法然聖人は「愚者になりて往生す」と念仏の世界を明らかにされました。
しかし、世間では「りっぱになって往生す」と思っている
この差は何…?
立派になることは、貪欲瞋恚愚痴を言われる煩悩を脱却すること
されど私は死ぬまで凡夫であります。
「『凡夫(ぼんぶ)』といふは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身(み)にみちみちて、欲(よく)もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」
(一念多念証文)
光に遇って闇を知らされるように、
法に遇って「幾重にも鎧をまとっている自身の姿が明らかになる」
この鎧を脱ぎ捨て、愚者になりきれない私が居る
南無阿弥陀仏