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いやしくも神なら 神は 普遍神であるほかない。
1. 名前が違っても・誰にとっても 同じひとつの神であるしかない。 2. 有る神も無い神も 互いに同等であり どちらかを自由にえらべばよい。 3. 普遍神は 有るとか無いとかの経験事象を超えているゆえ。 4. シュウキョウは この普遍神を信じる――無条件に心に受け容れる――ことをつうじてヒラメキにて得られた直観を言葉にして表わし オシへとした結果生まれたものである。 5. 信仰という蝉の抜け殻である。経験思想ではある。つまり オシへは考えるものである。信仰という蝉本体ではない。 どうでしょう。
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noname#211324
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noname#211324
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noname#211324
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noname#211324
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noname#211277
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noname#211277
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お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 自ずから信じるところの神を信じ、他人が信じるところの神を卑しめる行為は、宗教心とはなんら関係のない、猿や未開人類、もちろん現代まで延々と行われてきた縄張り争いや奪い合いのたぐいである。 ☆ わざと自分から 自分たちの神は 普遍神ではないと言っているも同然。ですよね。 はやくそのまま自滅して欲しい。です。 ★ ただ、神という存在に全面的に身を委ねる行為は信仰に近い。しかしながら、その神と信じるものが本当に神であるという保証はなく、結果その疑念が生じた時点でこの行為は無意味である、よって与えられた神への信仰はまこと困難なものである。 ☆ ええっと わたしの思うところを述べます。 信じるとは 無条件に心に受け容れることだと定義しましたが これは 人間が自分から よっしゃ信じようと思って信じることが成ったというものではない。と思っています。 言いかえると 信じるようになるのは 人間の意志行為によるのではないということ。 つまりは 最終的にそのナゾの何ものかを心に受け容れるのは 人間の側の意志行為であるのですが そのように受け容れるように仕向けたり最終的に意志行為として受け容れる決断をあたえるのは やはり何ものかナゾのチカラによる。と考えています。 あるいは 別様に言えば 神が普遍神であるなら もともと生まれつきの自然本性においてすでにこの神なるナゾのチカラにあまねく触れている・または心にやどられている。のではないか? あとは そのことを確認し自覚すればよいのだと。 と考えます。どうでしょう。