖海戦や台湾沖航空戦など、零戦の落ち度を語る上で忘れてはならない戦いは数知れず。「七面鳥撃ち」といわれるような相次ぐ敗北と急激な搭乗員の練度低下も手伝って苦戦を余儀なくされる。

さらに旋回性能以外のあらゆる点で凌駕するF6Fの登場で雷電烈風にバトンタッチする筈が、開発の難航で続々米新型機が登場するこの間も陸海軍機同様、一定の性能改善防弾強化してコキつかわれ、最終的には練度でどうにかなるものではない特攻に常用されるようになる。

パイロットの質についても問題があり、日本側は志望者の中から適性のある数名を選んで徹底的にプロフェッショナルとして育て上げる方針をとっており、開戦時に零戦が圧倒的強さを発揮し得たのは日本側のパイロットが全員一流だったことにもよる。
しかしこの方針は一度に育成できるパイロットが極少数となり、補充が難しいことにある。
対してアメリカ軍の場合はエースとなり得る数名の才能を無視してでも全員をそれなりの腕前に引き上げることを目標としており、戦争が長引くにつれて日本側があっという間にベテランを失って練度の低い新米ばかりになってしまったのにアメリカ軍は練度をそのまま維持できた。

また、零戦の長所である航続距離の長さも皮肉にも悲劇の元にもなった。
ガダルカナル島攻防戦で、零戦はその航続距離の長さで爆撃機隊の護衛をおこなったが、長距離を飛んで疲労した零戦隊は基地上空で万全で待ち構えている米戦闘機隊に不利な戦いを強いられ、さらに帰還の際も長距離を飛ばねばならないことから猛烈な損耗を余儀なくされた。
司令部はこの戦いを航空撃滅戦と呼んだが、現場の人間たちは航空自滅戦と呼んでいた。まったくその通りで、日本側はこのガ島争奪戦でアメリカより高い練度を持っていたパイロットたちを一気に失い、ついにそれが回復されることはなかった。
そしてマリアナ沖海戦でも同じ失敗は繰り返される。
アメリカ軍の戦闘機の航続距離外からの攻撃であるアウトレンジ戦法はベテランパイロットでさえ困難な長距離飛行を未熟なパイロットに強要することでしかなく、さらに島ではなく洋上を移動する母艦への帰還は困難を極め、米機動部隊の鉄壁の防空網に阻まれた攻撃隊は満身創痍の中で母艦に帰りつくことさえかなわずに多くが洋上に自爆。
航空自滅戦は完全に再現されてしまった。

そもそも、零戦の長い航続距離は
  • 艦船の上空援護
  • 空母と陸上基地から同時出撃した多数機を戦闘空域に集中させる
事を想定したもので、前者は被弾して不時着・脱出しても下に居る友軍艦船に直ぐに救助して貰える、後者も危地に助太刀してくれる味方が居ることが前提で、想定通りに使われていれば防御力が低くとも操縦士の損耗は低くなる筈だった。
実際、防弾は脆いも、防水機能は最初からしっかりしており、洋上不時着して味方の救援を待つ状況は十分想定していた。
陸軍の一式戦闘機が数と地の利が敵側にある敵地上空への侵攻を考えていたので、火力を犠牲にして防火燃料タンクを採用していたのと同列扱いにはできない。
本来、零戦によるアウトレンジ戦法は想定した用途から外れた奇策と言える用法で、相手が油断している場合なら兎も角、普通に使って良い戦法ではなかったのだ。

こうして零戦神話は崩壊、ついには栄光から奈落へを一代で味わった悲劇の名機として名を残すことになっていった。

バリエーション一覧(追記・訂正求む)


  • 十二試艦戦
試作機
瑞星エンジンを装備。後のタイプと比べ各所に相違点が見られる。生産数は2機。

  • 11型
最初の量産型。エンジンは栄12型。21型にはある艦載機用の装備を持たない。生産数は64機。

  • 21型
前半期に無双伝説を創りあげた白いゼロ戦。艦載機のため、両翼端が50cm折り畳める。型。生産数は約3400機。

  • 32型
 当時過労で病床に臥せっていた堀越二郎に代わり、本庄季郎が設計を担当した機体。
 エンジンを栄21型に換装し、両翼端を切り落として最高速度を引き上げた型。反面、航続距離は落ちた。
 ちょうどソロモン諸島の長距離航空戦の時期に出てしまったために欠陥機扱いされることもあるが、加速性能や高高度での性能など多くの点が改善されている。要撃機としてならなかなからしい。
 それまでと異なる翼形から米軍には別機種と誤認され新たに(HAMP)なるコードネームをつけられた。生産数は約350機。

  • 22型
 32型の翼端を21型のものに戻し、燃料タンクを増設。零戦の各タイプの中で最もバランスが良く、堀越二郎氏曰く「理想の零戦」。部隊からも『最強のゼロ戦』と高く評価されたといわれる。
 とはいうものの、燃料タンクの増設により21型よりもむしろ防弾性は低下している。生産数は約560機。
 この頃から塗装は緑色主体へ切り替えられた。この形式までが優勢期に活躍した形式である。この形式の後継が52型である。

  • 52型
 32型の発展型で、最多生産型。後世のマスコミに最も露出する緑色の機体。乙型以降は、防弾装備が増え重量が増えたため、ゼロ戦の持ち味が薄れた。
 一説ではベアキャットが完成した際に鹵獲された本型式を使ってベアキャットの性能実証相手にされ、フルボッコされたという。
 米軍は『これでZEROを超えた!(ドヤァ)』と確信したが、前記のように機動性が低下した本機相手だったので、22型以前相手に勝てるかは不明であるとの事。生産数は各種派生型を含め約6000機。
 ベテランパイロットの中には52型以後の改良を改悪と断じる風潮もあった。だが重装甲化した米軍機を前に大きく向上した火力、幾らかでも改善された速度と上昇力や降下制限速度は寧ろ好評だった。

  • 53型
 52型の改良過程で考案された形式。52型乙の防弾を取り外す行為が横行しているのに困った軍部が高高度機能の改善も含めて設計していた。
 しかし、防弾燃料タンクの開発に苦戦し、肝心のエンジンが生産できず、開発は棚上げされた。

  • 54型/64型
 53型の失敗を受けて、エンジンを金星62型に換装、同時に機首装備を全廃する。エンジンが1500馬力となったのでパワーに余裕が生じ、機動性が22型以前の水準に回復した。試作の2機のみの試作機。量産型は64型……実際は量産されなかったが。64型は戦闘爆撃機*3としての使用も前提とされていた。
 ゼロ戦試作時から都合、三度検討された『金星搭載』がここで具現化したが、もはや時既に遅しであった。ここに至り、堀越二郎氏は金星を最初から搭載しなかったのを後悔したそうな。
 後世からは五式戦並みの活躍を期待される一方で、連合国のレシプロ重戦に勝てるわきゃねーだろとm9(^Д^)プギャーされたり賛否両論
 しかし、当事者らは旋回性能の回復と、速度の改善に大喜び(高度6,000mで約572km/hだったとされる)で、起死回生ができると確信していた事も忘れてはならない。戦闘機としての最終形式である。


  • 62型
 烈風の量産頓挫、紫電改の増産が追いつかないなどの理由で54型の量産が決議された後に、52型の再利用策として考えられた形式。所謂、戦闘爆撃機。
 だが、エンジンパワーは元のままだったのと、日本軍パイロットの爆撃任務軽視なども相なって、評価は低い。これ以前にも21型を旧型の99式艦爆の代わりの爆戦として使用したので、その用途での改良型でもある。
 この形式は54型とは対照的に実戦に間に合い、爆戦・要撃機・特攻機としての用途に使用された。これが量産された最後の形式である。
 主に爆戦任務目的の型なので、特攻機にもされるほどに空戦性能は度外視されている。だが、要撃機用途で使える火力があったのは意外な点だったという。

この他にも現地改造型で複座型、30ミリ機銃に改造した型、排気タービンを積んだ型があるという。(制式型ではない)
また派生機に11型ベースの水上機の二式水上戦闘機、21型ベースの練習機の零式練習用戦闘機がある。


後継機

昭和18年以降、本機系統の前期型の需要は無い。(反面、後期型は機体構造強化と火力改善から配備を切望される程度には好評だった)。
ちばてつやの漫画『紫電改のタカ』の影響も手伝って、大戦末期に雷電や烈風の代打で次期主力戦闘機に選定され、343航空隊で活躍した紫電改(紫電二一型以降)が有名。
343航空隊の飛行長の志賀少佐は『烈風が出来なくてよかったぜ!』とテストパイロットの立場から見ても運動性重視の軽戦闘機よりも重火力かつ高速の重戦闘機の需要が増していたので、後継は事実上、本来は別用途機であったはずの紫電改であった。(紫電改が後継機と風評が立ったの増産されていて、運用されたからである)

本来の正統後継機である烈風の存在が知られるようになってきた現在でも、ある世代の間では『紫電改はゼロ戦の遅すぎた後継機!(ドヤァ)』と認識されているというが海軍航空行政の支離滅裂に振り回された堀越二郎が聞いたら激怒ものである(確かに氏は理想論に走りがちであるが)。



武装

  • 九九式二十粍固定機銃一型(一号銃)
装弾数が60発ないし100発と少なく、弾速が遅く弾道が特殊なため、初期は敬遠され、対戦闘機(及び艦隊決戦生起時の対弾着観測機)の7.7mm機銃が主に使用されたといわれる。

対爆撃機についてもフライングフォートレスと称されるB-17に対しては貫徹力が不足気味で、初速の向上が望まれた。
命中精度の改善で、米軍が空の要塞と称した重爆を撃墜してみせたことから無用の長物と断ずるのは早計。
22型甲以降は長銃身化で貫徹力と弾道低伸性、弾丸そのものも改善された二号銃を搭載。白浜元飛曹長は「与えれば確実に敵機を撃墜できる」と好意的な評価を寄せており、基地航空隊も火力向上を果たした22型甲/52型以降配備を切望している。

  • 九七式七粍七固定機銃
「真っ直ぐ飛ぶからパイロットを狙撃できる」とかいう命中精度と装弾数に優れたが、「グラマン鉄工」等の異名を誇る重防御な米軍機相手には威力不足。
200~300発打ち込んでも撃墜出来なかった例もある。小口径機銃を愛用した英軍機もバトルオブブリテンで同様の事態を経験している。
52型乙以降は三式十三粍固定機銃が搭載されたが、いかんせん時期が遅すぎて帝国陸軍仕様のホ103(ブローニングM2重機関銃の)より影が薄い。
この機銃は7.7mm機銃2門より遥かに有用と評価されただけに、登場遅延が惜しまれる。


因みに機銃発射機構は操縦桿にはなく、スロットルレバー。
これは太平洋戦争時の海軍機に共通の機構で、導入された経緯は『操縦桿についてると、撃つときに操縦桿を動かしてしまうから低命中率だった』との事。
だが、ベテランパイロットがいなくなった後半には、この機構は逆に撃つタイミングを逃してしまうとして、パイロット育成を阻害する結果を産んでしまう。
しかも発射機構が訓練機と違うので、新規に訓練機を製造する手間ができてしまう有様だった。

零戦20mm不要論はベテランパイロットであると同時に発言が定まらず、20mm不要論を広めるネズミ講にさえ手を貸した坂井三郎氏の影響も大きい。


余談

開発元は三菱重工だがエンジンも含め半数以上が中島飛行機でライセンス生産された。
前代の九六式艦戦から既に共同生産のノウハウがあったため、このようなことが可能になったらしい。

実は欧米軍機と比べるとわりあい機体が大きく、足がしっかりして着陸がしやすいという点がある。
実戦では空中戦より出撃帰投時の離着陸事故による損害が意外と多く、ゼロ戦なら練度の低い新人パイロットの損失を小さく出来た。これは地味ながらも重要な点であったのだ。
局地戦闘機の紫電が不評だったのは足が折れやすい構造だったからである。

2005年頃にNHKが本機を欠陥機と断じるドキュメンタリー番組を放映。
『大馬力エンジンを作って載せ替えりゃ良かっただろ』『防御軽視の悪弊がゼロ戦を欠陥機にした』『軍部が改良を黙殺した』と論じたが、開発当時は防御力と機動性と火力と巡航性能の両立など不可能。

  • 要求項目に防弾性能に関する項目が無かった事(堀越二郎は後年、数々の要求項目がどれかひとつでも緩和されていれば防弾を施せたのに……と悔やんでいたそうだ)
  • 大馬力エンジンは開戦前には2000馬力級の誉(ハ45)エンジンが既に開発開始段階だった事
  • 現実には隼や本機はより大馬力の金星エンジンに換装する計画が検討、もしくは実行されていた事
  • 防御力と機動力の両立の為に陸軍の一式戦闘機は火力、二式戦闘機は巡航性能と離着陸時の操作性を犠牲にせざるを得なかった事
  • 当時のベテランパイロット達は殆ど、アメリカのような運動性が低い重戦闘機を嫌っており、52型乙の防弾を自主的に取り外したりして、「あんなの改悪。どうせなら自分の腕を存分に振るって死んだほうがいい」と公言する武士道的倫理観を持っていた事(特にベテラン搭乗員ほどこの悪癖は強かった)

そもそも行灯油さえ飛行機の燃料にし、飛行機を牛車で運んでいた戦前日本と戦後日本とを混同しないでほしいものだ。
また、当時の日本海軍搭乗員は現在の人間とは180度違う倫理観のもとに動いていた事も忘れてはならない。
そして勝てない戦闘機よりは防弾性を犠牲にしても、一定の勝ち目を拾わねばならない戦局も無視してはならないであろう。


当時から略称のレイセン・ゼロセンは混在しており、基本どちらでもよい。こだわるのはミリオタに多いようだ。
アメリカ軍ではコードネームのzekeより、むしろZEROの方が一般的だった


筆者は零式と名の付くモノはほとんど全てこれから派生したと確信している。

アニヲタと零戦

90年代に流行した仮想戦記小説では、大抵の場合は鬼のような強さになる。
もしくは紫電改や烈風に取って代わられて早々に退場させられる、さらに『改』とついて烈風やベアキャット以上の機体になったりする。


現在、純正なゼロ戦で飛行できる機体はアメリカに有る一機のみ。
諸外国の機体に比べ外板が薄く、疲労によって表面がボコボコになってしまってるのが残念である。



アニオン的に言えば、かのジオン軍の名機ザクのモデルでもある。


ちなみに大空のサムライこと坂井三郎曰く、「最良なのは21型で、それ以降は改良でなく、“改悪”」らしいが、最近の研究では22型以降のほうが激戦地の部隊に好まれていたという軍の記録が発見されており、必ずしも坂井氏の証言は鵜呑みにできなくなっている。この点は日中戦争や太平洋戦争序盤で活躍した、成功体験を多分に有するベテラン搭乗員に同様の傾向が強かった。もっとも戦闘機搭乗員は割りと保守的な人種であり、大なり小なり欧米の戦闘機搭乗員でも似たようなアレルギーはあったとも言われる。

なお、戦後に自衛隊に配備された国産の戦闘機F-2は先代への敬意から平成の零戦とも呼ばれている。
先進技術実証機(ATD-X)でもそう呼ぶ者もいるものの、実用戦闘機ではないために些か疑問残るところ。
というか、日本では国産の戦闘機が出る度に「零戦」の称号が持ち出されるので、いささか陳腐化しているきらいもある。
日本の軍艦の象徴が戦艦大和であるように、日本の戦闘機の象徴は零戦なのだろう。何しろ戦後戦勝国民でさえ紫電改、疾風を零戦と混同するケースも多かったのだ。


そしてこのように日本の戦闘機の代表格であることから、後年の創作への登場も数多い。

こちら葛飾区亀有公園前派出所では、秘境度井仲県に保管されていた機体が登場して両津が乗り込んでいる。

ウルトラマン80ではゼロ戦怪鳥バレバドンという怪獣が登場。ラジコンのゼロ戦を飲み込んでしまった怪獣なのだが、なぜかラジコンのコントローラーのままに動くようになってしまいひと騒動を起こす。

宇宙戦艦ヤマトでは零式宇宙艦上戦闘機コスモゼロが登場。この機体、シルエットを見れば一目瞭然だが、ゼロ戦の前後をひっくり返したものである。

ライトノベルゼロの使い魔では異世界に迷い込んだ機体が時を経て主人公の手に渡り、竜騎士を相手に無双を繰り広げる。

ドラえもんではラジコン大海戦の話にスネ吉兄さんの作ったラジコンで登場する。

武井宏之の読み切り漫画『デスゼロ』には太平洋戦争時に活躍したゼロ戦パイロットの霊・デスゼロが主人公を務める。
後にスターシステムで『シャーマンキングFLOWERS』『SHAMAN KING THE SUPER STAR』にも登場した。


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最終更新:2024年12月17日 12:33

*1 熟練職工が多数徴兵したことも致命傷だが、中島飛行機製の場合はライセンス製造を三菱から得たが故の劣悪な労働環境でサボタージュが多発

*2 嘘では無いが他の新型機にも同様の訓示は出されていたので注意。当時は敵機の解析が済んで対処法の確立までは無理に戦ってはならないという方針を徹底し、無駄な犠牲を生まないようにしていたある

*3 つまり特攻機