第065話 おもてなし
十七歳、春先の、この国ではまだ厳寒というほかない、ある日のこと。
俺は、もうすぐ十八歳になろうとしていた。
その日の俺は、王都の港に停泊している他のどの船よりも大きく立派な帆船から、木箱が続々と降ろされて行くのを見物していた。
三本マストで、前の一本には横帆が四枚ついており、後ろの二本には縦帆がついている。
木箱の中身は、綿花だった。
紡いでいない綿は、綿入れ半纏のような衣類や、布団になる。
これは、王都では近年の大ヒット商品らしく、完全な売り手市場だ。
はっきりいって、まじめに働くのが馬鹿らしくなるような金額が儲けとして入ってきている。
濡れ手に粟どころの話ではない。
貿易を独占するというのはこういうことなのか。という感じだ。
おそらく、この儲けは綿が供給過多になって値崩れするまで続くのだろう。
これは二隻目で、一隻目は二隻目の後ろにいて、荷降ろしを待っている。
随伴艦だ。
三隻目は、アルビオ共和国で建造中である。
ハロルによる交易が開始されて一年と少し。
あっという間にここまで伸びてしまった。
最初はスオミの港を使っていた交易も、希少な輸入品の優先納入権を武器に交渉をすることで、王都の港も使えるようになった。
波止場に座って、実感のわかぬまま、すべて自分の私有財産となっている船二隻と、積み下ろされる貨物を見ながら、俺は物思いにふけっていた。
日本にいたころは、持っていたのはあぶく銭だけで、まともな稼ぎなどしたことのなかった俺が、事業を起こして十年も立たぬうちに、一端の事業者だ。
右から左へ、人生が何回も買えるような金を動かしている。
人生とはなんなのか。と考えたくもなる。
波止場は誰もいない、波の音以外の音はすべて遠くの喧騒でしかない、静かな場所だった。
普段はそうでもないのかもしれないが、俺の船が入ってきているため、港湾労働者は荷降ろしに忙しく、遊んでいる暇はないのだろう。
「ユーリ・ホウだな」
と、背中から声がかかった。
俺はとっさに横に転がると、短刀を抜いて構えた。
ススッと素早く周囲を見る。
囲まれていない、相手は一人。
その一人は、長い髪をポニーテールに結んだ、平民然とした女の子だった。
俺が過剰とも思える反応をしたのは、本能が警鐘を鳴らしていたからだ。
「誰だ」
鋭い声で詰問する。
全く足音がしなかった。
いくら波の音があるとはいえ、背中に立たれるまで気付かないとは。
暗殺者だとしたら、よほどの手だれだ。
そのくせ、身構えてもいない。
武器を握っているわけでもなく、見た目はまったく普通の庶民と変わらなかった。
それがかえって不気味だ。
なりふり構わず川に飛び込んだほうがいいのかもしれない。
いや、俺より泳ぎが達者なら追いつかれるか。
そうしたら本当に詰みになってしまう。
「なぜ警戒する」
女は不思議そうに言った。
「足音がしなかったからだ」
「ああ」
何か合点がいったようだ。
「何者だ。俺を殺しに来たのか」
「違う」
心外そうな顔をしている。
「貴様を王城に呼びに来た」
……?
「お前、王家の連絡員か?」
「そのようなものだ」
「連絡なら、キャロル殿下に頼めばいいだろう。前はそうしていた。なぜお前をこさせる」
ノコノコついていって拉致されたら間抜けだ。
それに、キャロルを使わない理由が解らない。
今までは特許関係の呼び出し一つとってもキャロルをパシらせていたのに。
なにより、足音が聞こえないのが気に入らない。
「女王陛下直々の用命だ。一緒にこい」
「質問に答えろ」
「察しが悪いな。私は王の剣だ」
王の剣。
近衛第一軍の中にある、女王が抱えている内調・暗殺集団のことだ。
やっぱり暗殺者だったか。
主に将家が叛意を抱いた時に暗躍し、その将家の当主を殺しに行ったりする。
言ってみれば武力をもたない王家が内乱に対応するための、濡れ仕事専門部隊だ。
将家の俺からしてみれば、たいそう気分の悪い相手である。
「王の剣か。なるほどな。キャロルは同席させたくないってことか」
「殿下を呼び捨てにするな」
知るかよ。
「王の剣を見せてみろ」
女は懐から黒鞘の短刀を出し、音もなく鞘を半ばまで抜いた。
中の片刃の刃は、研がれた部分だけが怪しく光り、腹の部分は煤が張り付いたように黒い。
噂に聞く王の剣と特徴が一致している。
「確かに王の剣のようだ。そういうことならば、同行するとしよう」
俺は今まで構えていた短刀を鞘に戻した。
女は無言で背を向けて歩き出す。
俺はそれを追ってゆく。
追いついたところで、俺は後ろから素早く膝裏を蹴った。
格闘術や短刀術の訓練においては、後ろから膝裏を蹴って、襟または鎧を掴んで後ろに引きずり倒し、首を刺したり拳で鉄槌を食らわしたりするのは、基本的なコンビネーションだ。
何度も練習させられたわけで、そこらの人間には躱されない自信があった。
だが、女は膝めがけての蹴りをさっと避け、身を翻すことで体を掴む手を弾き、こちらに向き直った。
「なんのつもりだ」
と、厳しい声が、冷たい目と一緒に帰ってきた。
「試した」
「王の剣を試すだと。死にたいのか」
「ヤクザ者なら今のは避けられない。王剣なら避けるだろう。陛下は俺を連れてくるように言ったのだから、お前が俺を傷つけるはずはない」
俺は事もなげに言った。
「……」
冷たい目は変わらない。
「単なる確認だ。そう怒るな」
「五体満足ならば良いと命じられている、とは考えないのか」
「友好を考えないなら、寝ている間にでも攫うだろう」
女王がなりふりかまわず俺を拉致しにかかっているのだとしたら、もっと乱暴な手を使うはずだ。
こいつとて、今のように話を続けてはおらず、説得は無理と断じ、俺を捕縛すべく激しい戦いをしかけてきているだろう。
女王がなぜ、王の剣なんぞという連中を使いに寄越したのかは謎だが、この任務はこいつにとってもイレギュラーのはずだ。
「……ふん」
女は反論が思いつかなかったのか、考えるのが面倒になったのか、再び背を向けて歩き出した。
本当のところは、王の剣とやらの実力を見ておきたかったのだ。
さすがはエリート部隊……というか暗殺部隊だけあって、実力は折り紙つきらしい。
年齢は、二十から二十五といったところだろうか。
キャロルあたりでは、どう頑張ったところでコイツには追いつけないだろう。
そもそもの才能から違う感じがする。
女でも強いやつっているんだな。
***
裏口のようなところから王城に入ると、誰もいない廊下を歩き、女はとある部屋の前で止まり、ドアを開けた。
部屋は、どうも小さな応接間のような風情で、窓には薄いカーテンがかかっていた。
立派な内装の部屋だが、中には誰もおらず、がらんとしている。
「かけろ」
そう言われたので、俺は指示された椅子に座った。
椅子は一人がけのソファのような趣になっており、とてもやわらかい。
二脚が隣り合った真ん中には、四角い膝丈のテーブルが置いており、その上には茶の道具が置いてあった。
そして、俺が座っても、女はドアのそばの壁に背を持たれかけて、立ったままだ。
座らないようだ。
そのまま、あくびをしながらしばらく座っていると、ドアが開いた。
女王陛下が一人で入ってくる。
手には、なぜか湯気が立ったヤカンみたいのを持っている。
「ご機嫌麗しく、女王陛下」
俺は、立ち上がって頭を下げた。
「わざわざごめんなさいね」
ニッコリと微笑みを返してくる。
やはり敵対的な雰囲気ではない。
「いいえ、暇を持て余していたところだったので」
「そういってもらえると助かるわ。かけて」
女王陛下は目の前の椅子に座った。
俺も、再び椅子に腰掛けた。
「用件を聞かされていないのですが、今日はお茶のお誘いかなにかなのでしょうか?」
軽く探りを入れておこう。
王の剣を差し向けてきたというのは、どうも穏やかではない。
「いいえ、違うわ」
やはり違うようだ。
「では、なんの話でしょう」
「その前に、お茶を淹れましょう」
お茶か。
だからヤカンを持ってたのか。
***
女王陛下は、言葉通りお茶を淹れる準備をし始めた。
「ユーリくんは古典には興味はある?」
なんの話だ。
「あまり興味はありません。古代シャン語は苦手なもので」
出版が発達していない関係上、古典の翻訳本というのは、超有名所以外はでていない。
古典を勉強するには、古代シャン語の習得が必須となる。
だから、俺も古典には詳しくはない。
「昔はね、私たち女性の間には、お茶を淹れる作法についての術があったのよ」
ふうん。
「知りませんでした」
茶道みたいなもんか?
「もちろん、教養としてね。高貴な女性はみんなやっていたそうよ」
「そうなんですか。今ではちょっと考えられませんね」
今では、極普通にメイドとかに淹れさせる。
寮のような、専属の小間使いがいない場所では、自分で湯を沸かして淹れたりもするんだろうが、高貴な女性が自分で茶をいれるという文化はない。
といっても、俺が知ってる高貴な女性というのは、サツキくらいのものだが。
「誰かをおもてなししたり、騎士の労をねぎらったりするために、お茶を淹れたの。お茶を淹れるための作法もきちんとしていてね。でも、そういう文化は、大皇国の終わりと一緒になくなってしまったわ。代わりに、真似たのかはわからないけれど、庶民の間で流行り始めたみたい」
考えてみれば、スズヤなどはルークが仕事から帰ってくると、必ずお茶を淹れていた。
スズヤの趣味なのかと思っていたが、そういう文化的な背景があったのかもな。
「私は、私の母に教わったけれど、これはうちの王家だけの話ね。よその王家では聞かないわ」
なるほど。
昔の話になるが、特許のときにお呼ばれしたときに、キャロルが茶を淹れたのは、いわば古法に則っていたわけだ。
王族が自らお茶を淹れるというのは、なんだか変だなとは思っていたが。
陛下は、音もなく茶具を操りながら、言葉を続けてゆく。
「大皇国の時代には、男と女、魔女家と騎士家の間には、そういった関係があったのね。信頼、みたいなものかしら。私は、だから強かったのだと思うわ。なぜ今のような状況になってしまったのかしらね?」
歴史の談話をしに呼んだのではあるまいに。
なんでこんな話をするのだろう。
まあ付き合ってやるか。
「負けたからでしょう。カンジャル大汗国に負け、国を滅ぼしたから、騎士は面目がなくなって、魔女も王も、騎士を尊敬しなくなった」
大皇国軍は、当時の水準では恐ろしく強い軍だった。
当時の世界にはクスルクセス神衛帝国という、イイスス教世界を統一する大帝国があったが、これの大遠征軍と何度も会戦をして、難なく退けている。
これは北方の寒冷地域に引き込んでの会戦なので、地の利があったことは否めないが、やはり強かったのは確かだろう。
だが、最後の最後に、騎馬民族の英雄が興した大軍にやられた。
戦争の申し子という他ないカンジャルという男が、皇国総軍の五倍から十倍に及ぶ軍勢を従えてやってきたので、さすがにこれには抗し切れず、全軍が崩れた。
カンジャルは安心したのかなんなのか、会戦に勝つなりすぐに死んだので、軍は引いていったが、それと交代するように十字軍が来て、漁夫の利を掴んでいった。
カンジャルの軍によっぽど手酷くやられたのか、大皇国軍はまともな抵抗もできず、首都シャンティニオンを含めた南部一帯の豊かな地域を奪われてしまった。
その後の騎士の扱いたるや、散々だったらしい。
王も魔女も、国が滅びたのは騎士のせいだということにした。
つまり、騎士以外の人間にはなんの落ち度もなかったのに、騎士が軟弱なせいで国が滅びた。ということになった。
実際、今でも教養院の歴史の講義ではそう教えられるらしい。
敗残の騎士は石を投げられ、その誇りは屈折した。
騎士が武に訴え、独自に領を持って将家を名乗り、王と魔女も軍を持つようになったのは、この時からだ。
「さすがに、よく勉強をしているわね」
「ええ、まあ」
騎士院に八年もいてこの程度のことも知らなかったら、よほどのアホだ。
理解の仕方はともかく、知識としては持っているのが普通だろう。
陛下は古い急須に、高いところから湯を落とした。
コポポ……と空気が混ざりながら、急須のなかに湯が満ちてゆく音が聞こえる。
「それで、お話というのは、それに関係した話ですか?」
もしかして、キャロルと結婚がどうとかって話か?
「せっかちよ。茶が出るのを待つ時間は、雑談を楽しむものなの」
雑談。
ずいぶん意味深げな雑談もあったもんだ。
これも茶の作法の一つなのか。
「すいません。田舎者なもので、作法には疎くて」
「いいのよ。あなたにはこういう歴史のお話のほうが好きかと思ったのだけど、退屈だったかしら」
もてなしの一つだったのか。
全然気づかなかった。
「いいえ、そのようなことは」
「そう?」
「ただ、これからどのようなお話をされるのかと、恐々としているので、どうも素直には行かぬようです」
俺がそういうと、陛下はクス、と笑った。
笑う仕草はキャロルそっくりだ。
「自らお茶を淹れるというのは、歓迎のしるしよ。ねぎらい、あるいは頼み事……。いずれにしても、叱りつけるために呼んだ時には、お茶を淹れたりはしないわ」
「それを聞いて少し安心しました。僕もお茶を楽しむことにしましょう」
歓迎するなら王の剣なぞ寄越すなと言いたいが。
心胆冷えきって怯えているというわけではないが、王の剣は普通は将家に向けられる。
警戒もしようというものだ。
陛下は急須を操って、取っ手のついた茶碗に茶を注いだ。
「はい、どうぞ」
「いただきます」
皿に乗ったティーカップが差し出されてくる。
取っ手をつまんで持ち上げ、口をつける。
軽い苦味と一緒に、複雑で華やかな香りがした。
そして、喉を通ると、舌に仄かにハチミツのような味が残る。
一種のブレンドティーなのだろうか。
今まで味わったことのない味だった。
茶がいいのか、淹れ方がいいのか、なんだか分からないがとても美味い。
「とても美味しいです。落ち着きますね」
「あら、ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞ではないですよ」
これは本当に美味い。
「おかわりをどうぞ」
と、陛下は急須に手をやりながら言った。
「あ、ああ……どうも」
酌を受ける感覚でティーカップをやると、急須を傾けておかわりを淹れてくれた。
「お茶請けも用意してあるのよ。食べて」
差し出された小皿には、焼き菓子が幾つか乗っていた。
「頂きます」
と、俺はその焼き菓子にも手を付ける。
特別腹が減っていたわけでもなかったが、焼き菓子もこれまた美味しかったので、ぱくぱくと平らげてしまった。