徳川家を始め、有力武家が知行を放棄するというのは世界史はもちろん日本史にとっても不思議です。 明治維新期の知行ですが、大政奉還・王政復古の大号令以後、德川家(慶喜)に対する辞官納地(慶喜の正二位内大臣兼右近衛大将の辞職と、四〇〇万石の幕府領の返上-二〇〇万石の返上まで減額)が戊辰戦争の契機の一つとなっており、すんなりと知行を放棄したわけではありません。慶応4年1月5日(1868年1月29日)に鳥羽伏見の開戦・幕府軍敗退後には中国・四国・九州各地には新政府軍が進軍したり、新政府側の諸藩が佐幕派の藩に進軍したりしており、多くの佐幕藩は新政府側に降伏しています。さらに新暦の明治二年1869年の6月27日に箱館戦争で榎本武揚らが降伏するまで、東北地方を中心に戊辰戦争は続くわけです。西日本を中心に降伏した藩は多かったわけですが、全国規模での内戦に新政府はともかくも勝利したわけで、その勢威は全国を圧し