ヤオ・ミンの存在は、現在のNBAの潮流に大きな影響を与えた photo by Getty ImagesNBAレジェンズ連載41:ヤオ・ミンプロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることは…
ヤオ・ミンの存在は、現在のNBAの潮流に大きな影響を与えた photo by Getty Images
NBAレジェンズ連載41:ヤオ・ミン
プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。
第41回は、アジア人として初のNBAドラフト1位指名を受けたヤオ・ミンを紹介する。
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【両親から授かった恵まれた体躯を武器に】
NBAのドラフトは、2023年にビクター・ウェンバンヤマ(サンアントニオ・スパーズ)、2024年にはザカリー・リザシェイ(アトランタ・ホークス)と、2年連続でフランス出身選手が全体1位指名を受けた。
現在のリーグではニコラ・ヨキッチ(デンバー・ナゲッツ/セルビア出身)やルカ・ドンチッチ(ロサンゼルス・レイカーズ/スロベニア出身)といった選手たちがトップレベルにあるため、NCAA(全米大学体育協会)などアメリカでのプレー経験のない外国籍出身の若手有望株がドラフト全体1位指名されることは、あまり驚くことではない。
その歴史を切り拓いたひとりがヤオ・ミンだろう。中国出身のセンターは2002年のドラフトで、ヒューストン・ロケッツから全体1位指名でNBA入りを果たした。ヤオの全体1位指名はアジア出身選手として、またアメリカでのプレー経験のない外国籍の選手として史上初めてのことだった。
1980年9月12日、ヤオは1970年代にバスケットボール選手として活躍した両親の下で中国の上海で生誕。生まれた時の体重は、中国の新生児の平均体重の2倍という規格外の大きさだった。
ヤオは両親について、こう感謝している。
「私はあのふたりの息子で、とても幸運だ。両親からのギフトは身長だけではない。どのようにして考えるのか、どうやって決断していくかを教わってきたんだ」
ヤオはわずか13歳で中国のプロバスケットボールリーグ(CBA)の上海シャークスのジュニアチーム入り。その後、シニアチームへ昇格し、2002年にCBAのチャンピオンに輝いた。
同年のNBAドラフトでロケッツから全体1位指名されてNBA入り。当時のNBAは公称216㎝・147㎏の"シャック"ことシャキール・オニール率いるロサンゼルス・レイカーズが3連覇中で、ペイントを制圧する男に対処すべく、どのチームも大柄で屈強なビッグマンを欲していた。
「何が起ころうとしているのか、自分には予測できなかった。私はとにかくバスケットボールがプレーしたかった。NBAで、世界のベストプレーヤーたちを相手にね。このコートでプレーするに値する存在になりたかったんだ」(ヤオ)
【アジア初のドラフト1位が歩んだ道】
ドラフト時にそう意気込み、新人として迎えたデビュー戦。ヤオは10分36秒の出場で3ファウル、無得点、2リバウンドに終わるも、7戦目にして初の2ケタ得点(10得点)を奪うと、シャック不在のレイカーズ戦で20得点、6リバウンド。10戦目のダラス・マーベリックス戦では30得点、16リバウンド、2ブロックを叩き出し、翌11戦目から先発昇格を果たす。
その後はコンスタントに2ケタ得点を奪い、シャックとの初対決となった2003年1月17日には10得点、10リバウンドのダブルダブルに6ブロック。中国からやって来た229㎝・141㎏のビッグマンが、シャックのショットを叩き落とすなど予想外の大健闘を見せた。
するとヤオはオールスターのファン投票でシャックを上回り、ウェスタン・カンファレンスの先発として出場。新人王こそアマレ・スタッダマイヤー(フェニックス・サンズ)が選ばれたものの、全82試合に出場して平均13.5得点、8.2リバウンド、1.7アシスト、1.8ブロックにフィールドゴール成功率49.8%、フリースロー成功率81.1%と上々のルーキーシーズンを送った。
2年目の2003-04シーズン。ヤオは平均17.5得点、9.0リバウンド、1.9ブロックにフィールドゴール成功率も52.2%まで数字を伸ばし、オールスターに加えてオールNBAサードチームにも選出。ロケッツはウェスタン・カンファレンス7位の45勝37敗(勝率54.9%)を残してプレーオフへ出場を果たした。
レイカーズ相手に1回戦敗退に終わると、チームはガードコンビのスティーブ・フランシス、カッティーノ・モーブリーを手放し、リーグ有数の万能戦士トレイシー・マグレディを加え、ヤオとの"魅力的なデュオ"を形成する。
ヤオは2005-06から2007-08までの3シーズン、マグレディも2004-05から2007-08まで4シーズン連続して平均20.0得点以上を稼ぎ出し、ロケッツは2005年から2009年までの5年間で4度プレーオフへ進出した。
だが、ヤオは相次ぐ足のケガ、マグレディもケガに見舞われてしまい、チームとして成功を収めることができず。マグレディは2010年2月に3チーム間のトレードでニューヨーク・ニックスへ。ヤオは2009-10シーズンをケガのため全休し、2010-11シーズンに復帰して5試合コートに立ったものの、2011年7月20日に引退を表明した。
【NBAに刻んだ功績と永久欠番の意味】
コート外でのスポンサー契約も含め、常に注目を集め続けた
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NBAキャリア9シーズン(うち1シーズンは全休)で、ヤオはレギュラーシーズン通算486試合に出場してキャリア平均19.0得点、9.2リバウンド、1.6アシスト、1.9ブロックにフィールドゴール成功率52.4%、フリースロー成功率83.3%を残し、オールスターに8度、オールNBAチームに5度選ばれた。
ヤオは中国でプレーしてNBA入りした選手のなかでは最長のキャリアを誇る。日本人では渡邊雄太(現・千葉ジェッツ)と八村塁(レイカーズ)が最長の6シーズンをプレーしているが、ヤオは(オセアニア大陸を除く)アジアで最高の実績を残した選手であり、大人しい風貌ながらダンクや勝負所でショットを決めたあとには雄叫びを上げ、チームの士気を高めてきた。
圧倒的な高さから振り下ろすダンクはもちろんのこと、リング付近ではフックショットやレイアップ、ローポストやミッドレンジから柔らかいシュートタッチでジャンパーを決め、アシスト面でも器用さを垣間見せるなど観衆を魅了。さらに、時にはビハインド・ザ・バックなどを駆使したスムースなボールハンドリング、ペイントエリアで繰り出した華麗なフットワークでも見せ場を作った。
世界中の中国人からの熱烈な支持があったとはいえ、NBAオールスターのファン投票で2005、2006年と2年連続でトップに立ち、2005年には255万8578票でマイケル・ジョーダン(シカゴ・ブルズ)の記録を抜いて当時のNBA歴代最多得票数を記録。
キャリア中盤からケガに泣いたものの、ヤオは2016年にバスケットボール殿堂入りを果たし、翌2017年2月には背番号11がロケッツの永久欠番となった。
「私は時間が経つにつれて、ようやく実感できた。選手にとって、所属したチームで達成できる最もすばらしい栄誉は永久欠番。私が望むのは、皆さんが私のジャージーが掲げられているのを目にすることで、ずっとそのストーリーを覚えていてくれることなんだ」
そう語ったヤオは、通算9247得点でフランチャイズ史上7位、4494リバウンドで同6位、920ブロックで同2位、フィールドゴール成功3380本で同8位、フリースロー成功2485本で同5位と、堂々たる数字を積み上げてきた。
また、中国代表としても長年活躍し、FIBA世界選手権(現ワールドカップ)に2度、オリンピックには3度出場。2008年の北京五輪ではホスト役も務め、アジアカップでは4度も金メダルに輝き、2023年にはFIBAの殿堂入りも果たした。
引退後はFIBAワールドカップ2019でアンバサダーを務め、CBAの代表もこなすなど、ひと際大きなサイズに親しみやすい笑顔とキャラクターで愛されるアジア出身の元バスケットボール選手として、世界的な知名度を誇っている。
44歳の"歩く万里の長城"は、今後もバスケットボールの国際化を促進する存在であり続けるに違いない。
【Profile】姚明(ヤオ・ミン/Yao Ming)/1980年9月12日生まれ、中国・上海出身。2002年NBAドラフト1巡目1位
●NBA所属歴:ヒューストン・ロケッツ(2002-03〜2010-11)
●オールルーキー・ファーストチーム1回(2003)
●五輪出場歴3回:2000年シドニー大会(10位)、2004年アテネ大会(8位)、2008年北京大会(8位)
*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)