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アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

アート観客のはじまり

 このところ、アートを見る機会が、ほぼなくなってしまいました。

 今の状況では、仕方がないとも思いますが、この20年以上、特に辛い時など、気持ちを支えてもらってきた事実も変わらないと思っています。そして、今振り返ると、ありがたい気持ちにもなります。

 実際に、直接、アートに触れることがほぼできなくなってしまった、この機会に、ここまで見てきた展覧会、個展、本、作品などのことを、少しずつ、書いて、伝えてみたいと、思うようにもなりました。

 最初は、それまでアートにほぼ興味がなかった人間が、どうやってアートを見るようになった話から書いてみたいと思います。

 

 

 昔は、美術やアートと呼ばれるものに、ほぼ興味が持てなかった。

 学生の授業の時も面倒くさくて、美術が好きではなかった。

 美術にまつわることも、好きではなかったと思う。

 

 高校の時、隣のバス停から乗ってくる女子が、肩かけのカバンを頭にかけて後へたなびかせていた。頭にみぞがある、といわれるくらい、そのカバンはズレなかった。その子は演劇部だった。美術とは違うのだろうけど、自分の中では一緒で、バスの窓から走る姿が見えるたびに、不思議な気持ちになっていた。

 

 大学の時、美大系のサッカー部と試合をしたことがある。約30年前なのに11人の選手のうち、2人もモヒカン刈り(ハードバージョン)だった。あまり近くに寄りたくないのに、マークすべき選手がそのうちの一人だった。彼はチームの中では上手いのにヘディングをしない。そのぶん守っていて楽だった。

 

 社会人になって、スポーツのことを書く仕事を始めた。

「芸術的なプレー」という表現に、「なんで、芸術の方が上みたいな書き方をするんだ?」などと軽い反感を憶えていた。

 

 1990年代「トゥナイト2」という深夜番組があった。とても軽いタッチの深夜番組。そこで、イベント紹介があった。「TOKYO  POP」。その展覧会は神奈川県の平塚でやっていることを知った。わずかに映る場面はちょっと魅力的だけど、都内からは遠い。でも、妻が行きたがった。

 

 出かけて、良かった。

 身近な印象の作品も多かったが、それが逆にリアルで、いいと思えた。

 これまで、ひたすら自分と関係ないと思っていたアートの方から、初めてこちらに近づいてきたように思った。

 30代になって、初めて、アートが面白いと思った。

 

 それまでの遠ざける感じから見たら、調子がいいとは思うのだけど、それから、アートは自分にとって必要なものの一つになった。

 それが1996年のことだった。

 

 気がついたら、美術館やギャラリーに、作品を見るために、出かけるようになっていった。自分にとって、ウソのない作品が見たいと思っていた。辛い時ほど、触れたくなった。気持ちを支えてくるものになっていた。週1レベルだから、たいした数ではないかもしれないけれど、気がついたら、20年以上の時間がたち、何百カ所は行ったと思う。

 

 今回の機会に、これまでの記録を少しずつ、お伝えしていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

(右側のカテゴリーは、

 「展覧会の開催年」

 「作家名」

 「展覧会名」

 「会場名」

 「イベントの種類」

 「書籍」

 

 の順番で並んでいます。

 縦に長くなり、お手数ですが、

 そうした項目の中で、ご興味があることを

 探していただけると、ありがたく思います)。

 

 

「ジャムセッション 毛利悠子」展。2024.11.2~2025.2.9。アーティゾン美術館。

2025年2月5日。

 招待券をいただいたので、気になっていた展覧会に行けた。

 

https://www.artizon.museum/exhibition_sp/js_mohriyuko/

(『ジャム・セッション 石橋財団コレクション×毛利悠子』— ピュシスについて)

 

毛利は、主にインスタレーションや彫刻を通じて、磁力や電流、空気や埃、水や温度といった、ある特定の空間が潜在的に有する流れや変化する事象に形を与え、立ち会った人々の新たな知覚の回路を開く試みを行っています。

                                                      (「アーティゾン美術館」サイトより)

 展覧会場には、あちこちにむき出しで、金属線が巻かれた「装置」があって、それが、どのようなことで作用しているのかわからないけれど、おそらくは、観客の動きなども関係しているのだろうと思える。

 

 本展タイトルに含まれる「ピュシス」は、通例「自然」あるいは「本性」と訳される古代ギリシア語です。今日の哲学にまで至る「万物の始原=原理とはなにか」という問いを生み出した初期ギリシア哲学では、「ピュシス」が中心的考察対象となっていました。当時の著作は断片でしか残されていませんが、『ピュシス=自然について』と後世に名称を与えられ、生成、変化、消滅といった運動に本性を見いだす哲学者たちの思索が伝えられています。絶えず変化するみずみずしい動静として世界を捉える彼らの姿勢は、毛利のそれと重ねてみることができます。

                      (「アーティゾン美術館」サイトより)

 確かに、どういう要素が、どのように影響しあっているかわからないけれど、そのことによって変化が生じている、ということで言えば、この展覧会の会場自体が、「自然」だったようにも思う。

 毛利の国内初大規模展覧会である本展では、新・旧作品とともに、作家の視点から選ばれた石橋財団コレクションと並べることで、ここでしか体感できない微細な音や動きで満たされた静謐でいて有機的な空間に来場者をいざないます。

                      (「アーティゾン美術館」サイトより)

 モネや、デュシャンなど、時間を超えて、様々な作品と「共存」しているのは、不思議な豊かさを、やはり感じた。

 

 

 

www.artizon.museum

 

 

 

「DOUBLE ANNUAL 2025 アニュラスのじゃぶじゃぶ池/omnium-gatherum」2025.02.22 - 03.02。国立新美術館。

2025年2月22日。

 美術作品を見るようになり、ある程度の年数が経つと、美術大学や美術予備校にも関心が向く。そして、時々、そうした学校の卒業制作を見に行くと、申し訳ないのだけど、印象が強い作品は少ないものの、それでも、数多くの作品が制作されていること自体に、毎回、凄さのようなものを感じている。

 そして、学生の時にしかつくれない作品は確かにあるのかもしれないなどと思うこともある。

 

https://bijutsutecho.com/exhibitions/15444

DOUBLE ANNUAL 2025 アニュラスのじゃぶじゃぶ池/omnium-gatherum」(「美術手帖」サイトより)

 

 今回、「じゃぶじゃぶ池」というタイトルを見ても、どんな展覧会かは分からなかったけれど、サイトなどで、京都芸術大学と、東北芸術工科大学の学生が、国立新美術館で展覧会を行うことを前提として作品を制作し、応募者は89組だったらしい。ことを知る。

 この数が多いのか、少ないのか、そのあたりはよく分からないけれど、こうしたチャンスがあれば、とにかく応募するのではないかと勝手に想像していたが、それよりもディレクターという美術のプロによって審査され、11組だけが展示されているということに、かなり興味がわいた。

 それは、これまで見てきた美大の卒業制作展は、基本的には卒業生で、作品を制作し、展示に関して問題がなければ、全員が公開されると思ってきた。

 そう考えると、今回の展覧会は、京都と、山形、という普段はその作品を見る機会がない美大の制作物を鑑賞できるから、とても貴重なことと同時に、審査されて、その中で「優れた」作品を、東京で展示することに、両大学の意気込みのようなものも感じた。

 東北芸術工科大学の学長は、中山ダイスケだったことを思い出し、こうした企画になったのかもしれない、とも思った。

 展示室を目一杯使っていて、中には、この国立新美術館の立地の歴史を踏まえた作品もあったし、複数の学生で旅行をしながら作品にしていく若さを感じさせるインスタレーションや、それぞれの土地のことを取材した上で制作されたであろう作品や、自分の部屋を素材にした新鮮な作品もあった。

 当たり前だけど、東京だけに美大があるわけでもなく、確かに東京の美大、特に東京藝術大学に、いろいろな意味で偏重しすぎている、という批判も聞いたこともあるので、こうした展覧会は、(運営は大変だとは思うものの)定期的に開いて欲しいとも思った。

 

 

 

 

 

 

 

特集コーナー展示「マティスのアトリエ」。2024.11.2~2025.2.9。アーティゾン美術館。

 

https://bijutsutecho.com/exhibitions/14561

(「マティスのアトリエ」美術手帖

 

2025年2月5日。

 今回は、他の展示だけではなく、「マティスのアトリエ」という特集コーナーがあって、マティスも見られるんだ、というようなおトクな気持ちにもなった。

 新しい建物になって、吹き抜けや天井の高さは、やっぱり気持ちがいいことを改めて確認するような感じにもなっていたが、この「マティスのアトリエ」の特集コーナーも、展示室の中に、もう一つの部屋をつくるような気持ちのいい展示スペースが設定されていた。

 今回、新しく収蔵されたマティスの作品があり、それにちなんでの特集らしいが、マティスの作品のイメージは、個人的には「気持ちのいい室内」なので、そう考えると、アトリエは重要かもしれないと改めて思えた。

 同時に、マティスの作品が市場に出て、まだ売ったり買ったりが行われているのは、ちょっと意外だったけれど、実は鑑賞しているだけの人間が知らないだけで、すでに巨匠と言われている美術作品も、思ったよりも活発に動いているのかもしれないとも思った。

 マティスは、それほど頻繁に見ていたわけではないのだけど、いつも作品を見かけるたびに、マティスらしい、といった感覚になるし、独特の気持ちよさは、やっぱりあった。

 マティスの孫を描いたジャッキーの作品は初めて見たけれど、キュートさまであることに、なんだか感心した。

 

 

 

 

amzn.to

 

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『ひとを描く』。2024.11.2~2025.2.9。アーティゾン美術館。

 

https://www.artizon.museum/exhibition_sp/lookinghuman/

(『ひとを描く』。アーティゾン美術館)

 

2025年2月5日

「ひとを描く」というテーマで想像していたのは、近代の絵画が並んでいるイメージだった。

 ただ、会場の最初に展示されていたのは、紀元前500年といったギリシアの陶器で、そこに人物が描かれている。こうしたコレクションがあるのも知らなかったし、こんなにゆっくり見られたのも初めてに近いと思う。

 2000年以上前の人物画だけど、それでも、美しいとか、かっこいいとか思える姿でもあった。それは見方としては未熟だったのかもしれないけれど、人間の感じ方は、「ひとを描く」という、ある意味でわかりやすいテーマを設定してくれたおかげで、時間の遠さをそれほど感じなかった。

 さらに古代ローマの壁画を、近代の日本人画家が模写したものを展示することによって、その1世紀頃の人物の描き方を伝えてくれている。

 そして、19世紀から20世紀の絵画で、そこには人物が描かれているが、やはりルオーの描いている人物に魂がこもっているような感じや、ジャコメッティの絵画の色合いのクールさや、ピカソの人物画の鮮やかさや、ビュッフェのキャラ立ちのした人物像が印象に残ったが、これだけさまざまな画家の作品を見られるのは、思った以上に刺激もあり、豊かな時間になった。

 

 

 

 

 

 

『生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界』。2024.6.1~8.25 東京都庭園美術館。

2024年7月2日。

『YUMEJI展』に出かける日は天気も悪くなくて、久しぶりに降りた目黒駅の東口の光景は変わっていた。新しいビルもできただけで、印象も違っていた。

 それでも、東京都庭園美術館のそばに来ると、それほどひんぱんに来ていたわけでもないのに、懐かしく、何年か前にきた内藤礼の個展のことも思い出し、入場券を購入するために予約したことをプリントアウトして見せたのだけど、かなりの混雑を予想していたのに、それほどでもなく、平日のせいか、もしかしたら予約なしでも入場できたかも、というような状況だった。

 そこから美術館の建物までは距離もあり、緑も豊かで、それだけで気持ちが違ってくる。よく「金持ちの家」は門を入ってから、玄関までやや時間がかかるという描写はドラマなどのフィクションで数限りなく見てきたけれど、ここもそういう場所だったんだ、と改めて思った。

 

『YUMEJI展』

https://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/240601-0825_yumeji/

(『生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界』東京都庭園美術館)。

 

 平日なのに、人が思ったよりも展覧会を鑑賞していた。

 着物を着てくると割引、ということもあって、そうした姿の人も見かけた。

 100年以上経っても、新しく発見される作品があって、今回もその「アマリリス」が展示されていたのだけど、それほどの驚きがなかったのは、これまで見てきた竹久夢二の作品として、やはり完成されていて、他の誰とも似ていない感じだったせいだろう。

 竹久夢二は、絵画も描いたが、それは雑誌の挿絵が多かったようだし、さらには、今で言えば雑貨のデザインもしていたし、生活の中に自分の作品が存在するようなことを続けていたけれど、そんな方法をとっていた画家や芸術家は、おそらくは他には存在しなかっただろうから、展覧会を行ったといっても、当時の画壇という場所からは無視されていたのではないだろうか。

 ただ、今回、作品を改めて見ていると、竹久夢二は、最初から竹久夢二という独特の存在で、ずっと変わらなかったように思えた。

 今回、親切にも「ジュニアガイド」というものを制作してくれて、それがとてもわかりやすい。

https://www.teien-art-museum.ne.jp/wp-content/uploads/2024/06/YUMEJI_juniorguide2024.pdf

 

 この夢二の生涯は、展覧会会場にも記されているのだけど、改めてたどると、少し不思議な気持ちになる。

 「ジュニアガイド」にもあるのだけど、竹久夢二は美術の学校など専門的な教育を受けずに独学で自分の画風を確立したという。しかも、小学生の時の美術教師の影響を受け、17歳で家出をし、東京に上京し働きながら学校に通う。その中で、雑誌に挿絵が入賞すると学校をやめて画家に専念する。そんな思い切った過程を通る。

 ほぼその頃の作品も、『YUMEJI展』には出展されていたと思うのだけど、すでに「夢二式」としか言いようの画風が確立されているように見えた。独学といっても、いつどこの誰の影響を受けたのかもわかりにくい。

 そして、人気の画家になった頃に、専門的な勉強をしようと思い、美術の学校に通おうと思った時期もあったらしいが、相談した相手に、独自の道を歩んだ方がいい、と言われたらしい。

 そんなことを、今回の展覧会場の年表などでも改めて知ったのだけど、そんなアドバイスをしたくなるほど、竹久夢二のスタイルは20歳そこそこで確立していたのかもしれないと思うほど、その後もずっと「夢二式」に思えた。

 誰かが助言したのかもよくわからないが、30歳の頃に夢二がデザインした雑貨や本を販売する店を開く。どこかに品物を並べてもらうのではなく、おそらく、その店の隅々まで「夢二式」にデザインされた場所ではないかと想像がつくが、21世紀でも切手のデザインに採用され、それが魅力的に見えるほど、古く感じないし、かわいさがずっとある。

 どうして、最初から竹久夢二は、特に若い女性に届くような魅力を持った絵画が描けて、さらにはデザインができたのだろう。そのスタイルを確立するための苦闘、もしくは家庭のようなものがやっぱりわからなくて、世の中に出てきた時は、すでに竹久夢二であって、その後も、揺らいだ感じはしない。

 独学、と表現されるのだけど、どうやって学んだのだろう。

 手足が大きかったり、化粧中の女性の描写を見ても、若い男性(特に女性との付き合いがあまりない)が抱きがちな過剰な憧れのようなものがなく、もしくは男性側から見た女性像というよりも、女性が憧れる女性を描いているように思える。

 どうして、竹久夢二に、それが可能だったのだろう。

 今回、展覧会を見て、やはりわからないままだった。

 

竹久夢二」という存在

 今回の展覧会で初めての公開となるらしいが、1931年から約2年間、欧米を巡るたびに出かけたときのスケッチブックも展示されていた。

 これは、とても個人的な感想にすぎないけれど、明治以降、日本から欧米に行って、絵を学ぶと、当時の欧米で流行している(ということは一昔前の)絵画の方法を学んできて、その影響が色濃く出た作品を発表し、それで「洋行帰り」として評価される、といったことが多かったように思う。

 だから、どんな画家でも、日本国内の時の画風と、海外に行ってから帰ってきた、特に直後は、誰の作品に影響を受けたのか、がわかるくらい、強く画風が変わるように思う。

 でも、竹久夢二のスケッチブックには、「竹久夢二」の作品が並んでいた。

 そのままの画風で、でも、日本では見られないような人物や風俗を描写しているような印象だった。

 竹久夢二が、その洋行帰りの頃に描いた油絵の裸婦もあったが、それは髪色がブロンドになった「夢二式美人」が裸になっているように思えた。

 こんなに影響を受けていない画家は、あまり見た記憶がなかった。

 頑固、という固さはないのだけど、これだけ常に竹久夢二として確固とした存在は珍しいのだろうし、こうした独特の存在が、明治から大正にかけては、画家としておそらくはとても人気があって有名だったことを考えると、不思議な気持ちになる。

 知識が不足しているから、そう思えるのかもしれないけれど、それ以前にもいないし、それ以降は、影響を受けたアーティストは実は結構多そうなものの(中原淳也など)、竹久夢二が現役の頃は理解者も、応援する人も、もちろん大勢のファンがいたかもしれないけれど、美術史の中でも孤立した存在に思える。

 もしかしたら、大正ロマンという時代自体も、竹久夢二がいなければ有り得なかった文化かもしれないとまで思った。

 

 

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竹久夢二美人画集』

 

 

 

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書籍  『パンデミックとアート 2020-2023』 椹木野衣

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パンデミックとアート』 椹木野衣

 

 この書籍は美術批評家である著者が、新聞の連載として、アートの視点からコロナ禍を記した記録でもあり、その時々に、先もわからない状況での文章のためか、緊迫感のようなものが今も残っている。

 

 例えば、2020年3月27日の文章。

新型コロナウイルス対策として安倍首相による不要不急の催しへの自粛要請が発せられると、翌日以降、国立の博物館からポツリポツリと閉まり始め、次第にそれが国立の美術館に及ぶと、そこからは五月雨式に公立、私立を問わず展覧会が期間限定で閉まり始めた。最初は期間限定であったものが再度延期され、なかには途中で復活することなく会期を終えてしまった展覧会も少なくない。 

         (『パンデミックとアート』より。以下、引用は同著より)

 「密」が問題であれば、美術の展覧会は、通常時から、ソーシャルディスタンスも保たれ、静寂が基本なのに、どうして一律、全部を閉めることはないのに、と感じたことを思い出す。

 ただ、あの頃は、緊迫感があった。同時に「ステイホーム」の時でもあったのだけど、それでも、著者の視点は独特だった。

  2020年4月9日 

パンデミックは大小の差こそあれ、今後も繰り返されざるをえない。ポスパン(ポストパンデミック)とは、パンデミック以後の世界というより、パンデミックが何度でも繰り返される世界でどう生きるかなのだ。引きこもりの芸術は、積極的な籠城のための新しい価値観の萌芽かもしれない。 

 そして、そこで例として出されたのが、鴨長明方丈記』だった。 

世界を股に賭ける大冒険もない。生き馬の目を抜くような駆け引きもない。だが、それでもなお数百年の時を超えて読み継がれるイマジネーション豊かな一大古典を書くことができたのだ。秘訣は「ステイホーム」だけでよい。驚くべきことではないだろうか。

 

 さらには、家に籠る生活がもたらす感覚の変化についても、視覚的で感覚的なことに関わる指摘をしている。

 

家の外は悪夢となり、家の中が現実となった 2020年5月21日

新型コロナウイルス対策で家にとどまるのが日常になってから、夜寝ると夢を見がちになった、夢の質が変わったという話を聞くようになった。都市伝説めいた眉唾に思えないでもないが、知人友人から似た声が届くと、むやみに軽視できない気がしてくる。

家の中がすでに社会なのだから、わたしたちが娯楽や休息をとる機会は就寝後の世界しかない。つまり、外から順番に押し込まれ、結果的に夢の世界が「娯楽や休息」のための最後の貴重な領野となったのだ。いきおい夢には、娯楽や休息のあとに見る単なる余剰以上の意味が担わされることになる。そのことが、先に触れた夢の質の変化と関係してはいないか。

 

 そして、すでに忘れそうになっているが、2021年の東京オリンピックは、緊急事態宣言下で行われたのだった。

東京五輪は時空を異とする「並行世界」だ  2021年8月5日

酷暑下の7月31日、東京での感染者数が初の1日4000人を超え、新型コロナウイルス感染症の拡大が首都圏を中心にいよいよ危機的な状況を迎えつつある。

 ところが、緊急事態宣言下であるにもかかわらず、テレビはどのチャンネルをつけても連日連夜の五輪一色だ。ときおり挟まれるニュースで伝えられるコロナ禍の深刻さとの落差があまりにもかけ離れていて、同じ国で同時に起きている出来事とは到底思えない。

 

 さらに、2022年になると、これからの美術については、希望ともいえる表現が混じっている。

 

パンデミックだからこその美術とは 2022年2月24日

パンデミックによる生活環境の激変は、社会活動の大幅な停滞こそ余儀なくされても、創作者、とりわけ絵画や、もしくは文学のように、たったひとりですべてをこなす必要がある芸術家にとっては、必ずしも悪い条件ではない。というよりも、そうした状況下でなければ生まれない想像力を加速し、コロナ以前では見られなかったたぐいの作品を世に出す可能性がある。  

 

 そして、この連載終了間際の2023年には、やはり他の人にはあまりない視点での指摘がある。

 

夢のなかで人はなぜマスクをつけていないのか  2023年3月28日

改めて思うのは、3年に及んだマスク生活の「風景」というものが、わたしたちの無意識にどれほど定着したのだろうか、ということだ。そんなことを言うのは最近、はたと気づいたことなのだが、夢のなかでマスクをしている人を見たことがないように思うのだ。もしかしたらこれはわたしだけのことかもしれない。だから、どれくらい一般化して考えてよいのかもわからない。けれども、コロナ禍となってからの夢の記憶(という言い方もなにか変な気がするが)を掘り起こしてみても、マスクをした人の顔というのがどうしても思い出せないのだ。 

 美術に関わることだけでなく、2020年から2023年にかけての記録としても意味がある書籍になっていると思うが、著者が繰り返し述べて、印象に残っているのは、100年前のスペイン風邪のように、どうして忘却してしまうのか、そして、忘却してはいけないのではないか、といった予言的な言葉でもあった。 

 

今回のコロナ・パンデミックも同様だろう。わたしたちがいま思い起こさなければならないのは、喉元を過ぎたあとの「楽さ」ではなく、むしろその前に実際に感じていた「熱さ」の方なのだ。そんなことをいまさら、と言われるかもしれない。そうでなければ、日々の時の経過のなかで、かつてのスペイン風邪のように、またもわたしたちはなにもなかったかのようにすべてを飲み下してしまいかねない。

 

 美術に関わることだけではなく、2020年から2023年にかけて、何が起こったか。その時、どんな感覚だったか。椹木野衣という美術批評家の個人的な記録でもあるのだけど、それだけに、その時の気持ちのようなものも、かなり生々しく思い出せるような作品だった。    

 

 

 

 

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奈良美智「I Draw the Line」。2024.11.07 - 2025.01.18。BLUM 東京。

2025年1月16日。

https://bijutsutecho.com/exhibitions/14748

 

 窓からは明治神宮の森が見える、整えられたギャラリーの壁には、もしかしたら、どこかに放置されていたかもしれない板のようなものに着色をして、そこに線を主体とした絵画がある。それは、大きめのテーブルくらいの大きさで、これまでの奈良美智の作品であれば、このサイズになると、色を塗り重ねて、ペインティングと呼ばれる絵画になっていたから、こうした作品は新鮮だった。

 その向かいの壁には、やはり大きな紙に黒一色の線だけのドローイングが並んでいる。それは、線という、おそらくはその人自身のいろいろなものが出てしまって、観客としても、偉そうな表現を使えば、ごまかしが効かない。

 小さい、例えば、家にあるようなチラシのうらに描かれたドローイングと同様に、用意されたものに描かれた線は、魅力的だった。

 ただ、ここに並んでいる作品は、2024年の1年間に描かれたものが多いらしいと、この個展を紹介する文章などで知った。

 だから、もしかしたら、奈良美智は、描くことの原点でもある、ほぼ線だけを使った作品を、しかも、アトリエの隅にあるような板を使って制作しているから、それは、まるで、一度、制作の原点に戻ろうとしているような作品にさえ見えた。

 もう40年くらいのキャリアがあるはずなのに、そこにある作品には、約29年前に見たときに感じたものと、変わらないものがあるように思えた。

奈良美智 ここから」

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