【越智正典 ネット裏】長嶋茂雄が巨人軍と契約したのは昭和32年11月7日である。契約が終わると、長嶋は「球団社長の品川(主計)さんに“長嶋くん、何をボヤボヤしているんだッ、はやく契約し給え”と、叱られちゃいました」。たのしそうだった。

 品川は明治20年福井県生まれ。正力松太郎とは旧制四高のときからの親友で東京帝大。警視庁警視、京都、愛知、宮城府県の内務部長。満州局監察官。昭和30年、読売興業(巨人軍)代表取締役。品川の剛直な人柄が長嶋をジャストミートした。空前の人気だった。契約金プラス映画館を二館提供と提示した球団もあったし、全球団提示の契約金額の最高額にプラス1000万円でと申し込んだ球団もあった…。

 ちょうど国会が開会中で小川半次が衆議院予算委員会で「長嶋問題」の総括と質問に立った。

「契約金は莫大なものと伝えられている。人身売買の疑いはないのか」

 法務大臣唐沢俊樹が答弁に立った。

「えー、お答えいたします。私はかつて大映スターズのオーナーをやっていたことがありますが(公職追放で永田雅一に迎えられて球団社長)、長嶋くんのような選手を補強しなかったので大映スターズはいつもビリだったのであります」

 33年巨人はリーグ優勝。最高殊勲選手は、あの細いからだで先発に救援に黙々とマウンドに向かって行った藤田元司。29勝13敗、防御率1・53。藤田こそ巨人軍第2期黄金時代から第3期黄金時代(ON時代)への架け橋となった男である。

 評判を聞いてボクシング誌の主筆平沢雪村が長嶋を見に行った。平沢はずうーっと「日本人の手で世界選手権を」を社是にしてきた。高円寺の社に帰ってくると「長嶋が野球へ行ったのは残念だ。ボクシングをやっていたら間違いなく、フェザー級ですぐに世界タイトルを獲っている。あのアゴがいい。接近戦を戦える!」。

 長嶋の本塁打はホントは30本だったが、9月19日、後楽園球場での広島23回戦の5回裏二死、長身から投げ下ろした鵜狩道夫(伊集院高、鹿児島市電、西鉄)の速球を左中間に叩き込んだのだが、一塁を踏み忘れてアウト。記録は「ピッチャーゴロ」。

「打ったときはダブル(二塁打)だと思いましたが、フェンス手前からぐーんと伸びましてネ。会心の当たりでしたよ」と、ケロリとしていた。長嶋は本塁打王(29本塁打)、打点王(92打点)、打撃2冠。新人王。

 首位打者は打率3割2分で阪神タイガースの田宮謙次郎(34年大毎)。

 その田宮は、川上哲治のコトバを胸に抱いていた。「あれは…静岡の草薙球場での日米野球の試合が終わり、市内紺屋町の全日本の宿舎に帰って来たときのことです。風呂へ行くと川上さんが入ってこられました。謙ちゃん…と声をかけて下さいました。“謙ちゃん、お互いに不器用でよかったなあー”。こんなに有難く、こんなにうれしい励ましはありません。守り刀にします」

 器用な男はどんなことでもスイスイとこなせる。“不器用な男はそうはいかない。だからひとつのことを一生懸命やるのだ”というのだった。田宮への川上の至言はV9の起点ともいえる。

=敬称略=