第091話 土の味
目を開けると、目の前には枝があった。
雪が溶け、去年落ちた枝葉が顔を出している。
一冬の間に腐った皮が、黒く濡れていた。
あぶくが水の中を登るように、意識が浮揚してゆく。
脳が回復し、意識がはっきりとしてくると、体中にズキズキとした痛みを感じた。
どうなっているのだ、と、体を確かめると、俺は腰の上だけ少し宙に浮いた状態で、上半身だけ地面にぶら下がっているようだった。
かなり無理な体勢だ。
どうやら、意識を失っていたらしい。
しだいに、先ほどまでのことを思い出す。
竜と、竜の尾に叩かれて撃墜されたことを。
腰の安全帯はまだ解かれておらず、星屑につながっていた。
腰が浮いていたのはそのせいだ。
そうだ、星屑……。
手早く安全帯を解くと、腰に重い痛みが走った。
地面に激突したときに、股関節に負担がかかったのだろう。
骨盤でも骨折していたら、と思うと、恐怖がこみあげてきた。
冷静に考えて、そうしたらこの場から身動きが取れない。
いや……ネガティブな考えはよそう。
こういう時こそ、冷静にならなければ……。
安全帯が外れ、体重を支えるものがなくなると、ぐしゃ、と下半身が地面に落ちた。
痛む腰に力を入れ、なんとか立ち上がると、痛いことは痛いが、骨が割れているような痛みはなかった。
足を半分引きずりながら、星屑のほうを見た。
見る前から、どす暗い悲観的な予感しかなかった。
少し離れて星屑を見る。
星屑は、まだ息をしていて、目をぱちくりとさせていた。
だが、両方の羽は折れ、滅茶苦茶になっていた。
体は横向きに倒れていて、下敷きになっているほうの羽は、根本から異常な向きに曲がっている。
体の上にある羽も、骨が折れてしまっているせいで畳めないようで、だらしなく開いたままだった。
地面に衝突するときに木を引っ掻いたのだろう。
趾は反り返るように折れ、爪は剥がれかけていて、使いものになりそうになかった。
星屑は、クチバシを開けて細い息をしていた。
この様子だと、内臓も破裂しているのかも……。
俺は、星屑が下敷きになってくれたおかげで、助かった、らしい。
そのことは、すぐにわかった。
だが……俺には星屑をどうしてやることもできない。
鷲は、片方の羽が折れてしまっただけで衰弱してしまう。
それが、両方の羽が折れた上、趾も壊れているのでは、座ることもできないし、寝ることもできない。
経験が、この怪我ではもうどうやっても助けてやることはできない。と言ってくる。
もしここがホウ家領の鷲牧場で、最良の治療の道具と、経験に長けたルークが付きっきりで看病する体制が整っていても、どうにもならないだろう。
だから、通常、こういう怪我をしてしまった鷲は、安楽死をさせるのだ。
だが、目の前にいるのは、星屑だった。
騎士院に入ったときから、八年も一緒に空を共にしてきた。
そして、俺の代わりに重症を負った……。
俺の命を助けてくれた星屑に、俺はなにもしてやれないのか。
大きな借りを作ったまま、そのまま逝かせてしまうのか……。
「クルルッ………」
星屑が力のない声を出した。
星屑は、俺を見ていた。
鳥には表情がなく、どういう望みでいるのか、なにが言いたいのか、わからない。
俺を責めているのか。
それとも、俺の無事を喜んでいるのか。
苦痛からの解放を望んでいるのか。
わからなかった。
解ったとしても、それは俺が自分の都合のいいように解釈した結果なのだろう。
一言でも言葉を喋ってくれたら、最後に望むことをしてやれるのに。
恨んでいるのであれば、己の無能を謝ることもできた。
だが、現実には、星屑は喋らない。
言葉もわからない。
俺が、星屑のためにしてやれることは、一つだけしかない。
星屑がそれを望んでいるかは解らない。
望んでいないのかも知れず、これは俺のエゴなのかもしれない。
俺は、命を助けてくれた相棒に対して、酷い仕打ちをしようとしている恩知らずなのかも。
だが、決断をする必要はある。
やるのなら、いたずらに苦痛を長引かせるのは、酷な仕打ちでしかない。
腰の後ろに刺していた短刀を抜き、確かめる。
引き抜くと、鞘の中で曲がっていた。ということもなく、収めたときと同じ輝きを放っていた。
星屑は、短刀を見ても、なんの反応も示さない。
俺が今からやることを察しているのだろうか……。
「星屑……」
俺は星屑の顔を抱いた。
星屑は、何か安心したように、首の筋肉を弛緩させる。
「ありがとう。お前のおかげで、命が助かった」
すまない。
と心の中でいい、俺は短刀を星屑の首裏に深く突き立てた。
ぐいっと横に引くと、鋭利な短刀は、首の骨ごと延髄をブツリと切断した。
星屑は、身じろぎさえせずに、それを受け入れた。
息絶えると、力が抜け、ズシっと重くなった。
ああ、死んだ。
共に空を駆けた友人が死んだ。
俺のせいで。
俺は、星屑の首を慎重に横たえると、短刀をおさめた。
そうして、最も大きな風切羽を三枚取ると、鞍に載せてあった鞄にしまった。
できるなら埋めてやりたいところだったが、それはできそうにない。
やるべきことがたくさんある。
***
これからどうしよう。
そう考えた時、まず頭に浮かんだのは、観戦隊のことだった。
どれくらい経ったのか判らないが、おそらくはキャロルまたはリャオが指揮を引き継いでいるはずだ。
キャロルはどうなったか判らないが、とにかく事故ったのは間違いないから、現在はリャオが指揮をとっている可能性が高い。
もしかしたら、まだ空中にいるかもしれない。
俺は、一縷の望みをかけて、空を見上げた。
当たり前だが、日差しさえ遮る枝葉に邪魔をされ、天空の様子など解らなかった。
目につく範囲で一番高い木を探すと、それに登ることにした。
筋肉が麻痺しているような感じがして、どうにも登りづらく、途中何度も激痛が襲ってきたが、とにかく登った。
そうやって木の頂上に至ると、俺はできるだけ枝を切り払った。
そうして、上空を見た。
いた。
王鷲たちは、俺のいる真上をくるくると回っていた。
そして、遠く……ここから三百メートルほどのところにも、同じようにして同数程度の鷲が回っている。
俺は笛を吹いた。
とにかく大きく音を出すと、ずっとこちらを気にかけていたのだろう。
鷲が一羽降りてきた。
すぐにわかった。
リャオの鷲だ。
だが、鷲はハチドリのような滞空を長時間続けることはできない。
リャオは、少しそれに挑戦はしてみたものの、すぐに諦め、バンク角を大きくとって地上を見られるようにしたまま、器用に小回りを始めた。
俺は、まず、あらかじめ決めておいた符丁で笛を吹いた。
姫はどこだ、つまりはキャロルはどうした。という符丁だ。
リャオは、死んだとも編隊にいるとも言わずに、ついて来い。という意味の笛を鳴らした。
旋回を一時やめ、旗のついた槍をビッと一方向に向ける。
もう半分の鷲が周回している地点だ。
やはり、キャロルも墜ちていたか。
半分は俺、半分はキャロルの落下地点に別れ、地上を監視していたわけだ。
俺は素早くポーチを探ると、コンパスを取り出して方角を確認した。
ガラス面の外側に取り付けてある、矢印のついた金属蓋を回し、キャロルの方向をマークする。
地上に降りたら、鷲が回っている方向はわからなくなってしまう。
しかし、難しいところだ。
王鷲は、森林には着陸できない。
それが、たぶん生息分布が限られている理由なのだろうが、王鷲は岩場で狩りをする生物なのだ。
森林の林冠部に突っ込んでいって、無事でいられるようにはできていない。
単純に、森で生活するには図体が大きすぎるし、羽の構造が更に問題だからだ。
鷲の羽でもっとも重要なのは、羽の先端部にある初列風切羽で、これが破けると飛行が難しくなってしまう。
一番引っかかりやすい羽の先端が重要なのだから、それを傷つけずに樹冠部を突破して鷲を森に降ろすというのは、絶望的な作業になるだろう。
安全に鷲を離着陸させるには、具体的に言えば、安全をとって直径七メートルほどの幅が必要と言われている。
五メートルあれば可能性は見えてくるにしても、鬱蒼とした森で、上にも下にも直径五メートルのスペースが空いている。というところは、存在しない。
そんな場所があったら、リャオが既に鷲を降ろしているだろう。
もう一つ、懸念があった。
上空を見ると、リャオの鷲も疲れているのが見て取れるのだ。
バランスがあまりとれていない。
リャオの鷲は、ルークが育てたものではないが、それでも十分以上に良く鍛えられた鷲だ。
それが疲れているということは、他の鷲も、もう限界なのだろう。
少なくとも、三百メートルほど離れたキャロルのところに、俺が辿り着くまで待っていられるとは思えない。
万全の体調であるなら、すぐにでも到着する距離だが、さすがにこの痛みでは全速力で走れるか怪しい。
ピーッピピッピー、と、鷲の体調を尋ねる符丁を吹くと、ピッピッピッピ、と四回吹いてきた。
これは、鷲の体調を五段階評価で答えることになっていて、五は「もう限界、墜落します。お元気で」といったような意味だから、リャオの返答は、帰りの道程があることを考えると、限界に近いことを意味していると考えていい。
キャロルを鷲に乗せて帰らせる、という手は潰れた。
キャロルと合流、開けたところに移動、そこから鷲に乗せて離陸、俺は誰か知らんが団員と二人で自力で帰還、そういう手は時間的余裕が許さない。
また、笛のみのコミュニケーションでは、後日このポイントで待ち合わせ、といった複雑な作戦立案を、その場で行うこともできない。
俺は決心して、ピーッ、ピーッ、ピーッと、三回長く笛を吹いた。
帰投せよ。という意味の笛だ。
そうすると、リャオは、笛を返してきた。
負けた。という意味の符丁だ。
負けた?
なにに負けたんだ。と思っていると、リャオはまた別の方向を槍で指した。
コンパスを確認すると、意味がわかった。
自分が落下したはずの森から考えて、その方向は、主戦場となる地帯であるはずだ。
ああ、シャン人のほうの連合軍は、やはり負けたのか。
しかし、今の状況では、本当に勝っていてほしかった。
リャオは、続けて了解。という笛を返すと、その場で槍を掲げた。
そして、何やらゴソゴソとやっているかと思ったら、俺のいるところの近くに槍を落とした。
鷲にくくりつけてある荷物も、続いて落ちてくる。
これを使え、という意味だろう。
ありがたい。
もう本当に限界に近かったのか、リャオはすぐに羽を翻し、編隊を一つにまとめると、飛び去っていった。