東京職工学校(とうきょうしょっこうがっこう)は、1881年(明治14年)5月、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区)に設立された官立学校。東京工業大学の源流となる学校である。この項目では、後身(改称後)の「東京工業学校」(とうきょうこうぎょうがっこう)についても述べる。 概要[編集] 学理研究中心の帝国大学工科大学に対し、中等教育相当の「職工学校」(のちの工業学校)[注 1]の教員および工場の技術指導者の養成機関として位置づけられた。 1886年(明治19年)に制度化された高等師範学校が、中等学校教員の養成機関として位置づけられたのと共通する。 旧制中学校卒業者を入学対象とし、修業年限を3年とした。入学資格や修業年限は、本校設立の22年後、1903年(明治36年)に制度化された旧制専門学校と共通する。 東京職工学校時代に発足した同窓会「機械工芸会」は、現在の蔵前工業会(後身である東京工業
度量衡(どりょうこう)は、租税・貨幣・土地制度などの確立のため、計量に用いる長さ(度)・体積(量)・重さ(衡)の基準を定めた制度[1]。 人類の量の観念は数の観念と並行して発達してきた[2]。字義的には、度は「長さ」および「さし(ものさし)」、量は「体積」および「枡(升、ます)」、衡は「質量」および「秤(はかり)」を表している。 度量衡制度は特に国内一律の徴税や金貨や銀貨などの秤量貨幣の正確な計量が主な目的であった[1]。計量は客観的な基準がなければ困難であり、計量の基準には時間的普遍性、空間的不変性、再現性がなければならない[2]。 度量衡制度は、支配者が徴税の基準を定めたり、大規模な建築を行ったり、天文や気象の知識に基づく権威保持のために用いられてきた[2]。しかし、いったん定着して慣習化すると強大な権力でも変更は困難となり、復古によって度量衡を統一することが繰り返された[2]。
株式会社図書館流通センター(としょかんりゅうつうセンター、英: TRC Library Service Inc.)は、図書館向け書籍販売、図書館管理業務の受託などを行っている企業である。本社は東京都文京区大塚三丁目(大塚女子アパートの跡地)。 慢性的な赤字体質に陥っていた日本図書館協会整理事業部の業務を引き継ぐための会社として、取次などの出版界や、石井昭が設立した図書館向けの図書販売会社「学校図書サービス」から協力を得て、1979年(昭和54年)12月に設立された。 出資者は日本図書館協会のほか、学校図書サービス、出版取次6社(日本出版販売、東京出版販売、大阪屋、栗田出版販売、日教販、太洋社)、出版社11社(講談社、小学館、平凡社、新潮社、偕成社、誠文堂新光社、晶文社、福音館書店、東京大学出版会、雄山閣出版、大明堂)の計19社。出版界からの理解を得ることができたのは講談社社長代行(のち会長
共同事業の解消と一等当選 -新ナショナル受信機の登場- 1号機の失敗とその後の松下のラジオ事業 1号機の型番の付与 1号機のマイナーチェンジ ナショナル R-47C「標準型」 抵抗増幅式 1933年 コピー商品の横行 「当選号」という言葉 新ナショナル受信機意匠図案懸賞募集と低価格シャーシの発売 (加筆訂正) 参考文献 第1展示室HOME はじめに ラジオ産業のトップメーカー、松下電器は、ラジオが普及し始めた、交流式受信機の時代になってからラジオに進出した。鉱石ラジオからスタートした早川(シャープ)に比べると遅いスタートである。ここでは、松下のラジオ進出の経緯を紹介する。 TOP 松下電器のラジオ進出 -国道電機製作所の設立- 松下はラジオ放送が始まったばかりの1925(大正15)年に真空管を仕入れて販売し、利益を上げたことがあった。しかし、この時はその後のラジオ部品の急激な値下がりの予兆
タンデムのロゴ入りマグカップ タンデムコンピューターズ (Tandem Computers, Inc.) は、ATMネットワーク、銀行、株式市場その他のトランザクション処理を主とする用途向けに無停止コンピュータ(フォールトトレラント・コンピュータ)を製造していた企業である。無停止コンピュータは稼働時間をなるべく長くし、データ損失をゼロにすることを要求される用途で活躍する。1974年創業で、1997年まで独立企業として存続していた。ヒューレット・パッカードのサーバ部門に吸収され、その部門は分社化されたHPEの一部になっている。 タンデムの NonStop システムは独立した同一のプロセッサを複数使い、冗長な記憶装置群とコントローラ群を使い、ハードウェアの故障やソフトウェアの誤作動が起きた場合に自動的で高速な「フェイルオーバー」を提供する。 故障やデータが壊れることを考慮し全体に共有される部品
歌川国利 東京名所之内 不忍競馬之図 1890年(明治23年)上空に見えているものはパラシュートを付けて空に打ち上げた人形など。池に浮かぶ満艦飾の舟も競馬を盛り上げるために用意されたものである。 楊洲周延 上野不忍大競馬 1884年(明治17年) 明治天皇が競馬を観覧されている。 1884年(明治17年)上野不忍池競馬場馬見所(メインスタンド) この場所は現在は上野動物園西園敷地になっている。 歌川国利 上野不忍池競馬の図 コース上に並べられた玉燈も競馬の装飾として付けられた。騎手が着る馬主服(勝負服)は馬主ごとに色・デザインが決められ、騎手の服を見ればその馬が誰の所有かわかる[1]。 馬主服(勝負服)の例[1] 上野不忍池競馬(うえのしのばずのいけけいば)は1884年(明治17年)から1892年(明治25年)まで東京上野不忍池で行われていた競馬。共同競馬会社主催で、不忍池を周回するコース
歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」 お蔭参り(おかげまいり)は、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣。お蔭詣で(おかげもうで)とも。数百万人規模のものが、およそ60年周期(「おかげ年」と言う)に3回起こった。お伊勢参りで抜け参りともいう。 お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これが、お蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しを受けることができた時期でもあった。 江戸からは片道15日間、大坂からでも5日間、名古屋からでも3日間、東北地方からも、九州からも参宮者は歩いて参拝した。陸奥国釜石(岩手県)からは100日かかったと言われる。 「お蔭参り」の語源は諸説あり、天照大御神の「おかげ」で参詣を果たすことができたためとする説、天照大御神の「おかげ」で平和な生活を送ることができることに感謝
麦屋節を踊る人々 麦屋節(むぎやぶし)は、富山県南砺市五箇山地方(旧 東礪波郡平村、上平村、利賀村)に伝わる民謡。石川県能登地方に「能登麦屋節(石川県指定無形文化財)」があるため、越中麦屋節(えっちゅうむぎやぶし)とも云われる。こきりこ節とともに五箇山地方を代表する五箇山民謡で、富山県の三大民謡(越中おわら節、こきりこ節)のひとつ[1]。1952年(昭和27年)、麦屋踊が 文化財保護委員会(現 文化庁)によって、国の助成の措置を講ずべき無形文化財に選定され[2]、1973年(昭和48年)11月5日には「五箇山の歌と踊」の中の一曲として、国の選択無形民俗文化財に選択された。なお現在も保存伝承団体が複数あり、「越中五箇山民謡民舞保存団体連合会」も結成され、各保存団体が協力し保存・育成に努めている。 唄の歌詞には「波の屋島を遠くのがれ来て」、「烏帽子狩衣脱ぎうちすてて」、「心淋しや落ち行く道は」
昔から不思議に思っていたことがあります。 千葉県松戸市に「都営八柱霊園」があること・・・・・・。 東京なのに東京じゃない? そこは東京都の飛び地なのだろうか? 子供心に不思議でした。 行ったことないし、桜もきれいらしいから、行ってみようか・・・・と出かけました。 降り立ったのは、北総線の松飛台駅。 松飛台って、これも不思議な名前ですが調べてみると、陸軍松戸飛行場があった場所にちなんでつけられた地名のようです。 それにしても北総線は運賃が高い! 駅の北側に出ると坂の上にもう霊園が見えます。 霊園前の通りは桜のトンネル。 今年の持ちのいい桜がハラハラと散っていました。 霊園の塀沿いに東へ向かうと松飛台門。 霊園の東南の角になります。 東側にはでかいマブチモーターの本社に工場。 霊園内にはそんなにたくさん桜はなさそうですが、あちらこちらに見えます。 青山や谷中の墓地とは違って、ほとんど同じ大きさ
高柳健次郎(たかやなぎけんじろう)博士(はかせ)は、電子式テレビジョンの実現を目指して研究し、1926年12月25日に世界で初めてブラウン管を用いて電子映像表示(でんしえいぞうひょうじ)に成功しました。
東宝の看板スター・長谷川一夫と満洲映画協会(満映)の看板スター・李香蘭との共演による「大陸三部作」(『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』)の2作目。 渡辺はま子の歌う「支那の夜」がヒットしていたことから、東宝映画(現在の東宝)が映画化を企画し、中華電影公司の上海ロケの撮影協力を得て制作された[1]。 上海を舞台に、長谷川一夫扮する日本人貨物船船員・長谷哲夫が李香蘭扮する中国娘・桂蘭を救い、二人の間に恋が芽生えるというストーリーである。メロドラマ・音楽映画・ハリウッド映画・アクション映画・観光映画といった様々な要素を持つ複合型娯楽映画で、中国大陸への関心が高まっていた時期だった事もあり、各地で興行記録を更新。「今年度日本映画第一のヒット」[2]と評価される人気作となった。 この映画に主演した「李香蘭」こと山口淑子は、第二次世界大戦の終戦後、中華民国政府により文化漢奸(売国奴)容疑で逮捕され
1875(明治8)年,政府主導のもとで開始されたセメントの国内生産が深川工作分局で成功した。これに伴い民間によるセメント製造も開始され,1883(明治16)年9月初めて小野田セメントが生産に成功し,また,1884(明治17)年に深川工作分局の払い下げを受けた浅野セメントも民間として生産を始め,徐々にセメント生産はひとつの産業となるまで成長を遂げた。ちなみに,1897(明治30)年には使用するほとんどのセメントを国産で賄えるほどの生産量となり,その後は,セメントの輸出国へと変貌を遂げ,1937(昭和12)年にはベルギー,ドイツ,イギリスに次いで世界第4位のセメント輸出国となっていたのである。 ところで,このセメントに砂・砂利を加え,水で練り上げたものがコンクリートである。そして,これに鉄筋を併用させたものが鉄筋コンクリートとなる。この鉄とコンクリートを組み合わせた鉄筋コンクリートは,村松貞次
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