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常願寺川とは? わかりやすく解説

じょうがんじ‐がわ〔ジヤウグワンジがは〕【常願寺川】

読み方:じょうがんじがわ

富山県中央東部を流れ富山湾に注ぐ川。長さ56キロ中新川(なかにいかわ)郡立山町千寿(せんじゅ)ヶ原で、真(ま)川と称名(しょうみょう)川が合流した地点からの名称。真川立山連峰薬師岳西斜面に源を発し称名川は雄(お)山(標高3003メートル)に源を発する下流和田川小口(おぐち)川を合流する上流から中流段丘発達下流扇状地となっている。


常願寺川

世界屈指の急流河川-常願寺川-
常願寺川の源流域は、富山県岐阜県・長野県との県境そびえたつ標高3,000m級の山々北アルプス立山連峰です。そのうちの北の俣岳(標高2,661m)を源にした『真川』と、立山三山一つ浄土山標高2,831m)を源にし、土砂崩壊激し立山カルデラ流れる『湯川』とが平(かんばだいら)付近合流し、『常願寺川』と名を変えます。さらに千寿ヶ原で『称名川』と合流して水量増し山峡の地を流れ大山町上滝立山町岩峅寺付近からは扇状地形成し一部天井川となりながら富山平野にある富山市東側北流しながら日本海流れます。その長さは約56km。流域面積は368km2です。

世界屈指の急流河川-常願寺川-
世界屈指の急流河川-常願寺川-

河川概要
水系常願寺川水系
河川名常願寺川
幹川流路延長56km
流域面積368km2
流域内人約3万人
流域関係都県富山県

常願寺川流域図
○拡大図
1.常願寺川の歴史
"常願寺川の改修事業古く明治時代に来富したオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケ立案によって、河口の付替、用水取水口合併霞堤設置行いました
昭和20年代初めには、天井川対策としてタワーエキスカベータによる河床掘削行い急流河川対策として十字型ブロック根固工ピストル水制開発施工し全国河川普及しました。"

急流河川常願寺川 治水の歴史

世界的にも有数な急流河川群
佐々成政と佐々堤
佐々
殿様林&常西用水路
殿様&常西用水路
常願寺川は、その源を富山岐阜県境にそびえる北ノ俣岳標高2,661m)に発し湯川次いで称名川和田川合流し富山県中央部をほぼまっすぐ日本海へと流れてます。源流山間部から河口までは約3,000mもの標高差があり、その長さは56kmと短く、常願寺川はわが国屈指の急流河川となってます。
全国河川改修計画立案携わったオランダ人土木技師ヨハネス・デ・レーケは、「これは川ではない、滝だ」と、言ったとも伝えられています。
大山町上滝地先から下流扇状地形成し一部区間天井川(川底周辺地面より高い川)となっているところがあります

中世~近世治水富山城下の死守
戦国時代の常願寺川は、大山町馬瀬口地先頻繁に破堤し、その度富山城下が洪水被害被っていたため、当時富山城主「佐々成政(さっさなりまさ)」は1581年三面玉石張り大堤防を築きました。現在では、「佐々堤(さっさてい)」と呼ばれ、常西(じょうさい)用水川底にその天端部を一部のぞかせるのみとなってます。また、江戸時代には、富山藩六代藩主前田利與(まえだとしとも)」が、富山城下を洪水から守るため佐々堤と同じ辺り水防として松苗を約6ha植栽しました。現在は「殿様(とのさまばやし)」と呼ばれ100程度残ってます。
150年前の安政5年(1858年)の飛越地震では、常願寺川源流(湯川)の大(おおとんび)山・小鳶(ことんび)山が崩壊し、その土砂大土石流となり現在の富山市あたりまで襲ったため、多く生命財産失われました。これより常願寺川は、天井川となり、たびたび洪水被害見舞われました。当時、常願寺川から分流富山城下を流れていた「いたち川」の24ある橋詰めには、現在においても49ものお地蔵様や観音様洪水災害慰霊として奉られています。
延命地蔵安政5年大土石流被害「里方図」
延命地蔵安政5年大土石流被害里方図」
2.地域の中の常願寺川
"下流域は、扇状地形成され、常願寺川の豊かな生かした富山県代表する米どころとなっている他、扇端域では工業用水利用した工業団地多く展開してます。
河川利用は、公園グラウンド桜並木遊歩道等が整備され多彩なイベント開催されています。"

地域社会とのつながり

常願寺川はその昔、ニヒ川と呼ばれていたり、沿川の地名由来し上流から峅川、岩峅川、大森川、常願寺川、水橋川等と呼ばれていました。現在では上流から下流まで常願寺川と呼んでいますが、これにはいろん言い伝えあります

 称名滝 立山黒部アルペンルート
称名滝立山黒部アルペンルート
常願寺川上流域は、大半中部山岳国立公園及び有峰県立自然公園指定されており、豊かな自然が織りなす景勝地多く落差日本一の『称名滝』のほか、富山県長野県間の北アルプス縦貫する山岳観光ルートである『立山黒部アルペンルート』は年間110万人訪れ国際的に優れた観光地となってます。
立山カルデラ
立山カルデラ
しかし、その反面もう一つ立山』として、弥陀ヶ原(みだがはら)火山溶岩台地浸食して形成され立山カルデラがあり、絶え土砂生産され下流への被害防止するため明治39年から営々と砂防事業が行われています。また、急流河川特長生かし水力発電盛んに行われてます。
中流域は、霊峰立山神山とした立山信仰寺社仏閣多く点在してます。

 雄山神社(峰本社:雄山山頂) 有峰ダム(北陸電力)
雄山神社(峰本社:雄山山頂) 有峰ダム(北陸電力)
3.常願寺川の自然環境
"常願寺川、急峻な山々流下し、上滝扇頂とする扇状地で、地質砂礫となってます。
急流河川であり、小規模洪水でも流路が変わる厳しい環境に耐えられる植物として、アキグミ広く分布し大群落を形成してます。
河口付近砂州ではコアジサシ飛来確認されている他、ボラ・ヒラメなどの海産種も見られます。"

常願寺川扇状地(扇頂より)
常願寺川扇状地(扇頂より)
常願寺川は、3,000m級の北アルプス急峻な山々流れくだり、上流支川真川、左支川称名川流域火山活動による五色ヶ原弥陀ヶ原等の溶岩台地貫流し、非常に崩壊しやすい地形地質で、なかでも真川支川湯川立山カルデラ内を流れ、常願寺川最大土砂生産地となっており、激し崩壊見せてます。これらの崩壊地から流出した土砂下流幾度と無く流路変え扇状地形成し一部天井川形成しているところもあります
常願寺川扇状地(河口より)
常願寺川扇状地(河口より)
常願寺川の河口域は、急流河川である常願寺川の中でも緩流区間であり、水量比較多くなっています。河川敷は主にオギ・ススキなどの群落で、水際にはヨシ生育してます。湿地ではミクリ確認されています。近く流れ穏やかなところはカルガモマガモなどが休息場所としており、砂州ではコアジサシコウノトリ飛来確認されています。魚類はメダカ・トミヨ・アカヒレタビラなどのほか、ボラ・ヒラメなど海産種も棲息しています。

アキグミの大群落
アキグミ大群落(上)・果実(下)
アキグミの果実
常願寺川扇状地は、小規模な出水でも急流河川であるので川底土砂動き、みず道が頻繁に変わりますこの様厳しい環境強く痩せた土地生育できるアキグミ広く分布しており大群落を形成してます。河川敷は礫質で乾性であることからチガヤカワラヨモギなどが生育してます。日当たり良い開けた場所にはコマツナギ多くみられ、これを食草とするミヤマシジミ確認されています。砂礫地はカモメ類の休息場所となっているほか、イカルチドリ・アオサギなどが水際で餌を狙う姿がみられます。魚類ではサケ・カマキリ・カジカ・アジメドジョウなどが多くみられます。
扇状地から上流にかけての谷地形は、出水後のみず道跡などにアキグミ繁茂し河川敷など地盤高く出水影響少ない場所にはススキオギなどの丈の高い草木が分布しているほか、流れ速い水際生育するツルヨシもみられます。魚類ではウグイ・アユ・オイカワなどのほかイワナ・ヤマメがみられます。鳥類では浅瀬アユなどの小魚補食するアオサギ砂礫地に営巣するイカルチドリなどがみられます。
4.常願寺川の主な災害

発生発生原因被災市町村被害状況
安政5年4月集中豪雨
死者150
流出家屋1,603
土蔵886棟
昭和27年6月 集中豪雨立山町床上浸水329
床下浸水893棟
昭和44年8月集中豪雨富山市
大山町
立山町
全壊流出28
半壊床上浸水28
床下浸水40
昭和53年6月集中豪雨
護岸根固工
水制欠壊
流失9ヶ所

(注:この情報2008年2月現在のものです)

常願寺川

読み方:ジョウガンジガワ(jouganjigawa)

所在 富山県

水系 常願寺川水系

等級 1級


常願寺川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/08 14:33 UTC 版)

常願寺川
富山湾に注ぐ常願寺川
水系 一級水系 常願寺川
種別 一級河川
延長 56 km
平均流量 15 m3/s
(瓶岩観測所2002年)
流域面積 368 km2
水源 北ノ俣岳
水源の標高 2,661 m
河口・合流先 富山湾
流域 日本 富山県
テンプレートを表示
富山県富山市小見にて(芳見橋)
立山連峰と常願寺川空撮

常願寺川(じょうがんじがわ)は、富山県中新川郡立山町 および富山市を流れ富山湾に注ぐ一級河川。「常願寺川」の名称は鎌倉時代になって文献に現れる[1]

古くは新川(ニヒ川、にいかわ)と呼ばれたり、上流下流でそれぞれ様々な呼称が用いられた[1](新川は新川郡の名の由来ともなっている)。流域の地名を取って大森川(おおもりがわ)・水橋川(みずはしがわ)・岩峅川(いわくらがわ)・芦峅川(あしくらがわ)とも呼ばれた。

古代から洪水が多かったため、川の名前は「出水(氾濫)なきを常に願う」という沿岸住民の気持ちをこめた瑞祥名称である[2]。また、立山の山中にある「常願寺」、下流の川沿いにある「常願寺村」、上流にある大岩「常願の岩」から名付けられた説もある[3]

富山県の七大河川(黒部川片貝川早月川、常願寺川、神通川庄川小矢部川)の一つである。

なお、本項目では上流の真川(まがわ)と湯川(ゆかわ)も合わせて説明する。

地理

富山県富山市南東部の立山連峰北ノ俣岳に源を発する真川と浄土山を源にし立山カルデラを流れる湯川が樺平(かんばだいら)付近で合流して常願寺川と名を変える。その後称名川和田川、小口川を合わせ流下する。上流域はきわめて急峻な地形で、標高1,000m 以上の高地は流域の約73%に及ぶ[4]

中新川郡立山町との境界に沿って北西に流れ、富山市高来と富山市水橋辻ケ堂の境界で富山湾に注ぐ。下流域では富山市上滝を扇頂とする常願寺川扇状地を形成し富山平野の一部をなしている。

常願寺川本線の流路延長は約56km、流域面積は368km2である[1]

明治時代、常願寺川の改修工事のために政府から派遣されたオランダ人の技師のヨハネス・デ・レーケが、「これはではない。である」と言ったと伝えられている。この言葉は、実際には「とても急流だ」というような意味のことを言ったのが誇張されて(または誤訳されて)報告されたものであるが、常願寺川の急流の凄さを表現する言葉としてよく引用されている。内務大臣に提出した県知事の上申書に「川といわんよりは寧ろ瀑と称するを充当すべし」とあり、これをデ・レーケの発言とする説もある[5]が、どれも明確ではない。また、常願寺川の改修に携わった富山県の土木技師、高田雪太郎の発言とする説も有力視されていた[6]

しかし、2020年に入ると、実際はローウェンホルスト・ムルデル早月川を指して発言したということが、過去の富山県会議事録によって裏付けられることになった。発言者と川の名前が誤って伝わったのは、デ・レーケの業績があまりに大きすぎたため、すり替わった可能性があるとしている[6]

流域の自治体

  • 富山県
富山市立山町

支流

分流

歴史

日本屈指の急流であり、降水量の多い地域であることから、流域では昔から水害に悩まされてきた暴れ川である。

縄文時代における常願寺川流域では白岩川と神通川との間を大小の支流が多数流れており、奈良時代にはいたち川と現在の河道との間を流れ、平安時代にはいたち川と熊野川との間を、続いて鎌倉時代室町中期にはいたち川付近、室町末期には現在の河道の東側を流れ、江戸時代以降は現在と同じ位置を流れていると考えられている[7]

近世の治水対策

常願寺川の治水の本格的な始まりは、天正8年(1580年)、佐々成政が人海工法によって巨石を集め、馬瀬口上流に底辺40メートル、長さ150メートルに及ぶかまぼこ型の霞堤を築いたこととされる[1][8]。この堤防は佐々堤(さっさてい)と呼ばれ現存する[1]。河底に埋めた巨岩を基礎とする三面玉石張りの霞堤で、当時としては画期的な規模と強度であった[9]

富山藩の藩政時代の安政5年(1858年)には土石流で従来の堤防が埋まってしまったため、常願寺川左岸の富山市西ノ番に改めて堤防が築かれ「済民堤」と名付けられた[1]

また江戸時代もしくはそれ以前から水害防備林の植栽が行われ、特に明和6年(1769年)には富山藩の六代藩主前田利與が佐々堤周辺に水防林を整備した[1]。この水防林は太平洋戦争中の伐採で減少したが、殿様林として城西用水沿いに100本ほどが残っている[1]

鳶山崩れの影響

安政5年(1858年)に発生した飛越地震により、上流部の立山カルデラにある鳶山(大鳶山と小鳶山)で「山抜け」と呼ばれる大規模な山体崩壊が発生した(鳶山崩れ[1]。これにより大量の土砂や岩で堰き止められた湯川谷が2度にわたって決壊し、土石流となって上流部の真川や湯川の渓谷が埋め尽くされた[1]

水田近くに点在する重さ数十トン以上もある巨大な石は大転石と呼ばれ、富山市大場地区の川沿いにある巨石は、直径約6.5m、重さ約400トンもある[10]。また大場地区、西番(にしのばん)地区等には4m以上の巨石が約40個以上ある[11]。これらの巨石は140年前に起こった安政の土石流によって運ばれたものである。古文書によれば「こんな巨石が川底の石とぶつかり、火花を散らしながら流れてきた」という[12]

この土石流による被害は、当時の富山藩領内の18ヶ村に及び、死者140人、負傷者8,945人、流出家屋1,603戸に及んだ。特に左岸の村々の被害は甚大であり、これらの村は被害の少なかった右岸の土地に移住した。常願寺川の右岸と左岸に同一地名があるのはその名残である。土石流によって流れてきた直径5メートル以上の大転石、被害を伝える地蔵像・水神像や犠牲者の供養塔などその被害を伝える数々の遺物が川沿いに残されている。

安政の地震で流出した約2億立方メートルの土砂によって、大日橋付近で約8メートル、立山橋付近で20メートルも河床が上昇したと推定されている。その後、常願寺川では明治元年~明治45年の45年間に41回もの洪水・土砂災害が発生し、人家や農作物に多大な被害をもたらしている[13]

また、水源地から流出した土砂により下流域では河床高が地盤高よりも高い天井川を形成した。1949年昭和24年)から1967年(昭和42年)にかけて、タワーエキスカベータによる大規模な河床掘削を実施した。現在では天井川はほぼ解消されているが一部区間で残っている[14]

近代以降の治水対策

かつては河口付近で大きく東へ屈曲し白岩川と合流していて、合流部は『水橋川』と称していた。

安政の大地震以降の洪水の多発は明治以降の施策にも影響し、廃藩置県後に一度は石川県に編入されていた富山県が1883年(明治16年)に再置された要因の一つに土木事業の方向性があった[1]。水害の多かった旧越中国地域では堤防建設が最重要項目とされたが、旧加賀国能登国では道路建設を優先するよう主張が対立していたことが背景にあるとされる[1]

1891年(明治24年)7月19日から20日にかけて、常願寺川では両岸の堤防が決壊する豪雨災害が発生した[1]。富山県知事の森山茂は国に専門技師の派遣を要請し、同年8月6日にヨハニス・デ・レーケが富山に到着した[1]

デ・レーケは、取水口を一つにまとめて新規用水路を開削すること、新堤防の築造、下流の流路変更(白岩川との分離)、川幅の拡張を提案した[1]。これを受けて1892年(明治25年)2月から本格的改修工事に着手し、1年4カ月の工期で完成した[1]。これ以降は合流部の川幅が白岩川のみとなったことで狭くなったため、後に埋め立てた上で商店街(立山町商栄会)や住宅地となった。また、東西橋の左岸100mには、水橋川時代の名残の用水路が残っている[15]。また、1893年(明治26年) に12の用水を統合した常西合口用水が完成した[1]

一方、1891年(明治24年)の河川改修工事開始後も毎年洪水が発生し、住民からは上流の山地の砂防工事が求められるようになった[1]1906年(明治39年)から県営事業として行われていたが、1922年大正11年)の豪雨で水源地域や建設中の堰堤が被害を受けたため、1926年(大正15年)からはの直轄事業として行われている[1]。立山砂防工事事務所の所長だった赤木正雄の砂防計画に基づき泥谷砂防堰堤群が建設され、特に白岩砂防堰堤などの施設は2009年(平成21年)に「白岩堰堤砂防施設」として国の重要無形文化財に指定された[1]

1934年 (昭和9年)には立山カルデラを含む上流部は中部山岳国立公園に指定されている。

自然環境

上流域では主にイワナが生息する。下流域ではカジカや鮎、ウグイメダカトミヨなどが生息する。河床内で越冬・産卵するアジメドジョウが大河川では珍しく広範に生息する[16]

河川施設一覧

常願寺川流域には約950基の砂防設備が設置されている。堆砂量は約2,300万立方メートルで東京ドーム約19個分に相当する。

主な砂防・治水設備

  • 白岩砂防堰堤 – 堰堤高、7つの堰堤を合わせた落差ともに日本一。2009年平成21年)6月30日、国の重要文化財に指定。
  • 本宮砂防堰堤 – 貯砂量日本一。2017年(平成29年)11月28日、国の重要文化財に指定[17]
  • 泥谷砂防堰堤群 – 2017年(平成29年)11月28日、国の重要文化財に指定[18]
  • 横江堰堤(横江頭首工) – 堰堤上部は乗用車、歩行者通行可能[19]
  • 両岸分水工[20]
  • 済民堤

巨大水制群

1950年(昭和25年)〜1955年(昭和30年)にかけて堤防への衝撃を守るため流速の軽減や流向の是正を目的に作られた。L字型のピストル型水制は、ここで発明され、現在では全国の急流河川で利用されている。

ダム(支流を含む)

一次
支川名
(本川)
二次
支川名
三次
支川名
ダム名 堤高
(m)
総貯水
容量
(千m3)
型式 事業者 備考
常願寺川 岩井谷ダム 16.2 重力 北陸電力
常願寺川 牛首谷川 真川ダム 19.1 48 バットレス 北陸電力
常願寺川 和田川 有峰ダム 140.0 222,000 重力 北陸電力
常願寺川 和田川 新中地山ダム 35.0 68 重力 北陸電力
常願寺川 小口川 祐延ダム 45.5 8,790 重力 北陸電力
常願寺川 小口川 小口川ダム 72.0 2,718 重力 北陸電力
常願寺川 小口川 小俣ダム 37.0 761 重力 北陸電力
常願寺川 小口川 マッタテ川 真立ダム 21.8 26 バットレス 北陸電力

主な橋梁

出典→[21]

鉄道橋

水道橋

  • 常願寺川沿岸用水 左岸連絡水路橋 – 2008年(平成20年)。ダブルデッキ式三連コンクリートアーチ構造。別名「豊水橋」。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 常願寺川沿岸用水 水土里ネット富山(富山県土地改良事業団体連合会)、2023年12月3日閲覧。
  2. ^ 国立国会図書館. “常願寺川の古名、いつから常願寺川と呼ばれるようになったか。川名の由来などを知りたい。”. レファレンス協同データベース. 2019年9月6日閲覧。
  3. ^ 越の国は川の道 ~常東・常西用水 合口化のあゆみ~”. 北陸農政局 常願寺川沿岸農地防災事業所. p. 1. 2019年9月6日閲覧。
  4. ^ 常願寺川水系河川整備計画 国土交通省北陸地方整備局 2010年。P.5
  5. ^ 内務省技術顧問 ヨハネス・デ・レーケ(農林水産省)
  6. ^ a b 『北日本新聞』2020年8月16日付1面『常願寺川「これは川ではない、滝だ」デ・レイケ発言 実は別人 県に議事録 論争決着か』より。
  7. ^ 常願寺川水系河川整備計画”. 第3章 河川の現状と課題 第1節 洪水による災害の発生の防止又は軽減に関する事項. 国土交通省 北陸地方整備局 富山河川国道事務所 2010年. 2020年2月2日閲覧。
  8. ^ 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」(花ヶ前盛明編『佐々成政のすべて』新人物往来社、2002年)37頁
  9. ^ 水田恒樹「河川の活動と都市の形成が相互に与えた影響に関する史的研究」 2014年、P.24
  10. ^ 『往時の土石流被害 実感 38人常願寺・神通川沿い巡る』北日本新聞 2018年11月28日19面
  11. ^ 『立山に学ぶ18 水の山3 安政の大災害』北日本新聞 2019年6月29日26面
  12. ^ 1858年4月9日 飛越地震 その1(内閣府 防災情報のページ)
  13. ^ 常願寺川水系河川整備計画 国土交通省北陸地方整備局 2010年。P.17
  14. ^ 常願寺川水系河川整備計画 国土交通省北陸地方整備局 2010年。P.5, P.17, P.22, P.28
  15. ^ 北日本新聞』2015年4月20日付朝刊8面『とやまの橋 40 東西橋』より。
  16. ^ 常願寺川水系河川整備計画 国土交通省北陸地方整備局 2010年。P.9, P.44
  17. ^ 平成29年11月28日文部科学省告示第178号。白岩堰堤、本宮堰堤、泥谷堰堤の3か所を合わせて、指定名称を「常願寺川砂防施設」に改めた。
  18. ^ 平成29年11月28日文部科学省告示第178号
  19. ^ 『「瓶岩橋」不通1年超 大山-立山間 富山市予算不足 見通し立たず 地元住民「生活に支障」』北日本新聞 2016年12月10日27面
  20. ^ これは水の高速道路!?大量の水を正確に分けて運ぶ施設がかっこ良すぎる!常願寺川沿岸用水横江頭首工と両岸分水工見学Part1【SiphonTV368】
  21. ^ FR16:川を渡る橋・富山県(2022年5月27日閲覧)
  22. ^ 大山歴史民俗研究会『大山の歴史と民俗』第15号 p.130
  23. ^ 大山歴史民俗研究会『大山の歴史と民俗』第15号 p.131
  24. ^ 千垣橋梁 選奨土木遺産 土木学会
  25. ^ a b 富山土木史拾遺 P.116

関連項目

外部リンク




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