標高3,000mの山々が連なる日本アルプス。 断崖絶壁の道のりを舞台に繰り広げられる究極のレースが幕を開けた。 日本を代表する3つのアルプス【北アルプス・中央アルプス・南アルプス】を越え、日本海(富山県)から太平洋(静岡県)まで全長415km・標高差の合計27,000m。フルマラソン10回分、富士登山7回以上に相当する道のりを8日以内に走破する「トランス・ジャパン・アルプス・レース」。 そのコースの距離や条件、難易度から 「日本一過酷なレース」と呼ばれている。 そこに挑むのは、前回大会で史上最速記録を出した大阪の消防士。連覇を懸け、今年も記録更新を目指し己の限界に突き進む! #堀内賢雄 #TJAR #トランス・ジャパン・アルプス・レース #日本一過酷なレース #トレイルラン #土井陵 #消防士 #大阪市消防局 #過酷 #究極 #クレイジー ─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
『Athlete Life & Performance Support【ALPS】』プレスリリースのお知らせ 2024年09月25日
突っ張り一本やりの気っぷのいい相撲と、甘いマスクで一世を風靡(ふうび)した元関脇寺尾の錣山親方(本名・福薗好文)が17日、東京都内の病院で死去した。60歳だった。父が名関脇、3兄弟も関取で逆鉾との兄弟同時関脇も達成。通算出場など、数々の出場回数記録で歴代10傑入りするなど、116キロの細身の体ながら“鉄人”の異名も誇った。以前から不整脈など心臓に持病を抱えていた。先月の九州場所も全休して約2カ月間入院。その後退院し、復帰に向けてリハビリを続けてきたが、体調が急変した。 錣山親方の危篤の報を受け、弟子の小結阿炎(29)らは急きょ、冬巡業が開催されていた関西から帰京した。入院していた都内の病院で錣山親方は、関係者らにみとられたようだ。先月の九州場所も不整脈で入院し休場していた。昨年九州場所で愛弟子の阿炎が、錣山部屋史上初の幕内優勝を果たした時も心臓の病気で入院中だった。「心臓で入院しているのに
女子は森秋彩(あい、17=茨城県連盟)が初優勝した。決勝では唯一全4課題で全完登し、他の5人を圧倒。東京オリンピック(五輪)代表は落選したが、その悔しさを「原動力」に変えて、24年パリ五輪を目指すことを誓った。 森が無観客の会場を魅了した。155センチの小さな体を駆使し、イメージ通りに登り切った。準決勝を全体6位のギリギリで突破しただけに、決勝では「楽しもう」と吹っ切れた。終わってみれば、全4課題のうち唯一全完登。東京五輪代表の野中生萌(XFLAG)と野口啓代(TEAM au)を抑えての堂々たる初優勝だ。17歳の大器は「このような時期に大会に出られるだけで幸せなのに、まさか優勝するとは思わなかった。なんだか先輩たちに申し訳ない。決勝は運良く得意課題で、私が本当に優勝して良いのか…」と謙虚にはにかんだ。 感情を表に出さず、冷静に物事を進める性格だが、昨年12月の“出来事”が一層の奮起を促した
鮮やかな背負い投げを持ち味に「平成の三四郎」と呼ばれたバルセロナオリンピック、柔道の金メダリストの古賀稔彦さんが24日、がんのため亡くなりました。 関係者によりますと、古賀さんは去年がんの手術を受けて、療養を続けていたということです。53歳でした。 「平成の三四郎」 鮮やかな背負い投げを持ち味に「平成の三四郎」と呼ばれ、1992年のバルセロナオリンピックでは大会直前に左ひざの大けがを負いながらも男子71キロ級で金メダルを獲得するなどオリンピック3大会に出場しました。 1990年には中量級の選手ながらも体重無差別の全日本選手権に挑戦して決勝まで進出しました。 2000年に現役を引退したあとは日本代表のコーチや岡山県の大学の総監督としてトップ選手を指導し、みずから柔道の私塾を設立して子どもたちの指導を行うなど普及活動にも尽力していました。 関係者によりますと、古賀さんは去年がんの手術を受けて療
地球を舞台にする長距離外洋帆走レースの最難関、ヴァンデグローブ単独無寄港世界一周ヨットレースに、白石康次郎が二度目の挑戦を果たし、ついに念願の完走を成し遂げた。前回4年前のリタイヤを乗り越えての30年来の夢の実現、そしてアジア人初のその快挙は、いかにして遂げられたか。 2021年2月11日午前11時52分、時折みぞれが混じる曇り空と冷たい風の中、白石康次郎が単独で乗るレーシングヨットDMG MORI Global Oneがフランス西部の港町レ・サーブルドロンヌ沖のフィニッシュラインを横切った。と同時に彼を迎えに出たチームのメンバーやスポンサー、ファンを乗せたたくさんのボートが一斉に祝福のホーンを鳴らして彼の船に近づき、約3カ月ぶりに康次郎と再会。海上は健闘を称え無事の帰還を喜ぶ大勢の人たちの興奮に包まれた。地元のファンたちが「ブラボー! コージロー!」と呼びかける声は、彼の船が港に入って桟
騒動のキーパーソンが痛烈な緊急提言だ。「女性が多い理事会は時間がかかる」という女性蔑視発言で世界中から批判を浴びる東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(83)に対し、日本オリンピック委員会(JOC)理事で柔道元世界女王の山口香氏(56)が一刀両断。森会長の脳裏に浮かぶ「話の長い女」の一人として、かねての天敵だった〝女三四郎〟が忖度なしの批判を展開しつつ、会長辞任勧告を突き付けた。 【写真】五輪中止パロディーTシャツが大人気 ――森会長の会見はご覧になりましたか 山口氏(以下山口) 全部は見てないのですが、一つ言えるのは、私は話は長くないわよ(笑い)。ただ、意見はちゃんと言う。疑問に思ったことをストレートに発言し、とことん議論するのが理事会ですから。でも、そういうスタイルが嫌いな人もいるでしょ。シャンシャンでおしまいにするのが好きな人。そういう方が雑談で「女は面倒くさいなあ」と言っ
コロナ禍の中、11日から丸善インテックアリーナ大阪で始まった全日本卓球選手権、通称「全日本」。そこに35歳にして初めて男子シングルスに出場する男がいる。奈良県代表の岩城禎(いわき・ただし)だ。 日本卓球協会に登録している男子選手は約22万人(2019年度)。そのうち都道府県予選を勝ち抜いて一般男子シングルスに出られるのは248人、わずか0.1%だ。協会に登録していない競技者はその数倍以上もいるため、実際の競争率はさらに厳しいものとなる。 卓球の低年齢化が進んだ現代では、全日本に出場する選手の多くは、遅くても小学生時代から卓球を始め、練習がないのは年に数日という生活を送り、高校や大学も卓球で入るという半分プロのような卓球エリートたちで占められる。ほとんどの卓球人にとって、全日本とは勝つどころか出ることさえ叶わない夢の舞台だ。 卓球エリートのみが出場を許される全日本卓球。この舞台に立てるのは卓
◇海外女子メジャー◇AIG全英女子オープン 最終日(4日)◇ウォーバーンGC(イングランド)◇6585yd(パー72) 日本勢42年ぶり2人目のメジャー制覇を遂げた渋野日向子は、優勝記者会見に臨んだ。一問一答は以下の通り。 << 下に続く >> ―おめでとう 今の気持ちは言葉にできないくらいうれしいのと、お腹がすいた ―ウィニングパットを入れて家族とは お父さんと写真を撮ったくらいで「おめでとう」と言われた記憶がないですね(笑) ―18番の心境は ずっとボードを見ていたので、自分の位置を把握していた。18番のパット前もこれを入れたら優勝するのは、分かっていた。どういうガッツポーズをするか考えていた ―どうやって祝う お菓子いっぱい食べます ―コースで何を食べた 『タラタラしてんじゃねーよ』ってお菓子なんですけど、魚を固めたみたいな ―ファンの声援について バーディパットや厳しいパーパットを
朝刊 2014/10/31 スポートピア 私の名前は、1964年東京オリンピックの開会式を見に行った父が聖火にちなんでつけてくれた。自分にとって初めての五輪体験は1970年の札幌冬季大会だ。 当時小学2年生だった私は、スキージャンプの笠谷幸生選手、金野昭次選手、青野清二選手の活躍に大いに刺激を受けた。掲揚台を独占した日の丸が風になびく光景に「自分もあそこに立ちたい」と思い、すぐに地元のスケート少年団に入った。小学3年の冬にはいい記録が出るまでに成長したが、ここから苦難が始まる。春先に突然、腎臓病を患って入院。2カ月で退院できたものの療養生活は2年も続き、スケートはもちろん、学校での体育授業でさえも禁じられてしまった。 本格的に練習が再開できたのは中学2年。親元を離れ、苫小牧市のコーチの自宅に下宿しながら高校卒業までの5年間、スケートに打ち込んだ。高校1年で世界大会に出場し、2年で全日本チャ
冒険家・植村直己さんが厳冬のデナリ(マッキンリー・6190メートル)で消息を絶ってから、35年。その遺体はいまだ見つかっていない。しかし数年前、植村さんの遺体ではないかという通報がもたらされ、捜索が行われたことがあった。 【マッキンリーのベースキャンプで取材に答える植村直己さんはこちら】 * * * 2011年5月。デナリの登山基地として知られるアラスカ州の村、タルキートナのレンジャーステーションに、1件の通報がもたらされた。通報したのはアメリカ人の登山家コンラッド・アンカー氏。レンジャーステーションの広報官モーリン・グワルチェリさんによると、次のような通報だったという。 「デナリで、雪に埋もれた遺体を見つけた。髪の毛が露出していて登山装備もいくつか見えた」 そのときタルキートナにはふたりの日本人登山家が滞在していて、この報を耳にしている。花谷泰広さんと谷口けいさん(2015年、大雪山
大相撲の元横綱千代の富士の九重親方(本名・秋元貢)が31日、東京都内の病院で死去した。61歳だった。 同親方は2015年名古屋場所を全休し、膵臓(すいぞう)がんの手術を受けた。その後は職務に復帰していたが、最近はがんの転移が見つかったとされ、闘病を続けていた。 九重親方の略歴は以下の通り。 ◆九重貢(ここのえ・みつぐ)元横綱千代の富士。本名は秋元貢。1955年(昭30)6月1日、北海道松前郡福島町生まれ。70年秋場所初土俵。75年秋新入幕。81年秋から横綱に。通算1045勝。優勝31回。三賞7度。金星3個。89年には国民栄誉賞に輝いた。91年夏場所限りで引退後、年寄陣幕襲名。92年4月に九重を襲名し部屋の師匠に。08年2月に理事初当選。広報部長、審判部長、巡業部長などを経て、12年2月から事業部長。15年名古屋場所を休場し、膵臓(すいぞう)がんの手術を受けていた。家族は夫人と1男2女。現役
本記事では、史上初めて「東京~大阪間を自転車で24時間以内に走破」した方について述べます。言うなれば、初代キャノンボーラー。彼は何故このチャレンジをしようと思ったのか、そしてどんな装備で走ったのか。1969-70年に行われたチャレンジを追いました。 ■導入 長い間、ずっと疑問に思っていたことがありました。それは、 「最初に東京~大阪を24時間以内で走ったのは誰なのか?」 ということ。Cannonball Wikiでは1970年に藤田照夫氏が23時間07分で走破したという記録が紹介されているものの、この記録についても詳しいことは分からないままでした。 ----- そんなある日、以下のツイートがリツイートされてきました。 1970年6月のサイクルスポーツ、キャノボの記事あり pic.twitter.com/t6TqRqdBLU ― わたまる@那須ロングライド (@ERO82) 2016年5月3
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