阪神の監督として1985年に球団を初の日本一に導いた吉田義男氏が3日に脳梗塞のため、死去した。4日に阪神球団が発表した。91歳だった。53年に阪神へ入団し、軽快なプレーぶりから「今牛若丸」の異名を持つ名遊撃手として活躍。引退後は阪神監督を3度歴任し、89年から95年までは野球仏代表監督を務めて「ムッシュ」と呼ばれ、国際的な競技普及にも貢献した。92年に殿堂入りも果たした「よっさん」をスポーツライター・楊枝秀基氏が追悼した。

球団初の日本一に輝き、胴上げされる阪神・吉田監督(1985年)
球団初の日本一に輝き、胴上げされる阪神・吉田監督(1985年)

 子供の頃からその勇姿をブラウン管を通して拝見していた。1985年の阪神日本一の当時、僕はまだ小学6年生。そう遠くはない未来にグラウンドで直接、お話しできることになるとは想像もしていなかった。

 吉田さんに初めてごあいさつをさせてもらったのは98年の東京ドーム。某新聞社で長嶋巨人を担当していた僕は、対戦相手の指揮官に恐る恐る名刺を手渡した。

「巨人担当かいな。まあ、よろしく。お手柔らかに」

 その後、2005年に虎番記者となり、甲子園でたびたび野球評論家の吉田さんにお目にかかるようになった。僕の派手ないでたちもあり、認知してもらえるようになった。

 そんなある日の出来事だ。昔、昔の大ベテラン記者たちから伝わる裏話で「よっさんはタバコ1本、1本に名前を書いていたほどケチだ」というエピソードを伝え聞いた。当時の僕はまだ30代前半のイケイケ。こんな面白いエピソード、本人に裏付け取材しないと意味がないと、単独取材を試みた。

 甲子園の喫煙ルームで2人きりになった時だった。怒られることは覚悟で、意を決して質問を投げかけた。

「ホンマに失礼な質問してすいません。タバコ1本、1本に名前書いてたエピソードって本当なんですか?」

「ああ、それはね。1本、1本いうことはないけどね。箱には書いたことはあるかなあ。セロハンいうの。あのビニールの上からじゃなしに、箱には書いてたかな。しかし、あんた、そんな話をどこから聞いてくんねんな」

 笑いをこらえ「本当にすいません。しょうもないこと聞いて」と一礼し喫煙ルームの外へ。タバコ1本、1本には書いてはいないが、箱には書いていた。しっかりウラを取った。しかし、これはスポーツ紙の悪いところ。見事に話が盛られまくっとるやないか~い。

中日・水原茂監督(左)と阪神・吉田義男(1969年)
中日・水原茂監督(左)と阪神・吉田義男(1969年)

 そんな吉田さんと最後に少しお話しできたのは、京都の高級ホテルのバーだ。阪神史上2人目の日本一監督となった岡田彰布さんの第1次政権時代から続いていた後援会「京都岡田会」に取材でお邪魔した時だった。ある主催者のご厚意で開会前の短い時間をいただき、会話することができた。

 その時は京都大学名誉教授で18年ノーベル生理学・医学賞を受賞された本庶佑先生と、吉田さんでコーヒーを飲まれていた。

「あんた、よく甲子園では見かけてたけど、最近は見なかったな。今はどうしてるの」

 以前、勤務していた新聞社を退職し、フリーになった旨を伝えると「頑張りなはれや」と励ましていただいた。

 少年時代の憧れの存在と取材の名を借り、会話できること。これはこの仕事の醍醐味。阪神を初めて日本一にしてくれたテレビの中の吉田監督は「チーム一丸」が口癖だった。脈々とつながる虎の血筋が途絶えることはない。藤川新監督も「チーム一丸」で日本一を――。それを吉田さんも願っているはずだ。

 吉田監督、調子に乗ってしょうもない質問をしたことを許してください。合掌。