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インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

日本語からの祝福、日本語への祝福

中国語を学び始めてから、はやいもので三十年ほどが経ってしまいました。当時私が学び始めた理由は、経済成長著しいかの国の将来を見越して、これを学んでおけば転職に有利だと思ったからではありません(・・・・・・・)でした。理由はただただ、中国語という言語そのものに興味があり、学ぶこと自体が楽しかったからです。

声調をともなう発音が音楽みたいで美しいとか、同じ漢字なのに日本語と違う読み方なのがおもしろいとか、漢字ばかり使うのに最初はアルファベット(ピンイン)で学ぶのがふしぎとか、とにかく中国語に触れているだけで仕事の疲れが癒やされるーーそんな感じで、会社勤めのかたわら週三回の夜学にせっせと通っていたのです。

とはいえ、その後は単に好きというだけではすまされなくなり、結局は「飯の種」にせざるを得なくなりました。それでも、曲がりなりにも仕事にすることができたのですから、ありがたいことではあります。ちょっと口幅ったい言い方で恐縮ですが、これは中国語をコストパフォーマンスや時間効率よくちゃちゃっと攻略しようとはせず、ただただ好きで学び続けていたからかも、といまにして思います。

通訳学校に通っていたころ、先生がこう言っていました。「昔のように『石に齧りついても通訳者になる!』という気概に満ちた生徒はほとんどいなくなりました」。いまはどうでしょうか。生成AIが登場し、真っ先に仕事を奪われるのは通訳者や翻訳者だと言われる時代。それどころか、今後は外語学習さえ不要になるかもとさえ言われる時代ですから、想像に難くないでしょう。

私自身に「石に齧りついても」的なパッションがあったかどうかは心もとないです。でも、通訳学校に通っていたのは、必ずしも「食っていくため」とか「就職や転職に有利だから」といった実利だけではなかったように思います。将来の仕事にしたいと思っていたのは間違いないけれど、そのモチベーションを維持していたのはもっと根源的な欲求、つまりはその言語をとことん学び倒したいという「熱」のようなものだったのではないかと。

こんな昔の話を思い出したのは、李琴峰氏の『日本語からの祝福、日本語への祝福』を読んだからです。これも書店巡りをしているとき、私が惹かれた、まさに「本に呼ばれた」という表現がぴったりの一冊でした。台湾出身の李氏はまさに日本語を学ぶこと自体が楽しく、なんとしてもその奥義を極めたいという熱にかられ、ついにはその奥義にまで至ってしまったーーご本人はそう言われることを望まれないと思いますが、なにせ母語ではない日本語で小説を書き、芥川賞まで受賞されたのですからーー方なのです。


日本語からの祝福、日本語への祝福

語学の教師をしていると、生徒に対してつい「語学を舐めるな」と言いたくなる衝動を覚えることがあります。かつてはほんとうに言ったこともありましたが、いまはもう難しい。「パワハラ」とか「アカハラ」などと糾弾されてしまうからです(実際に糾弾されたこともあります)。そんな鬱屈した気持ちを抱える私にとって、この本は全編、胸のすく思いでした。

発音、文法、語彙、文字、その他さまざまな切り口で日本語の魅力が語られる文章に、通奏低音として流れているのはただただ「語学を舐めるな」という厳しくも温かみのあるスタンスです。なかには耳の痛い話もあるでしょう。でも、ここに書かれている内容は、一度でも語学に打ち込んだ経験のある方ならきっと心から共感できるはず。うちの学校で学んでいる留学生のみなさんには必読の課題図書としたいと思います。

著名な作家に自分を引き比べるなどおこがましいですが、私は「ここに同志がいる!」と何度も感じながら読みました。

TRANSIT 66号「台湾の秘密を探しに。」

職場の図書館で『TRANSIT』の66号を読みました。「毎月1つの主題で旅する」がテーマの同雑誌、この号の特集は「台湾の秘密を探しに。」です。とても盛りだくさんの内容で、これはじっくり読みたいと思い、書店で自分用に買い求めました。


TRANSIT 66号「台湾の秘密を探しに。」

雑誌の台湾特集はこれまでにも数多手に取ってきましたが、「永久保存版」で「TRANSIT初のまるごと一冊台湾特集」と銘打つだけあって、これはとっても読み応えがあります。

私は台湾の、たとえば「レトロ」と称される側面にはそれほど惹かれず、だから台北の迪化街とか台南の神農街とか、あと基隆近くの九份とかよりは、むしろごくフツーの街並みに萌えるタイプです。この特集では、そんな「フツー」にも目が向けられていますし、そこに暮らす市井の人々のストーリーが織り込まれているのもいいなと思いました。

のみならず、かつて日本による植民統治を受けたという歴史を踏まえて「ニホンゴが聞こえる村」とか「『親日国』の胸のうち」などの記事が挿入され、「蔡英文と頼清徳」とか「オードリー・タンと歩んだIT化と民主国家への道のり」とか「今世界を圧倒するTSMCはなぜ強い?」とか「『台湾有事』は起こるのか?」とか「金門島が語ること」などの政治や経済や歴史の話題も紹介しています。

さらには原住民族について、ドラッグクイーンにニュージェネレーション、カルチャーの話題なら鄧麗君(テレサ・テン)や金城武から現代アート、文学、建築、ドラマ、映画、音楽、グルメなら夜市からお茶、コーヒー、食養生、高級レストランまで、とにかく盛りだくさん。もちろん旅行雑誌としてのガイドも山旅から温泉、老街、信仰、古道、海旅、台湾一周徒歩旅行……と多岐にわたります。量は少ないものの、台南や嘉義、高雄といった南部の街の小特集も。

気合いの入った台湾特集だと思いました。

鹹豆漿粥

仕事帰りにいつものスーパーでレジに並んでいたら、レジ横に積み上げられている「カップ麺」に惹きつけられました。「台湾メシ 鹹豆漿粥」。カップ麺じゃなくてカップライス、カップメシですか。へんてこりんなカップ食品シリーズを次々に展開している日清食品の製品です。


www.nissin.com

ニュースリリースによれば、もう一年も前から「台湾メシ 魯肉飯」とともに販売しているそうです。それにしても、台湾での朝食の定番「鹹豆漿」にお粥を合わせちゃうというのが強引でいいですね。

「鹹豆漿粥(シェントウジャンガユ)」というネーミングも、「粥」だけ日本語読みになっちゃうのが脱力感満載です。でも「粥」に「ジョウ」などとルビを振っても、日本の消費者にはピンとこないですよね。だからこれでいいのです。

添えられた「加味特製香醬辣油(カミトクセイコウジャンラーユ)」は「醬辣(ジャンラー)」だけが中国語読みで、そのほかは日本語読み。なるほど、「醬」を「ジャン」と読むのは、「豆瓣醬(トウバンジャン)」や「고추장/苦椒醬(コチュジャン)」などからの類推で日本語母語話者でも大丈夫そうです。また「辣油」が「らつゆ」ではなく「ラーゆ」と読まれるのも、違和感はないでしょう。これはもう外来語として、「辣=ラー」という中国語の発音が人口に膾炙していると言ってよさそうです。

カップの側面に書かれた「湯注五分」にいたっては、中国語としてはムチャクチャですが、日本語なら「お湯を注いで五分」ね……とアッサリ分かっちゃうのが楽しい。こういう商品の表記を見ていると、中国語の発音や語彙がどこまで日本語の中で許容されているのか・いくのか……みたいなものが分かっておもしろいです。以前このブログにも書いた「好ハオ」みたいな感じで。

qianchong.hatenablog.com

で、湯注五分ののちに、いただきました。かんじんのお味は……う〜ん、台湾の鹹豆漿ともお粥ともまったく似ていませんけど、これはこれでおいしいかも、と思いました。

本なら売るほど

街の小さな古本屋さんの物語。「これはおもしろそう!」とさっそく書店を何軒か回るも見つけられなかったので、Amazonで注文したのが2月7日。それから3週間ほどかかってようやく届きました。それくらい人気で品薄になっているみたい*1。児島青氏のマンガ『本なら売るほど』です。


本なら売るほど(1)

届いてさっそく読み始め、巻を措く能わずの勢いで読了。早くも第2巻が待ち遠しいです(4月15日に発売予定とか)。このマンガはHARUTA COMIX(ハルタコミックス)の一冊ですが、たしか福田星良氏の『ホテル・メッツァペウラへようこそ』や田沼朝氏の『いやはや熱海くん』もこのレーベルだったはず。漫画誌『ハルタ』は買ったことがないですけど、ここまで好みの作品が載っているこの雑誌も買ってみようかな。

読書好きが嵩じて脱サラし、古書店「十月堂」をはじめた主人公。そんな彼とさまざまなお客さんたちが古本を介してつながっている物語はどれも、自分を懐かしくも少々狂おしい心持ちへと引きずり込んでくれます。それはかつて自分が読んで、なにがしかの人生の糧になっている本がいくつか登場しているから。それがまず理由の一つ目です。

そして、かつて自分が大量に持っていた古書を、生活環境の変化ですべて売り払わざるを得なくなり、それらが(軽トラックの荷台一杯ぶんありました)二束三文で買い叩かれたときの思い出が蘇ったーーというのが理由の二つ目。さらに第6話に登場する「モモビ(藻紋我(モモンガ)美術大学*2」の学生の、古書に対するふるまいが、かつての自分の、美術に対する向き合い方を想起させられて*3いたたまれない気持ちになるーーというのが理由の三つ目。

このマンガを読んで私は、やっぱり本は紙の、実在する物体でないと、という思いを新たにしました。もう数え切れないほどの方が論じておられますけど、本というものは単に情報伝達のためのメディアではないのだと。そこにはモノとしての完成度の高さがある。ウンベルト・エーコ氏が言う「本は、スプーンやハンマー、鋏とおなじようなもの」で、「一度発明したら、それ以上うまく作りようがない」*4というのを、私は電子書籍を数百点試したあとの今になって、しみじみと実感しています。そして本が「モノとしての書籍」であるからこそこうした物語が成立し、さらに我々を愉しませてくれるというわけです。

作中、主人公の青年は「十月堂さん」とその屋号でだけ呼ばれ、本名は明かされていないようです。さらに、いくつかのエピソードから垣間見えるのは、彼にまつわるほんの少し複雑そうな過去。物語の、この先の展開がとても楽しみです。

*1:いまAmazonのサイトを見てみたら「一時的に在庫切れ」となっていました。

*2:もちろん、あの実在する美術大学のもじりですね。

*3:自分もその大学の出身で、まさに「資源の無駄遣い」としか言いようのない彫刻作品を作っていたのです。

*4:ウンベルト・エーコジャン=クロード・カリエールもうすぐ絶滅するという紙の書物について

くそつまらない未来を変えられるかもしれない投資の話

西荻窪の「旅の本屋のまど」で偶然手にとって購入した本です。すごくいい本。投資に関する本はこれまでにもいろいろと読みましたけど、この本は投資、というかお金そのものの本質を突いていると思いました。最近は、休日に街の小さな本屋さん、いわゆる「独立系書店」巡りをするようになったのですが、それは「本に呼ばれる」瞬間が楽しいからです。そして、この本にも呼ばれたのでした。


くそつまらない未来を変えられるかもしれない投資の話

投資を単にお金を増やす方法とだけ捉えず、お金を社会に還流させ、よりよい未来を作るための行動と捉える。その意味では私が好きな「金は天下の回りもの」と同じ考え方だと思います。投資の結果、お金が増えたらそりゃうれしいけれど、なんなら増えなくてもいい。自分の行動で、より気持ちのよい方向に世界が動いていくのなら。そんなスタンスがすてきです。

著者のヤマザキOKコンピュータ氏は30歳代の「パンカー*1」だそうで、とてもお若い世代の方です。でも、パンカーを自称されるだけあって、そのバックボーンになっている文化は、むしろ私などがかつて憧れた1960年代のカウンターカルチャーに通じるものがあります。でも真正の(?)カウンターカルチャー世代だったら投資をこんなふうには捉えなかったかも。

そういう意味では、よりしなやかで肩肘張ってないカウンターカルチャーの体現者と言えるのかもしれません。かつてのカウンターカルチャーだって、そんなに肩肘張ってなかったぞって? いやあ、あくまで私が仰ぎ見た(カウンターカルチャー世代よりは年下なので)体験だけで語って申し訳ないですけど、けっこう「イデオロギッシュ」で窮屈だったような。それに比べるとヤマザキOKコンピュータ氏の力の抜け方はとても魅力的です*2

それに文章がうまくて、にやっと笑える表現がそこここに。いろいろありますけど、たとえばこれ。

でも俺の知る限り、経済学はくそだ。少なくとも、科学や数学と肩を並べられるような学問ではない。ものすごい量の理論で武装した星占いみたいなものだと思っている。(60ページ)

わははは、たしかにそうですよね、未来予測なんてほとんど当てにならないという意味でも。氏は現在ポッドキャストを配信されているそうで、こちらも聞いてみようと思っています。

podcastranking.jp

*1:パンカーってどういう意味ですか。 - Yahoo!知恵袋

*2:FIREもカウンターカルチャーに擬えられることがありますけど、アレとはまた全く違う生き方だと思います。

スマートな悪

先日、母親の葬儀のために北九州市へ行った際、小倉駅で軽乗用車を借りました。その車で市内をあちこち移動しているうちに気づいたのですが、この車はとても「スマート(smart)」な仕様になっていました。常にGPSで車の位置を把握しているらしく、走っているその道路の制限速度を越えると、そのたびに「ピッ」と警告音が鳴り、「運転速度にご注意ください」という音声が流れるのです。

ほかにも「この先、踏切があります。ご注意ください」とか、「この先、ヒヤリ・ハット*1多発地点です」などと注意が促されます。さらにこれは私の深読みかもしれませんが、交差点で信号待ちに入ると自動でエンジンが切れ、側面の歩行者用信号が点滅し出すと(つまりもうすぐこちらが青信号に切り替わるタイミングに)自動でエンジンが起動しているようでした。

確かにスマートで便利です。交通事故の予防はもちろん、燃費の向上にも大いに資する機能なのでしょう。それは分かるんですけど、私はだんだん居心地(運転し心地?)が悪くなり、レンタカー会社から預かったマニュアルを読んで、この機能を切ってしまいました。こうした機能が、どこか人間の主体性を奪っているように感じられたからです。

そこで、先日読んだ戸谷洋志氏の『スマートな悪 技術と暴力について』を思い出しました。身近なデジタルデバイスから、今回私が利用したような自動車、さらには社会全体に装備されつつある「スマートさ」について、そうしたものが抱えうる負の側面(スマートな悪)を考察したものです。


スマートな悪 技術と暴力について

「好書好日」に戸谷氏へのインタビューがあって、この本の概要をつかむことができます。このインタビューで戸谷氏は、「現代のテクノロジー社会では、人間は単なる資源として扱われていて、他の様々なテクノロジーに利用されるために最適化されてしまっている」と述べていて、なるほど、これがあの「スマート」なレンタカーで覚えた違和感の理由ではないかと思いました。

つまり、超スマート化社会とは、人間自身が超スマート化社会に最適化してしまっていると思うんですね。人間が主人なのではなく、むしろ逆にスマート化させられてしまっているのではないか。
book.asahi.com

なるほど、そうした「超スマート」なシステムへ否応なく「最適化」されることに、本当にこれでいいのだろうかという戸惑いがあるわけですね、私の中には。

同書でもうひとつ共感したのは、超スマート化社会に最適化された「満員電車」における暴力性のお話です(このインタビューでも語られています)。私も戸谷氏と同様に、昔から満員電車が大の苦手でした。それでいまでも、通勤ラッシュをできるだけ避け、始業時間より一時間も二時間も早く職場に出てきています。

qianchong.hatenablog.com

それでも時には、ラッシュ時の満員電車に乗らざるを得ないことがあります。その際には、まさに戸谷氏のおっしゃる「暴力性」をまざまざと感じるのです。私は他人と身体を密着させて電車のロングシートに座るのもムリなので、よほどガラ空きの車内でない限り立っています。しかも上掲のブログに書いたような「人圧」をなるべく低減させるべく、まるでテトリスでうまく空きスペースを探すみたいに、立つ位置をひんぱんに変えているのです。

何を大人気ないことを、と思われるでしょうか。みんなそれでも「社会のシステムを成り立たせるために」お互い我慢して乗っているんだ、お前ひとりが不快さを避けようとするなんてわがままじゃないか、と。たしかにそうなんです。実に大人気ない。でも私は、それが暴力であると受け止めてしまった以上、これからますますあの満員電車に耐えられなくなるだろうなと思っています。

満員電車の暴力から逃げるために、コロナ禍を奇貨として数年前に登場した「リモートワーク」が一瞬輝いて見えたこともありました。でも少なくとも私の仕事については、その有効性はとことん色が褪せきっています*2。というわけで、仕事から完全にリタイアするその日までは、いまのような数時間前の出勤を続けるしかないんでしょうね。まあ、その時間を利用して本も読めますし、これはこれで悪くはないのですが。

*1:ヒヤリ・ハット - Wikipedia

*2:このブログでも、その失望感を縷々書き綴ってきました。 オンライン授業 カテゴリーの記事一覧 - インタプリタかなくぎ流

デジタル馬鹿

ゲームとは縁遠い生涯を送って来ました。自分には、ゲームのある生活というものが、見当つかないのです。自分はビデオゲームがこの世に登場する以前に生れましたので、ゲーム機をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。親が禁止していたこともあってファミコンゲームボーイやプレステの類も手にしませんでしたし、スマホが登場したのちにいくつかのゲームアプリで遊んだことはあるものの、のちにそれはただ企業が我々の注意を引きつけてお金をかせぐための頗る実利的な手段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。

率直に申し上げて私は、ゲームは単なる時間の無駄遣いだと思っています(暇つぶしも時にはまたよし、ではありますが)。でもこれまでは、「ほとんどやったこともないものを批判するのはいかがなものか」、「もしかしたら、ゲームにも何からの利点や学びがあるのかもしれない」、「瞬発力や思考力や想像力などは高まるのかもしれない」とも思っていました。ところが今回読んだミシェル・デミュルジェ氏*1の『デジタル馬鹿』*2では、世界中の膨大な研究結果をもとに、はっきりとゲームは無意味である、いや、それどころか深刻な弊害があると明言されていました。


デジタル馬鹿

私はこの本を、アテンション・エコノミー(注意経済)への興味、というか警戒感から手に取りました。ところが、はからずも教育という自分の仕事のど真ん中に突き刺さってくる内容でした。というのも、ゲームやSNSなどに興じるスマホ画面と首っ引きな学生さんたちと日々相対しているからです。さらに2019年、つまりコロナ禍が始まる直前に上梓された本でありながら*3、コロナ禍で一気に広まり、教育の革命などと持ち上げられ、その後急速に失望が広がったオンライン授業の陥穽も見事なまでに暴き出しています。

この本では、上述したゲームはもちろん、その他のあらゆるデジタルコンテンツを表示するスクリーン*4そのものが持つ問題点について、厳しい批判を加えています。大人はともかく(すでに手遅れ?)、特に子どもたちがスクリーンに釘付けになることの弊害を、大量の研究結果を示しながら説いているのです。スクリーンは脳や知性、集中力、学校の成績、心身の健康(不眠から肥満まで!)などにいずれも深刻な悪影響を与えると。

デジタルネイティブ」についても、そんなものは神話であり幻想だと容赦がありません。いわゆるデジタルネイティブ世代などというものもないし、その世代がデジタルデバイスを用いて生産的なことをしているという事実もなく、その営みのほとんどはゲームや受動的消費のような遊びに使われているだけなのだと。むしろ現在のデジタルテクノロジーは、誰でも(馬鹿でも)すぐに使えるように、引き込まれるように作られており、だからこそ最大限に警戒すべきなのだと。

さらには、スクリーンにデジタルコンテンツを映し出すデバイススマホタブレットやテレビなど)がそこにあるだけでも、子どもたちの注意が惹きつけられ、他の人との会話が減り、心身の発達が遅れ、ひいては言語にも悪影響をもたらすとまで述べています。さらには、確たるエビデンスもなくデジタルコンテンツを称賛するメディアに対しても鋭い批判を浴びせています。その舌鋒の鋭さに、うっかりこれは陰謀論の類ではないかと身構える人もいるんじゃないかと心配になるほどです。

でももちろんそうではありません。それは巻末に付された参考文献の圧倒的な多さからもわかります*5。この本を訳された鳥取絹子氏は「訳者あとがき」で、こうした研究や研究に基づく論文のほとんどは英語で発表され、日本に紹介されることはかなり少ないと書かれています。つまり、日本の私たちはこうした知見に対してかなり「手薄」になっていると自覚しておいたほうがいいということですね。その点でもこの本を日本語で読める意義は大きいと思いました。

*1:ミシェル・デミュルジェ氏はフランスの国立衛生医学研究所所長で、かつ認識神経科学の第一人者だそうです。この本はやや学術書的な趣が強いので、アンデシュ・ハンセン氏の『スマホ脳』ほど取っつきやすくはないかもしれません。 qianchong.hatenablog.com

*2:日本語版のタイトル『デジタル馬鹿』はちょっとどうだろう……と思ったのですが、奥付を見てみたら原題のフランス語も“La Fabrique du crétin digital: Les dangers des écrans pour nos enfants(デジタル馬鹿製造工場ーー子どもたちにとって危険なデジタル画面)”なのでした。著者の「怒り」が伝わってくるようです。

*3:邦訳は2021年。

*4:この本の翻訳では「画面」。

*5:参考文献欄だけで50ページもあります。

老いの生きかた

「老い」を意識しだしたのはいつ頃からだったでしょうか。私の場合は50歳を超えた頃からだったと思います。いや55歳を超えた頃からだったか。身体の不調はそれ以前からあって、長い間、いわゆる「男性版更年期障害」のようなものに苛まされていました。ところがそれとは違う種類の不調、より端的に言えばさまざまな身体機能の衰えみたいなものを感じ始めたのでした。まさしく「老い」の兆候です。

「老い」の現れ方には諸相あろうかと思いますが、私の場合にはそれまでできていたことができなくなるという形で現れました。お酒が飲めなくなる、量が食べられなくなる、長く寝られなくなる、体力が続かなくなる、細かいものが見えなくなる……実際にはもっとたくさんあって、ことに尾籠な話に集中するのでこれ以上は列挙しませんが、とにかく「〜なくなる」ことが凄まじい勢いで増えていくのです。

なんだよ、誰もそんなこと教えてくれなかったよ、それならそうと早く教えてくれよ……と思いました。でも実は、あまたの先賢明哲が教えてくれていたのです。それを私は、自分が「老い」を意識しだしてから片っ端から読んだあまたの「老い」に関する書物で知りました。単に「老い」を意識する前にはそうした書物に食指が動かなかっただけなのです。

だから、「老い」に関する優れた洞察は、なかなか有効な形では上の世代から下の世代へと受け渡されていかないのかもしれません。そりゃまあそうです。才気煥発たる少壮の世代が、「老い」の二文字を冠した文章や書籍に興味を示す暇も理由もないでしょうから。才気煥発ですらなかった私にしてからがそうなんですから、他の方々ならなおさらそうでしょう。

かくして「老い」は誰にとっても、予期せぬ初めての経験として突如目の前に立ち現れてくることになります。ただ、もっと早く知っておけばよかったと思う一方で、仮に早く知っていても、その意味するところをしみじみ実感できはしなかっただろうなとも思います。同病相憐れむといいますか、こうした事柄は真に自らがその渦中に放りこまれて初めて共感できる類のものなのかもしれません。

ただし、「老い」に関して言えば、けっして「〜なくなる」といったネガティブな側面ばかりではありません。それもまた「老い」に関するあまたの書物を読む中でたびたび共感を覚えるところでした。以前にも書いたことがありますが、「老い」はまたある種の解放、「本当に自分であることが許される」ことを招来するものだからです。

qianchong.hatenablog.com

負け惜しみのように聞こえるかもしれないけれど、「老い」はそういう新たな希望を含むものであるというのが、だんだんに分かってきたところです。先日読んだ鶴見俊輔・編のアンソロジー『老いの生きかた』に収められていた、幸田文の『現在高』にはこんな一節がありました。

ものの一杯に詰った袋には、それ以上新しくはいれられない。が、空っぽになった袋へは、新しく選んだものをいれることができる。思えば“失うもまたよし”“失ったあとには新鮮が来る”です。老いて失ったものをなげくことはない、新陳代謝だと思えばいい


老いの生きかた

幸田文は「老い」に至って自らの「現在高」、つまりは自分の中にあるもろもろの残高だけを勘定するなど「思い上がり、不謙遜」であり「天から降される成行き、ともいうべきものを忘れては不所存」だと言います。そうして氏ご自身は、還暦を過ぎてから奈良・法輪寺の三重塔再建に尽力するようになり、さらには自らも奈良に移り住むことになるのです(幸田文 - Wikipedia)。

老いの自覚があったら、ともあれ、体力能力気力、その他一切の持物の、現在高を確認すること、その上で何なりと選ぶ道を決めることです。終りよきものすべてよし、です。すっきりした老後を送ることは、先に行く者が後の人へ残す、元気のもとーーとそう大げさにいわずとも、あなたが私が、いささか子に贈る思出になりませんかしら。

なりますとも、なりますとも。私が贈ることのできる子はいないですけど、こういうことが言える境地にぜひ至りたいものです。

自分が死ぬときには

母親が亡くなったので、実家のある北九州市に数日間行ってきました。母は長い間難病を患っていたので心の準備はできていましたから、訃報を聞いたときも「そうか……よくがんばったね」と静かに受け止めましたし、葬儀に関するあれこれもとても淡々としたペースで進みました。

というか、実家から遠く離れた東京に長く住んでいる私は、実際のところ実家とはかなり疎遠な親戚みたいな感じになっています。それで、葬儀については実家の父親と、実家近くに住んでいる妹の二人が万端整えてくれていて、私たち夫婦はただ寄り添うことくらいしかできないのでした。

父親は、自分と母親の葬儀のために葬祭会社による互助会のようなものに入っていて、毎月お金を積み立てていました。それが満期になっていたので、葬儀の費用はそこから捻出できることになっています。とはいえ、葬祭というものにはさまざまなオプションの選択肢があり、その選択次第では費用もかなり違ってきます。私はそれを、かつて義父の葬儀の際にいろいろと経験しました。

葬祭会社はもちろんお仕事ですから、きわめてていねいな口調ではありながらこちらの懐を探ってこられます。ただでさえ親族が亡くなって茫然としているところに、あれこれの選択が迫られ、そこにスタッフさんの「通常みなさま◯◯をお選びになります」的な営業トークが重なると、ついつい出費がかさむ方向に導かれてしまうのです。

そんなときはむしろ私のような「疎遠な親戚」的立場にある者のほうが冷静になれるのかもしれません。父親や妹が「だったら、このクラスでお願いしようか」的な判断をしそうになるたび私が「いやいや、もう少し考えてみたら」と袖を引っ張りました。そうやって、祭壇も棺桶も霊柩車も一般的でリーズナブルなところに抑える一方で、お花などはあまりケチらないという方向で落ち着きました。

それでも(これが葬祭会社の上手なところなのですが)互助会の満期になっていた会費を差し引いても、結局は葬儀の会場や司会やお坊さんの手配や火葬に必要なあれこれや、つまりは出費を抑えることができないたぐいの固定的な費用がどうしてもかかるようになっています。結果、私個人の金銭感覚からすればかなりの出費になっていました。もちろん父親も妹もその他の親族も納得のうえですから、何の問題もないとはいえ。

ともあれ、葬儀から火葬までを無事にすませ、私は東京に戻ってきたわけですが、その一連の流れに身を置きながら、やはり自分が死ぬときにはこういった一切とは無縁でいられたらいいなと思っていました。葬儀も、戒名も、墓所も、その後の供養も一切。火葬だけはしてもらわなきゃならないですけど、骨は拾わなくていいし、もちろん骨壺も仏壇も位牌もいらないし、骨はその場で火葬場に「処理」してもらって、埋葬も散骨もしなくていいです。

とはいえ、いくら自分がそう望んでも、家族はそういうわけにはいかないでしょう。というか、葬儀や供養にまつわるあれこれは、そもそも死んだ本人のためのものというよりは、残された人たちにおける心の安定のためのものなのです。そう考えればどうせもう自分は死んでいるんですから、その後に家族がどういう葬儀や供養をしようと知ったこっちゃない(死んでるんだから知りようがない)ということになるんですけど。

ちなみに妻は私と真逆で、盛大に葬儀と供養をしてほしいんだそうです。会葬者もできるだけ多く呼んでほしいし、一大イベントとして盛り上げてほしいって。はいはい、あなたが先に死んだら、そのとおりにして差し上げますよ。

自分の時間を取り戻す努力

先日書店に行ったら、ジェニー・オデル氏の『何もしない』が文庫で再版されて平積みになっていました。私はハードカバー版を以前に読みましたが、正直に申し上げて、とっつきやすいタイプの本ではありません。それでもこうやって文庫化されるということは、それだけ多くの読者を得ており、またアテンション・エコノミー(注意経済)の弊害と不毛さがより多くの人々に理解され始めたということなのかもしれません。


何もしない

qianchong.hatenablog.com
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この本や、カル・ニューポート氏の『デジタル・ミニマリスト: 本当に大切なことに集中する』(これも文庫化されました)を読んだあたりから、私はつとめて自分の時間を取り戻す努力をするようになりました。スマートフォンやパソコンと、そこに表示される「こちらの注意を引き、時間を奪っていくもの」からできるだけ距離をとり、あるいはそこから「降りる」ことを心がけてきたのです。

具体的には、SNSをやめ、ニュースサイトを見ないようにし、それらのアプリのアイコンを画面から削除し、アプリからの通知を切り、なるべく紙媒体のコンテンツを優先するようにする……などなどです。特にリンクが張り巡らされ、すぐに検索ができてしまう電子デバイスから遠ざかることは、すでにしてじゅうぶんに中毒になっている自分からすれば、かなりきついことでした。というか、いまでもまだ脱しきれていないと思います。

それでもここのところようやく、始終電子デバイスの画面に向かわなくても落ち着いていられるようになってきました。もう私は年齢も年齢ですし、かつてのように人に先んじてなにか新しいことにコミットしなければとキリキリ神経をとがらせる必要はないのです。FOMO(fear of missing out:取り残されることへの恐れ)に苛まされる必要もない。そういうのは疲れちゃうし、楽しくもないし。

私はデジタルネイティブ世代ではないけれど、しかし逆にデジタルデバイスがまったくない時代からひとつひとつそうしたデバイスとソフトウェアの恩恵にあずかりつつ、かつ心躍らせつつ、「こんなことまでできるようになった!」を何度も感じながらここまでやってきた世代です。ある意味、デジタルネイティブよりもさらにパソコンやスマートフォンやインターネットへの「帰依度(?)」みたいなものは強いのです。

そんな自分ですから、おそらくこのさき仕事から完全に引退したとしても、そうしたものたちとまったく縁が途切れてしまうことはないでしょう。これからも深いおつきあいを続けていくことは間違いありません。でもそこにはきわめて強い抑制を効かせておく必要があります。自分の残り時間をこれ以上アテンション・エコノミーに絡め取られてしまわないように*1

……などと言いながら、この「はてなブログ」をパソコンで書いていること自体が矛盾してますけど。でもまあこれは頭の健康のための基礎トレなので、自分で自分を許すことにしています。書いたらさっさとパソコンを閉じて、紙の本の読書に戻ります。

*1:……しかし、そういう自分が、自分のブログにAmazonアフィリエイトプログラムを導入しているのも、欺瞞と言えば欺瞞です。これもやめることにしましょう。

京都念慈菴蜜煉枇杷膏

風邪をひいて喉を痛めてしまい、授業でも話し辛そうにしていたからか、シンガポールの留学生が「センセ、これどうぞ」と京都念慈菴の蜜煉枇杷膏(はちみつ枇杷シロップ)をくれました。やさしい〜。先日は香港の留学生からも同じシロップをいただきました。そう、これ、中国語圏ではとてもポピュラーなのど薬なんですよね。

スティック状のパックは手でも開けやすいよう端にステッチが入っていて、このまま舐めてもいいですし、お湯や水に溶いて飲んでもいいのです。さっそく服用しました。いつものことですが、この枇杷シロップをちびちび舐めていると、すぐ脳内に「♪ちゅ〜るちゅ〜るCIAOちゅ~る」のあの曲が流れます。


www.youtube.com

観客のゲラがないとおもしろくない

『映像研には手を出すな!』の作者・大童澄瞳(おおわらすみと)氏が「ライブ配信で笑い屋が欲しいと思うことがある」とおっしゃっていました。YouTubeの「積読チャンネル」にゲスト出演された際の発言です。


www.youtube.com

リアルタイムで笑ってくれる誰かがいると、めちゃくちゃ話しやすいっていう。いくら自分がおもしろい話をしてても、フィードバックがないとっていう、そういうのがあるんですよね。だから深夜ラジオとか聞いていると、構成作家がちゃんと合いの手を入れたり笑ったりとかしてくれているのが、本当に大事なんだと思って。

ああ、心から同感です。コロナ禍でオンライン授業を余儀なくされた時に、私もそれを痛感しました。こちらが話しているときに、笑ってくれたり、あいづちを打ってくれたり、なんなら画面の向こうでうなずいてくれるだけでも、ずいぶん話しやすくなります。そういったものが一切なく、相手が全員ミュートの状態、かつ無反応の状態でえんえん話し続けるというのは、確実に精神を蝕みます。

私はいまもオンライン授業を受け持つことがありますが、生徒さんのなかにはフィードバックどころか、画面に顔が半分しか写っていないとか、画面の奥の方にちっちゃく写っているとか、あるいは逆光でよく見えないとか、マスクで表情がほとんどわからないとか、さらには音声のみならず映像まで切って参加する方がいることもあって、そんな環境で話をするのはとてもつらいです。

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大童氏も「コロナ禍のときのお笑いライブや、レコードで落語が流通し始めた初期の頃に収録で観客を入れずにただ淡々と話しているものなど、ネタはおなじなのに全然おもしろくない」とおっしゃっています。ゲラ、つまりよく笑ってくれる(よき反応をしてくれる)「質の高い観客」が必要なのだと。いやこれ、オンラインの場だけではないですね。実際に対面しての授業や会議などでも、まったく反応のない状態で話すのはしんどいです。それだけ自分の話がおもしろくない、ということなのかもしれませんが。

かつて通訳者の柴原智幸先生の授業に出た時、私たち生徒の反応がないことに対して柴原先生は「こちらがなにか問いかけたら、『はい』でも『うん』でも『わかりません』でも、なにか反応を返すべきです。コミュニケーションの仲立ちをする通訳者を目指すみなさんが、そこまでコミュニケーションに非積極的であってはいけません」とおっしゃっていました。以来私は、自分が聞く立場にあるときは、できるだけ反応するように心がけています。「うんうん」ってうなずくだけでも、話し手にとってはありがたいんですよね。

またこの動画の後半では、「作者の気持ちを考える」ことについて、こんなことも語られていました。

「作者の気持ちなんか分かるワケないじゃん」ってまあ、それは正しいんだけど、それを言ってていいのは小学生までで。小学生が「作者の気持ちなんか分かるワケないじゃん」って言ってたら、まあ、あ、ちょっとおもしろい子かなコイツはって思えるんだけど、大人になってまでそれ言ってる人がいたとすれば、それは物語を読んで理解できない人だっていうことなんで、ダメじゃんみたいなことを思うんですけど。批評ができない人かなと。

この「批評」が大切だというの、これも同感です。いまSNSを始めとするネット空間には罵詈雑言や不毛なマウント合戦などがあふれかえっています。ほとんど「通り魔」的とさえ思えるようなコメントやリプライが多すぎるのに疲れて私はSNSから降りてしまいましたが、あれも要は「作者の気持ちなんか分かるワケないじゃん→だからオレはオレの気の赴くままに言わせてもらうぜ」というような思考の放棄、ないしは批評の不在なんですよね。つまり、オンラインのコミュニケーションでフィードバックがないことも、「作者の気持ちなんか分かるワケないじゃん」も、いずれも発信者に対する敬意の欠如なのです。

ただそうは言っても、どうせほとんどは罵詈雑言やマウント取りや通り魔的コメントでしょとSNSを一様に見限ってしまうのも、そこで行われている多種多様なコミュニケーションに対する敬意の欠如なのかもしれません。なかには批評精神にあふれたやりとりだってあるはずなんですから。でも私にはもう、あの殺伐とした短文の行き交う空間、なかんずく「通り魔」的に言葉を投げつけては消えていく(それも匿名で)人が多すぎる空間に戻る気力はないです。

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それにしても大童澄瞳氏の語り口はとても魅力的です。ほとんど冗語をさしはさまず、でも堅苦しくなく、それでいて言葉はきちんと選びながら話されていると思いました。頭の回転が速いんだなあと。『映像研には手を出すな!』はアニメで見たことがありますが、マンガの原作は読んだことがありませんでした。それでつい、既刊の1〜9巻をまとめて大人買いしてしまいました。

映像研には手を出すな! コミック1-9巻セット

カズオ・イシグロとイングランド

職場の学校では毎年この時期、同時通訳の実習が行われます。二年間通訳や翻訳を学んできた留学生が、その総仕上げとして日本語の講演会を英語と中国語に同時通訳するというものです。会場は同時通訳ブースつきの大きな会議室。講演会の講師は外部からお呼びすることもあるのですが、今年は僭越ながら私が講師役を仰せつかりました。英語も中国語もわからない日本人が話すという設定で、講演後の質疑応答まで含めて留学生のみなさんが訳してくれます。

講演のテーマは「カズオ・イシグロイングランド」にしました。私は英国の作家カズオ・イシグロ氏の小説『日の名残り』が好きで、昨年の夏にその小説の舞台となっている南西イングランドを「聖地巡礼」してきたので、その時のことをイシグロ作品の解題とともに語ってみようと。


以前このブログにも書いたことがありますが、英国のとあるお屋敷付き執事である主人公のスティーブンスによる、年老いた現在と若かりし過去のストーリーが輻輳しながら進むこの作品。タイトルの『日の名残り(The Remains of the Day)』に込められた人生の黄昏、そこにオーバーラップする英国貴族と「大英帝国」の凋落、その先にそれでも見出すことのできる穏やかな未来……スティーブンスと同年代に至った私にとってはいろいろと考えさせられる作品なのです。

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通訳業務は「予習が九割」なので、170ページあまりにおよぶ大量のスライド資料を作って事前に配りました。そうした大量の予習資料をいかに効率よく捌いて「本番」に備えるかも実習の教案に盛り込まれています。お若い留学生のみなさんがこのテーマにどれだけ興味を持ってくれるか不安でしたが、みなさんとてもよく予習に力を入れて、当日は素晴らしい通訳をしてくれました。それは講演後の質疑応答時に時間が足りなくなるほど会場から手が上がったことからも分かります。みなさん、本当におつかれさまでした。

思い返せば、初めて人前で講演らしきものをしたのは、熊本県水俣市水俣病関係のNPOに勤めていたころ、ユージン・スミスの写真集『MINAMATA』について、学校教員のセミナーみたいな催しで説明したときでした。何日も前からとても緊張していて、当時のパートナーを前に何度もリハーサルをしたことを覚えています。


MINAMATA

その時は、講演の後から聴衆のお一人に「若いあなたが一所懸命に話しているというそれだけでも伝わってくるものがあった」と言われました。講演としてはあまりにも拙かったということだと思います。

それから幾星霜、ひょんなことから通訳者になり、さらには教師と呼ばれる立場になって、言ってみれば人前で話すことが生業のようになりました。一時間なら一時間、二時間なら二時間で話をまとめることができるようになりましたし、講演原稿は作らずに簡単な箇条書きや時間配分のメモ程度で話すことができるようにもなりました。とはいえ、もともと「コミュ障かつ出不精」な人間なので、いまでも授業などで話し始める前は緊張しています。

それが今回の講演では、話し始めるときも話しているときも、まったく緊張しませんでした。たぶんここまで緊張しなかったのは初めてだと思います。最初に人前で話す経験をしてから三十数年を経て、ようやく落ち着いて話すことができるようになった。これは新しい気づきでした。『日の名残り』でも語られているように、人生は「夕方が一日でいちばんいい時間」なのかもしれません。


ちょっと贅沢な珈琲店

味の素AGFに「ちょっと贅沢な珈琲店」というシリーズがあります。

agf.ajinomoto.co.jp

そのシリーズのうち、レギュラー・コーヒーのドリップパック(カップの縁に掛けてお湯を注ぐやつ)をよく買うのですが、最近、そのパックにそれぞれ異なるメッセージみたいなものが書かれていることに気づきました。


いつものコーヒーをどうぞ
今日もいい日になりそうですね
疲れたなら一休み
気を張りすぎてはいませんか?
気長にいきましょう
自分勝手もいいじゃないですか
もう一杯いかがですか?

こんな感じ。こうやって並べてみると、なんだか詩みたいですね。仕事の合間にコーヒーを飲もうとしてこのメッセージを読むたび、なんとなく癒やされているような気分になる自分に気づきました。次はどんなメッセージが現れるかなと期待してたりして……そうとう疲れているんだなと思います。

一生かかってもここにある本をすべて読めない

図書館とは「そこを訪れた人たちの無知を可視化する装置である」と、内田樹氏が書いておられました。氏の著作を韓国語に訳されている朴東燮氏が、韓国語版オリジナルとして企画された一冊『図書館には人がいないほうがいい』の日本語訳ーーじゃないですね、もともと日本語で書かれた文章ですから、この場合は日本語版ですかーーに出てくる一節です。

どこまでも続く書棚のほとんどすべての書物を僕はまだ読んだことがない。そして、自分に残された時間の間に読むこともできない。この世界の存在する書物の99.99999……パーセントを僕はまだ読んだことがないし、ついに読まずに終わる。その事実の前に僕はほとんど呆然自失してしまうのです。(23ページ)


図書館には人がいないほうがいい

この「呆然自失」という感覚、とてもよくわかります。図書館もそうですが、私は比較的規模の大きな書店に行くときにも、よくそういう感慨にとらわれます。でも、大きな書店ではあっても蔦屋書店とかジュンク堂とかブックファーストだとあまりそういう感慨にとらわれることが少ないのは、あれはなぜなのかしら。

それはさておき、自分にとって忘れがたいのは、いまはもうなくなってしまった渋谷の大盛堂書店です。たしか「本のデパート」というキャッチフレーズを掲げていたような。スクランブル交差点にはいまも小さな大盛堂書店がありますが、あれとは別店舗で、渋谷駅から公園通りに沿ってすぐのところ、西武百貨店のお向かいぐらい、たぶんいまZARAがある辺りじゃなかったかな。

間口は狭かったものの上の階までぎっしり売り場があって、奥のほうはけっこう複雑な構造だった記憶があります。あまりポピュラーではなさそうな専門書なども多く揃っていて、あの売り場で「ああ、一生かかってもここにある本をすべて読めないんだなあ」といった焦燥感みたいなものに駆られるのがつねでした。

最近、津野海太郎氏の『生きるための読書』を書店で偶然「本に呼ばれて」読んだのを皮切りに、氏の『最後の読書*1、『百歳までの読書術』、『かれが最後に書いた本』など片っ端から読んでいます。さらにその合間に小田嶋隆氏の『諦念後』や藤原智美氏の『スマホ断食』なども読むにつれ、あらためて、ああ、じぶんが生きているうちに読める本はもうそんなに多くない、SNSやネットニュースや動画サイトやゲーム(これはもとから縁がないけど)にうつつを抜かしている場合ではない、とつよくつよく思うのです。


生きるための読書

もとより私は、マンガを除いては電子書籍が読めない(読んだ気がしない・記憶に残らない)体質であることは実証ずみですので、ネットやスマートフォンからはこれまで以上にできるだけ遠ざかって、そのぶん紙の本を読もうと思います。ただでさえ呆然自失とするくらい死ぬまでに読めない本がほとんどだというのに、それがさらに減るのはカンベンしてほしいです。

これも最近、『東京わざわざ行きたい街の本屋さん』の改訂新版が出まして、それほど規模は大きくないものの心ときめく個性的な本屋さんがあまた紹介されています。これからは仕事のない週末に「街の本屋さん」巡りをして、少しでも多く「本に呼ばれる」体験をしよう、Amazonのリコメンドにたよるのではなくてーーそれをこれからの趣味にしようと思い立ちました。


改訂新版 東京 わざわざ行きたい 街の本屋さん

*1:しかも恐ろしいことに、ほんの2年半ほど前にもこの本を読み、このブログにもそのことを書いておきながら、あらためて読んでみたらほとんど内容を覚えていませんでした。若い頃にはまずなかったこうした現象が、ここ数年たびたび起こっているのです。リアルな「老い」を感じます。