中国語を学び始めてから、はやいもので三十年ほどが経ってしまいました。当時私が学び始めた理由は、経済成長著しいかの国の将来を見越して、これを学んでおけば転職に有利だと思ったからではありませんでした。理由はただただ、中国語という言語そのものに興味があり、学ぶこと自体が楽しかったからです。
声調をともなう発音が音楽みたいで美しいとか、同じ漢字なのに日本語と違う読み方なのがおもしろいとか、漢字ばかり使うのに最初はアルファベット(ピンイン)で学ぶのがふしぎとか、とにかく中国語に触れているだけで仕事の疲れが癒やされるーーそんな感じで、会社勤めのかたわら週三回の夜学にせっせと通っていたのです。
とはいえ、その後は単に好きというだけではすまされなくなり、結局は「飯の種」にせざるを得なくなりました。それでも、曲がりなりにも仕事にすることができたのですから、ありがたいことではあります。ちょっと口幅ったい言い方で恐縮ですが、これは中国語をコストパフォーマンスや時間効率よくちゃちゃっと攻略しようとはせず、ただただ好きで学び続けていたからかも、といまにして思います。
通訳学校に通っていたころ、先生がこう言っていました。「昔のように『石に齧りついても通訳者になる!』という気概に満ちた生徒はほとんどいなくなりました」。いまはどうでしょうか。生成AIが登場し、真っ先に仕事を奪われるのは通訳者や翻訳者だと言われる時代。それどころか、今後は外語学習さえ不要になるかもとさえ言われる時代ですから、想像に難くないでしょう。
私自身に「石に齧りついても」的なパッションがあったかどうかは心もとないです。でも、通訳学校に通っていたのは、必ずしも「食っていくため」とか「就職や転職に有利だから」といった実利だけではなかったように思います。将来の仕事にしたいと思っていたのは間違いないけれど、そのモチベーションを維持していたのはもっと根源的な欲求、つまりはその言語をとことん学び倒したいという「熱」のようなものだったのではないかと。
こんな昔の話を思い出したのは、李琴峰氏の『日本語からの祝福、日本語への祝福』を読んだからです。これも書店巡りをしているとき、私が惹かれた、まさに「本に呼ばれた」という表現がぴったりの一冊でした。台湾出身の李氏はまさに日本語を学ぶこと自体が楽しく、なんとしてもその奥義を極めたいという熱にかられ、ついにはその奥義にまで至ってしまったーーご本人はそう言われることを望まれないと思いますが、なにせ母語ではない日本語で小説を書き、芥川賞まで受賞されたのですからーー方なのです。
語学の教師をしていると、生徒に対してつい「語学を舐めるな」と言いたくなる衝動を覚えることがあります。かつてはほんとうに言ったこともありましたが、いまはもう難しい。「パワハラ」とか「アカハラ」などと糾弾されてしまうからです(実際に糾弾されたこともあります)。そんな鬱屈した気持ちを抱える私にとって、この本は全編、胸のすく思いでした。
発音、文法、語彙、文字、その他さまざまな切り口で日本語の魅力が語られる文章に、通奏低音として流れているのはただただ「語学を舐めるな」という厳しくも温かみのあるスタンスです。なかには耳の痛い話もあるでしょう。でも、ここに書かれている内容は、一度でも語学に打ち込んだ経験のある方ならきっと心から共感できるはず。うちの学校で学んでいる留学生のみなさんには必読の課題図書としたいと思います。
著名な作家に自分を引き比べるなどおこがましいですが、私は「ここに同志がいる!」と何度も感じながら読みました。