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松濤にある観世能楽堂。高級住宅街のなかでもひときわ目立つ大きな建物だ。駅からは遠く、来場者からは「不便」との声が聞こえる〔PHOTO〕蓮尾真司 東京の一等地の中でも、五指に入る高級住宅街・渋谷区松濤。元々は紀州徳川家の下屋敷があったこの地域には、現在麻生太郎副総理をはじめとした政治家や、森進一ら著名人の豪邸があることで知られている。そんな地に、ひときわ目立つ大きな建物がある。広さ約840坪の土地に、1972年に建てられた、能の聖地と言われる「観世能楽堂」だ。日本の伝統芸能である能楽の普及を目的につくられ、能楽ファンの間で親しまれてきたこの建物が、間もなく姿を消してしまうかもしれないという。 「『観世能楽堂』を所有・管理している『観世会』が、能楽堂の土地の売却を検討している、というのです」(大手不動産会社関係者) 赤字が続いている 「観世会」は観阿弥を始祖とし、現在約900人の能楽師を擁する
鍋島家は龍造寺の家臣であったが、龍造寺隆信の戦死後、義弟である鍋島直茂が領地を継承して成立した。藩の成立後もしばしば残存する龍造寺分家との対立がおきた(鍋島騒動)。この対立の構図から生まれたのが「佐賀化け猫騒動」という話である。 藩祖・鍋島直茂 天正12年(1584年)、龍造寺隆信は島原半島において島津氏・有馬氏の連合軍との戦いである沖田畷の戦いで敗死した。その遺児である政家の補佐役として実権を握ったのが、重臣の一人であった鍋島直茂である。天正18年(1590年)には政家を廃してその子の高房を擁立、直茂はその後見人として豊臣秀吉より認められた。以後、鍋島家は主家を圧倒することとなる。文禄・慶長の役、秀吉死後の関ヶ原の戦いにおいても直茂が大将として参戦した。関ヶ原では西軍に与したが、同じ西軍の立花宗茂を攻略することで徳川家康より所領を安堵された。 慶長12年(1607年)、江戸において高房が
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