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第064話 キャロルとミャロ 後編*

 では、お話ししましょうか。


 そのまえに、お聞きしますが、殿下はボクの生まれをご存知ですか?


 いえ、そうではなく、ギュダンヴィエルの家庭の事情について多少は知っておられるのかな、と。

 ああ、祖母の名前を知っているくらいですか。

 なるほど。


 それなら、最初から説明したほうがよさそうですね。


 ボクの母親は、お祖母様が初めに産んだ子ですが、ボクの父親は騎士の生まれです。

 といっても、現実に騎士であったわけではありません。


 卒業はしましたから、騎士号は持っていたわけですが、それだけでは騎士とは呼びませんよね。

 はい、ご想像通りです。

 それどころか、爵位を持っていたわけでもないので、つまりは……まあ、一般人とほとんど同じ立場ですね。


 もう父は亡くなっています。

 いいんですよ。殿下も同じ境遇じゃないですか。


 そうですね……ついでですから、父と母が学院生だった時から話しはじめましょうか。


 父は、母と同世代の騎士院生でした。

 言うまでもありませんが、母は教養院生です。

 父の実家は、ガイ家といって、ボフ将家に連なり、代々陣爵を賜っている家系です。

 後に縁を切られたので、ガイ家の方々とは、ボクは会ったこともありません。


 いえいえ、いいんですよ。

 今となっては、ボクも会わせる顔がありませんから。


 父は、学院にいるときに母と交際していました。

 元をたどれば、母の一目惚れが原因だったようです。


 母は、ギュダンヴィエルのような大きな家の子どもだと、引かれてしまうと思ったのでしょうね。

 交際するときは偽名を使っていたようです。


 もちろん、ギュダンヴィエルのご令嬢といえば有名人だったでしょうから、父のほうも、友人にそれを相談すれば、途中で気づくことができたでしょう。


 ですが、父は仲間に交際を隠していました。

 魔女と交際しているというのは、仲間内には風聞が悪いと思ったのでしょうね。


 二人の交際は足掛け三年に及びました。

 この間には色々な出来事があったわけですが、それは省くとしましょう。


 卒業を間近に控えたある日のことです。

 母の妊娠が発覚しました。

 父の人生が狂い始めた日といってもいいでしょうね。


 父は、そのとき初めて相手が大魔女家のご令嬢だったと知りました。

 そのときまで、魔爵の零細魔女家の三女などと嘘をつかれていたわけですから、父はたいそう驚いたことでしょう。

 そういった、よほど格下の身分のお相手であれば、結婚するにしても妻に迎えれば済む話ですから。


 でも、相手が仁爵もちの大魔女家の長女とあっては、もちろん話が全然違ってきます。

 孕ませたとあっては、責任をとって婿に行く以外にありません。


 このとき、父と母の間でどのような言い争いがあったかは知りませんが、最終的に父は諦めて婿にいくことを了承しました。

 父は、おおよそこれまでの人生をすべて捨てることになりました。


 この出来事は、父の実家にとっては、もちろん醜聞でしたが、ギュダンヴィエルにとってもそうでした。

 母は長女ですから、跡取り娘と目された女性が在学中に妊娠してしまう、などというのは言語道断の話です。


 祖母は激怒したらしいですが、母のお腹が大きくなってくると、隠してもおけないので、二人は婚約ということになりました。


 しかし、その子どもは流れてしまいます。


 子どもは流れてしまったといっても、婚約を解消するわけにはいきません。

 母の妊娠が周知されていなかったら、まだ全てをなかったことにすることも可能でしたが、母自身が吹聴して回ってしまいましたから、それも不可能でした。


 父は、凍てついたような学校生活を過ごし、卒業後に結婚しました。

 そのころにはもう、実家からは勘当されていたようですね。


 父は全ての友人に見放され、実家からも縁を切られ、ギュダンヴィエルの屋敷で暮らし始めました。

 教養院を出ていないものですから、なんの仕事ができるわけでもなく、ただフラフラしているだけだったようです。

 たまに社交界などに顔をだしながら、日々を無為に過ごしていたわけですね。


 そして、結婚から十五年たって、ようやくボクが産まれました。

 はい、十五年間子どもができなかったんですよ。


 父は、初めて産まれた自分の子どもを、たいそう可愛がりました。


 家族の方々は、悪影響を恐れてか、みんな父がボクに構うのを嫌がっていました。

 でも、口では苦言を呈しても、実際に止めたりはしなかったので、ボクはずっと父に構ってもらっていました。


 いえ、そんな人間的な優しさで見逃されていたわけではありませんよ。

 単純に、母親の出来が悪かったせいで、ボクはあまり期待されていなかったんです。

 ふふ、おかしなものでしょう。


 ボクは、乳母から乳を貰って、父に育てられました。


 父は、ボクに寝物語を聞かせてくれたり、玩具で遊んでくれたり、騎士院での笑い話を聞かせてくれたりしました。

 基礎的な読み書きを教えてくれたのも父です。


 ですが、どうやらこの子は優秀だぞ、と解ってくるにつれ、だんだんと父とは引き離されてしまいました。

 それでも、父はなにかにつけボクの部屋に会いに来て、構ってくれたんです。


 ええ、ボクは父のことがとても好きでした。


 父は、十五年たっても、騎士の心を忘れていませんでした。

 そうして、幼い頃から、騎士の心構えのようなものをボクに教えてくれました。


 え、そのせいで騎士院に入ったのかって?

 いえいえ、まさか。

 そのころはまだ、ボクは教養院に入るつもりでしたよ。


 騎士の方々だって、森のなかで狩りをするのはたまらなく面白いぞ。と言われても、騎士の道を捨てて狩人になろうとは思わないでしょう。


 最終的に、ボクは反対を押し切って騎士院に入ったわけですから、もちろん影響は受けましたが、幼い頃から騎士院に入ろうと思っていたわけではありません。


 直接的に騎士院に入ろうと決意した原因となる出来事は、ボクが八歳の時に起きました。

 父が母を守って亡くなったんです。


 その夜、ボクは家族と一緒に夜会へ行くところでした。

 その道中、ギュダンヴィエルに恨みを持つ集団が、馬車を襲いました。


 ええ、実はそういうことは良くあるんですよ。


 魔女家同士では、殺し合いはご法度ということになっていますが、政争や商売争いで何もかもを奪われ、屈辱だけが残ったような人にとっては、ご法度もなにもありません。


 言うまでもなく、大魔女家は恨みをたくさん買っています。

 このときは、祖母に王城でしてやられた魔女家と、商売で叩き潰されて無一文になった商人が手を組み、人を雇って、ボクたちを襲いました。


 そのとき、ボクと祖母が乗った馬車は、両親が乗った馬車のずっと後ろを走っていました。

 ボクたちの家族は、二つの馬車に分乗して、夜会に向かっていたわけです。


 襲われたのは、先頭を走っていた、両親の馬車のほうでした。


 賊は、まず不意打ちで護衛の二騎を仕留めると、御者を殺し、ワゴンを襲いました。

 父は剣を持ち、ひとり外にでて、馬車のドアを守り、戦いました。


 今思えば、相手もゴロツキだったからでしょうが、父はかなり奮闘をして、五人ほど賊を斃しました。

 しかし、ゴロツキとはいえ相手は十人からいたので、どうしようもなかったようです。


 ボクたちの乗った馬車が駆けつけ、騎馬の護衛が加勢して、賊どもを一掃したときには、もう手遅れでした。

 服がずたずたに切り裂かれ、体はなます切りにされていて、もう立ってもいられない様子でした。


 父はすぐに医者のところへ運ばれ、傷を縫われましたが、どうやら血が流れすぎてしまったようで、顔は血の気を失い、呼吸をするのでやっとの有り様でした。

 母は馬車のなかで気を失って屋敷へ運ばれ、祖母は事態を収拾するのに忙しく、臨終の際にそばにいたのはボクだけでした。


 父は、死の淵にあって、ボクにこう言いました。


「騎士のように死にたかったなぁ……」

 と。


 ボクは、お母さんを守ったじゃない。と言いました。


 そうしたら、

「おれはあいつを守ったわけじゃない」

 って言うんです。


「おれは、どうせ死ぬなら、形だけでも誰かを守って死にたいと思った。少しでも騎士らしく……だけど、あいつを守って死んだところで、誰が騎士の死に様だと思ってくれるだろう」


 今思えば、そのころには、とっくに父は母を愛していなかったのでしょうね。


 父は、

「無念だ……でも、悪くない」

 と言って、ボクの頭をなでて、それで亡くなりました。


 ……そんなに感動しました?


 え?

 いやいや、違いますよ。


 もちろん、父の言葉はボクの心に残りましたが、それで「よし騎士になろう!」と思ったわけではありません。

 そのころは、ボクはまだ魔女になる気まんまんでしたし。

 まだまだ、魔女の生業(なりわい)は悪くないと思っていましたから。


 父の言葉を聞いても、ああそういう生き方もあるんだな。そういう生き方も悪くない。と思っただけでした。

 父は魔女を否定したわけではありませんでしたから。


 ええ、人間は、自分の生業を子どもに悪くは伝えないものです。

 ボクは、ごく普通に、魔女というのは人に尊敬される立派な仕事なのだなぁ。と思っていました。

 そう伝えられていたからです。


 父も、間接的に自分を生かしている生業なのですから、悪く言ったりはしませんでした。

 というより、あまり悪く言うと、ボクの魔女としての人生が狂ってしまうと考えていたのかもしれませんね。


 ボクは、魔女家を悪く言う人の存在を、まったく知らずに育ったわけです。

 当然といえば当然ですが。

 どんな悪人でも、自分の子どもに「オレはろくでもない事をして生きてるんだ」とは言いませんよね。


 なので、ボクはごく純粋に、このままギュダンヴィエルの魔女になろう、当主になれたらいいな、と思っていたわけです。


 まあ、ここまで言えば解るでしょうけれど、そのあとにボクの目を覚ます出来事があったんですよ。


 ボクは、父が死んでしまったことが悲しくてしかたなく、勉強も手につきませんでした。

 死に方が死に方だったものですから、どう受け入れてよいか解らなかったんですね。

 毎日泣きはらして、ついには体調を崩し、なんだかんだで三ヶ月くらいは床に伏せっていたと思います。


 祖母も母も、繰り返しボクの自室へきて、はげましたり、二ヶ月もするといい加減にしろと言ってきたり、いろいろしました。


 ボク以外の家族ときたら、父の死にはかなり冷淡でしたからね。

 父の死が切っ掛けで、ボクが使い物にならなくなることを恐れたのでしょう。


 その気持ちは解ります。

 母は、婚約した当初は熱烈な愛情を持っていたようですが、ボクが産まれたころには夫婦関係は冷えきっていたようですし。

 祖母に至っては、最初から邪魔者としか考えていなかったことでしょう。


 父は、ボク以外、誰からも必要とされていませんでした。

 無駄に悲しんでないでさっさと立ち直れ、と言いたい所だったのでしょう。


 それで……いや、その前に。

 誰も聞き耳は立てていないようですね。


 いいえ、ここまでは魔女家界隈の人間なら誰でも知っている話ですから、誰に聞かれても構わないのですよ。

 では、続きをお話します。


 ある日、母がボクの寝室を訪ねてきて、今日も今日とて泣きはらしているボクを見て、言ったんです。


「あんたはあの男の子どもじゃないのよ」

 って。


 ふふっ、驚きましたか?


 ボクも、それを聞いた時には、とても驚きました。

 心臓が十秒くらい止まっていたかもしれません。


 え?

 もちろん、じゃあ私は誰の子どもなの。って聞きましたよ。


 混乱していてよく覚えていませんが、つまりは「いろいろな男と寝て、孕んだ」という答えを返されました。

 まあ、悪びれはなかったですね。


 そのあとは、茫然自失で、なにも言い返すこともできませんでした。


 今となっては確かめるすべはありませんが、おそらく父には、女性を孕ませる機能が欠けていたのでしょう。


 ええ、そういう人もいるんですよ。

 いえ、急所を打たれて潰れてしまったとかではなく、生まれつきにそうなんです。

 さりげなくユーリくんに聞いてみたら、ユーリくんも心当たりがあると言っていました。


 そうですそうです。

 男性が吐き出す精が女性を妊娠させられない体質、ということがあるんですよ。


 そうですね。

 ごもっともです。


 おそらく、教養院生だったときも、妊娠して父と結婚したくとも、なかなかできないので、誰か他の男と寝たのでしょう。

 または、単純に浮気をして孕んだのかもしれませんね。


 あとあと調べてみましたが、父も母が初めての相手というわけではなく、いろいろな性遍歴があったようです。

 十五年の間には、父の浮気が原因で、二人が喧嘩をしたこともありました。


 でも、屋敷の女中や酒場女と何度も関係をもっても、父には一人の庶子もできませんでした。

 そういった噂すらありませんでした。

 不特定多数の女性と十年以上も関係を持っていれば、どなたでも一人や二人の庶子はできるものです。

 ですから、やっぱりそういうことなのでしょう。


 母のほうも、十五年も性生活を送っていて、一度も妊娠しなかったのですから、焦れていたのでしょうね。

 わからなくはありません。

 その結果が自分自身だと思うと、さすがに気分は悪いですが。


 そうですね。

 ボクも、今となっては達観できていますが、もちろん当時は違いました。

 それはもう、気分が悪いなんてものではありませんでしたよ。


 ええ、食べたものを全部吐いて、お腹が四六時中気持ち悪くて、なにも口に入れられなくなったりしました。

 それでいて、ずっと心のなかが荒れ狂っている感じで、感情のままにお皿を割ったりしました。


 ふふ、今思えば面白いですね。

 そうなんですよ。お皿を割るくらいだったんです。ボクにできたことは。


 そのころのボクは、スプーンより重いものは持ったことがない。という、蝶よ花よと育てられた八歳の女児でしたから。

 家具なんかは殴っても壊れなかったんです。


 四六時中ベッドに寝ていたので、怒りに駆られると、幼いボクはシーツや毛布を破こうと暴れました。

 でも、毛布は毛が多少むしれるくらいでしたし、薄手のシーツでさえ、ボクの力では破けませんでした。


 家具のほうは、屋敷の家具はどれも高級品で、頑丈な作りだったものですから。

 怒りにまかせて思いきり殴ったら、それはもうとっても痛くて、床を転げまわるはめになったものです。

 ふふっ……その時ばかりは怒るどころではありませんでしたね。


 そんなわけで、幼いボクにできる破壊は、せいぜいが皿をがむしゃらに投げて割る程度だったわけです。

 あとは、一度、燃えているロウソクが刺さった燭台を、おもむろに床に投げつけて、ぼや騒ぎになったくらいですね。


 それで、いろいろ一人で悩んだり暴れたりした挙句、ボクは祖母のところへ行ったんですよ。


 はい。

 祖母は家長で、当主ですから。


 その時までそれをしなかったのは、ボクは母の悪行を密告することで、母が厳しく罰せられたら、どうしようと悩んでいたからです。

 でも、結局言うことにしました。


 当時のボクの中では、祖母は公正な支配者でした。

 思い悩んだ結果、やはり母を裁いてもらおう。と思ったわけですね。


 はい。

 祖母は、ボクの話を真剣に聞いた後、「だからどうだっていうんだい?」と言いました。

 それから、

「あまり気にしないことだね。誰のタネからできたかなんて、小さいことだ」と言ったんです。


 いやいや、それは酷いとは思いませんでしたよ。

 慰めようとしてくれてる感じはありましたし。

 そのときには、ボクも、本当の父が誰だって、そんなのは関係ない。という考えに至っていましたから。


 でも、ボクがどうしても納得できなかったのは、父は裏切られていた。ということだったんです。


 そうですね。

 父も浮気していたわけですから、お互い様という部分もあるでしょう。

 当時ボクは浮気のことは知らなかったわけですけど。


 でも、浮気があったにせよ、他人の子を我が子と偽って育てさせたことは、これは別の問題です。

 父は、ボクに愛情を注いで育ててくれました。

 ですが、その愛情はボクを実の子と誤解しながら注がれたものだったんです。


 母は、一度裏切るだけではなく、嘘をつくことによって、ボクへの純粋な愛情と献身を穢しました。

 そのことが、ボクには吐き気のする卑劣な悪行のように思われたんです。


 ボクは祖母に誠心誠意、そのことを伝えました。

 でも、祖母はどうしても理解できないようでした。


 父はなにも知らずに逝ったのだから、表面的には問題は表れなかったわけで、なんの問題がある。というような意見でしたね。

 それはそれで、その通りではあるのですが、当時の世間ずれもしていない純粋だったボクからしてみれば、そういう問題ではありませんでした。

 そもそも、祖母を良識人と思っていたわけですから。


 そうですね。

 ボクは世間知らずでした。


 とはいっても、今となって思えば、このとき違和感を覚えさせたのは、父が教えてくれた、騎士由来の考え方があったからこそです。

 父がいなかったら、ボクはそのまま祖母の言葉を受け入れていたことでしょう。


 ……長くなりましたね。

 これで、話はだいたい終わりです。


 その後、ボクは初めて本格的に我が家の家業を見つめなおす機会を得ました。

 いろいろな調べ物をした結果、二年後、十歳になるころには、家業を継ぐつもりはすっかりなくなっていました。


 ええ、どうせなら騎士院のほうに入って、父があれほど望んだ生きかたを生きてみたいと思ったんです。


 そうして、入学の準備の時期になると、ボクは様々な工作をしました。

 祖母や母の書斎に潜り込んで、巧妙に書類を書き換えて……。


 え?

 あ、はい。


 人聞きの悪い言い方をしますね。


 でも、まあ、その通りです。

 家族が認めるわけがない、なんてことは、火を見るより明らかなことですから。

 ボクは、家族を騙して入学したんですよ。

 実家は、未だに騎士院のことは納得していません。


 ボクは、自分で騎士院の書類を取り寄せて、教養院のものと巧妙にすり替え、屋敷に届く手紙も毎日確認し、本当にこれでいいのか、教養院でなくていいのか、というような問いただしの手紙は、すべて暖炉にくべて燃やしました。

 教養院の試験のときは学院に来て、一度建物に入ってから隠れ、終わった時刻に帰りました。


 それで、翌日にはこっそりと騎士院の試験に潜り込みました。

 祖母は、入学式当日まで気づかなかったようです。


 うふふ、殿下はあの日、入学式が終わると、なぜだかユーリくんに怒っていらして、ボクと話していたユーリくんを連行していきましたよね。

 じつは、あの時のボクは、屋敷の者に捕まって、屋敷に軟禁されることを恐れていたんです。


 ええ。

 身柄を拘束しておけば、権力を使って急遽教養院に入学させることも、不可能ではありません。

 もちろん、学期が始まってしまえば難しいですが、まだ入寮すら済んでいない状態なら、無理押しをすれば難しくはないことです。


 フフフッ……なんだか懐かしいですね。

 ボクはあの日、今の殿下のように変装をして、歩いて騎士院まで行ったんです。


 道具は、まえに用事で王城に来た時に、予め隠しておきました。

 ええ。今でも覚えていますよ。


 一階の第五用務室です。

 滅多に使わない掃除道具が置いてあるところですね。


 ふふふ、子どもながらによく調べたものでしょう。

 そこで着替えて、こっそりと王城を出ると、ボクは騎士院に向かいました。


 もっとも、あのときユーリくんが昼食の誘いを受けてくれれば、そのような危険は犯さなくても良かったのですが。

 ええ、お誘いしたんです。

 でも断られてしまいました。


 そうです。

 もちろん、昼食となればルーク様とご一緒することになりますよね。

 さすがに、天爵閣下を相手に、大勢で取り囲んでボクを略取するというのは、これは不可能ですから、ユーリくんと騎士院まで行動を共にできれば、それが最も安全でした。


 でも、まあ、変装も上手くいって、なんとか無事に騎士院まで着いたわけです。

 そうしたら、ユーリくんが、その日のうちにドッラくんを殴り倒して、大騒ぎになりました。


 あはは、思えば、あんなにしょげ返ったユーリくんを見たのは、あの時だけですね。


 え?

 そうですよ。

 ああ、殿下はその日はおられなかったのでしたね。


 入寮当日に流血沙汰の事件を起こしてしまったというわけで、ユーリくんは、それはもう見る影もなく落ち込んでいました。


 ボクが話しかけてみたら、入寮当日に退学だ。もう終わった。みたいなことを言っていました。


 もちろん、ホウ家のご子息がそんなつまらないことで未来を絶たれるなんてことは、ありえません。

 そう助言してさしあげたら、なんだか気が休まったようでした。


 そんな感じで、無事入寮できたボクは、それから半年くらい実家に帰りませんでした。


 うふふ、ボクだって、気が進まないことくらいありますよ。

 帰ったらそれはもうネチネチと説教を食らうのはわかっていましたから。

 世の中、ほとぼりが冷めればどうでもよくなる。ということはたくさんありますしね。


 でも、まあ……ボクの場合はさすがに、ほとぼりが冷めても、家に帰れば大歓迎というわけにはいきません。

 なので、ボクは今でも、なるべく実家には帰らないようにしているわけです。



 ***



 ミャロの長い話が終わると、キャロルはなんともいえない表情をしていた。


「うん……とても良くわかった」

「そうですか」

「よく話してくれたな」


 キャロルはミャロの手をとった。

 お互い、手のひらは少女の柔肌というには少し硬かった。


「別に構いません。今となっては、過ぎたことです。ボクは今幸せですし」

「そうだろうな」


「目下、悩み事は就職先のことですね。場合によっては、こちらのほうが悲劇かもしれませんよ」

 と、ミャロは軽口をいった。

「ふふっ、困ったら、私でもユーリでも、どちらでもいい。相談しろ。そうしてくれれば、大概のことはなんとかなるよ」

「そうですね……ああ、もうお茶も終わりですね。出ましょうか」


「そうだな。だいぶ話した」

「はい。長居してしまいました」


「代金は私がもとう。話を聞かせてくれた礼だ」


 キャロルが代金を払い、二人は店を出た。

 その後、学院に戻り、変装をとくと、二人は日常へと戻った。


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