第002話 家業
惰眠をむさぼるのは昔から得意だった。
ぼけーっとしていたら一年が過ぎてしまった。
***
そのころ俺は立って歩くことを練習していた。
立って歩くくらい簡単にできそうと思えたのだが、半年くらい寝たきりだった人みたいに足が腑抜けてしまって頼りなく、それに加えて頭の比重が大きすぎ、非常にバランスが取りにくい。
なんというか、歩こうと思っても歩けない生物になってしまったようだ。
この家族にはどうやら誕生日を祝う習慣があるらしく、俺も日数を数えてるわけじゃなかったのでわからないが、季節がちょうど一巡したあたりで、どうやら誕生日らしい祝い事をしてもらった。
といっても、俺はごちそうを食えるわけではなく、食事はいつも通りだったので、パーティーを開かれたという実感はあまり感じなかった。
しかしながら、俺が主役なのは明らかだったので、やはり誕生日なのだろう。
日常を見ながら分析してみると、この家庭はストイックな生活をしていて、家族で出かけたりといったことは殆どないようだった。
来客もほとんどない。
なんだか不思議な家庭だった。
父親は早朝に出ていき、夜帰ってくるが、何日も帰ってこないこともある。
母親は、まず常に家にいる。
俺は立ちあがることもできない赤ん坊なので、どこかにいかれてしまっても困るのだが。
母親はなにかにつけ、言葉の分からぬ俺に話しかけ、言語学習を捗らせてくれた。
パパ、ママくらいは何度か言われてるうちになんとなく察したので、すぐに覚えた。
覚えたはしから使ったら、なんだか驚かせてしまったみたいだが、出し惜しみのようなことをしても学習が滞るので、これでいいのだろう。
そんな暖かで平凡な日常を送っているうち、三年が経った。
***
そんなこんなで、俺は三歳の誕生日を迎えた。
三歳の誕生日の次の日、俺は父親に連れられて森の中の仕事場へ行った。
三年の間に仕入れた情報によると、父はルークといって、母はスズヤというらしい。
ルークの名は、この世界のボードゲームの駒の名前から取られた名で、スズヤは地名から名を借りたらしい。
鈴なり草という草がたくさん生える鈴なり谷という風光明媚な地があるらしく、そこの名だそうだ。
俺はユーリと名付けられているらしい。
三歳の誕生日の翌日、ルークに連れられてやってきたのは、俺の家の裏手にある小高い丘を跨いだ場所だった。
行きは、駆鳥と呼ばれている大型の飛べない鳥類に、ルークの股の間に座る形で乗って行った。
こいつは、ダチョウの首を太くして頭をでかくし、頭から首にかけて羽毛をかぶせたような不思議な鳥類だ。
どう考えても、こんな鳥は地球にはいない。
ダチョウとは言ったが、ダチョウよりかなりカッコいいシルエットなので、こんな動物が地球にいたら、動物園では引く手あまただろう。
さすがに俺が知らないのはおかしい。
それ以前に耳に毛が生えた人類がいる時点でおかしいのだが、やはり地球でない別の惑星に来てしまったらしい。
駆鳥は実に優秀な騎乗動物で、馬より乗り心地がいいんじゃないかと思える。
逆関節のような形になっている二つの足で走っているわけだが、この足がサスペンションのように衝撃を吸収して、胴体が上下しない仕組みになっているらしい。
連れて行かれたルークの勤め先は、なんというか牧場のようなところだった。
牧場といっても、ただ家畜を並べて飼っているという風情ではない。
広い敷地に家畜舎のようなものがあり、柵でコースが作られた馬場のような場所があり、開いた所は牧草地みたいになっていた。
「ここが俺の牧場だ」
ルークはそう言うと、さっとカケドリから降りて、鞍に乗っている俺を抱きかかえておろした。
「凄いですね」
俺は素直に感想を言った。
針葉常緑樹の森の中に切り開かれた牧場は、いかにも牧歌的でのんびりとした雰囲気がある。
木造の畜舎は、まあ多少ボロくなっているが、よく手入れされているようだ。
木板が朽ちて壁に穴を作っているのを放置してある。なんてこともなく、ところどころキッチリと補修してあり、穴もない。
日本にいたころの感覚から照らしあわせても、十分に立派な牧場だ。
「なんでこの場所に牧場を作ったか分かるか?」
「ここは父上が一から作った牧場なのですか?」
俺はてっきり家業の牧場を継いだのかと思っていた。
この牧場はハンパな大きさではなく、何ヘクタールもありそうだ。
「そうだよ。俺が作ったんだ」
「すごい」
いや、凄いよそれ。
その若さで一からこれ作ったとか。
なかなかできることじゃないよ。
「そんなことはいいから、父さんの質問に答えなさい」
そうだった。
とはいえ、ルークは子どもに褒められてまんざらでもなさそうな顔をしている。
いや、本当にたいしたもんだと思うよ。これを一代で作り上げたとか。
俺とかね、同じような年齢だったのに、嫁もいなけりゃ持ってるのは親から継いだちっちゃな家だけだったからね。
嫁さん養って、子どもがいて、家も持っていて、そのうえ牧場も一代で作り上げてるとか。
すごすぎるでしょ。
「うーん、家畜が鳴いてうるさくしても、周辺住民の迷惑にならないからでしょうか」
俺は高校のときの同級生のことを思い出して、そう言った。
そいつは豚だか牛だかの牧場の近くに住んでいて、家畜の夜鳴きで夜眠れない。受験勉強が捗らない。受験に落ちたらあいつらのせいだ。と愚痴をいっていた。
「……面白いことを考えるな。確かに、実際近くに人が住んでいたら煩くて迷惑かもしれん」
ニュアンスからして、どうも期待されていた答えとは違うらしかった。
ルークはそれでも、なにやら感心したように俺の顔をしげしげと見つめている。
そんなにおかしな解答だったろうか。
「でも、このへんの住民は、たいてい自分の家でも家畜を飼っているから、あんまり気にしないだろうな」
へー。
そうなのか。
自分の家で家畜を飼っている。
そういう家庭は日本にはなかなかない。
「正解はなんでしょう」
「ほら、ここは山と山に挟まれているだろう」
遠くを見ると、山というか丘に見えるが、確かに山と山に挟まれている。
四方に丘が迫っていて、見晴らしはとんでもなく悪い。
ああ、そういうことか。
ちょっとした盆地になっているのか。
「山の上を風が通り抜けるせいで、ここは風が来ないんだよ。風が吹きつける土地では、トリは上手く育たないんだ」
なるほど。
専門的で納得できる理由だ。
しかし、ルークは今でも若く見えるし、牧場を拓きはじめた時はもっともっと若かったはずだが、その時からそんな目算を頭に秘めて牧場適地を探しまわり、実際に納得できる場所を見つけ、牧場を拓いて経営を成功させたのだろうか。
口で言うのは簡単だが、これは本当に容易にできることではない。
凄い人物なのかもしれない。
成功する人物というのは案外そういうもので、そのくらいのことは自然に考えているものなのだろうか。
「父上の仕事は牧場主なのですか?」
と俺が聞くと、
「まあ、そのようなもんだ」
とルークは答えた。
家庭内の会話から察していたが、やっぱり牧場を経営しているらしい。
「これをすべて一人で切り盛りしているのですか?」
「いや、人を雇ってる。もう来ているはずだ」
そらそうだよな。
ルークは手綱を持ってカケドリを移動させ、馬止めに繋ぐと、今度は俺の手を引いて家畜舎のほうに歩いて行った。
***
家畜舎の中を見ると、馬のかわりにカケドリが並んでいるような作りになっていた。
一羽一羽のスペースは広々としていて、狭苦しくはない。
なんというか、贅沢な作りのように思える。
その中には二人、作業服を着た農夫のような人がいて、通路の真ん中に置いてあるリアカーのような車両の両側で働いていた。
餌を満載した荷台から、カケドリの餌カゴにさかんに餌をやっている。
どうもこの世界の技術水準を見ると、車軸にベアリングが使われているとも思えないのだが、足回りはどういう仕組みになっているのだろうか。
気になるところだ。
「なるほど、餌は干し草なんですか」
俺はカケドリの生態についてまったく知識がない。
「干し草だけでは痩せてしまうから、雑穀や木の実や豆を混ぜる」
「へえ」
草食性らしい。
餌は馬とほとんど変わらないようだ。
「野生のカケドリは草や落ちた木の実を食べて生きているが、食べ物のない冬は小動物も狩って食べる。ここでも、放牧しているうちに兎を狩ってたべていることがあるよ」
草食性どころではなかった。
馬は兎を取って食ったりはしない。
草食寄りの雑食動物といったところか。
ただ、カケドリのすばしっこさと丈夫そうな嘴を見ると、森林や草原を駆けてネズミやウサギを狩っている姿は、いかにも似つかわしい。
「肉は食べさせないのですか?」
「食べさせない。体が強くなるけど、肉の味を覚えると気が荒くなるんだ」
「なるほど」
血の味を覚えるみたいな話か。
生育に必須な食料ではないらしい。
ただ、それは科学進捗が未熟だからそう思うだけで、本当は必要なのかもしれない。
日本の畜産肥育の学者に分析させたら、そんな飼料ではカルシウムやナトリウムが絶望的に足りないとか言うのかも知れない。
餌に肉骨粉を混ぜろとか、畜舎に岩塩の塊を置くといいとか、そういったこともあるのかも。
実際のところはどうなんだろうな。
「ただ、それを好む人もいるから、特別な注文が入ればネズミ返しを付けた柵の中でネズミを狩らせながら育てることもある。調教が大変になるが」
暴れ馬を好む人間もいるらしい。
「狂暴なカケドリをどうして求めるんですか?」
「武人の中にはそういうトリを好む人がいるんだ。買っても乗りこなせない人のほうが多いんだけどな。だが、上手く扱えば戦場に入ったあとの暴れ方が全然違う。何人も蹴り殺して大暴れする」
血に飢えた獣のように猛り狂うのか。
どうも、話を聞くと動物兵器の一種であるらしい。
将来俺もカケドリに乗れるようになるにしても(つーか、実際乗ってみたくてワクワクしている)そんな狂暴なトリは遠慮したいものだ。
鞍に足をかけたら、振り落とされ、すかさず頭を踏み潰される。なんてことも容易に想像できるし。
「といっても、実はカケドリは殆ど他人に任せっきりなんだ。最後の調教に付き合うくらいでな。俺は主に王鷲の世話をしてる」
「王鷲ですか」
読み聞かせてもらった本の中で幾らか登場したが、意味不明だった動物の一つだ。
「空をとぶトリのことだよ」
鷹狩りに使う鷹の繁殖でもしているのだろうか。
「ついておいで」
そう促されて、俺は別の家畜舎に連れて行かれた。
その家畜舎はカケドリのところとはまた違い、三階建ての建物のような形になっていた。
窓が多く、すべて開いているが、窓板の内側には鉄格子のようなものが張ってある。
ここでトリを飼っているのだろうか。
鳥を生育する設備といえば、ニワトリ以外では鳥カゴと金網ケージくらいしか知らないので、なんともいえない。
ただ、この三階建ての建物がぶち抜きにされているとしたら、よほどの広さがあるように思われる。
建物にたどり着き、ルークがドアを開けた。
「入りなさい」
そっと背中を押されながら、中に入る。
びっくりして腰が抜けそうになった。
ドアの奥にあったのは、三階建ての建物をすべてぶち抜いて作った巨大な空間と、そこに住むトリ達だった。
だが、そのトリは異常だ。
大きさが異常だ。
頭からしっぽまで測れば3、4メートルはあるだろうか。
縞の入った茶色の羽をみっしりと体中につけ、爪は鋭く、嘴は大きい。
その眼光は猛禽類のように鋭い。
ていうか鷲だった。
とてつもなく巨大な鷲だった。
俺がぽかーんと口を開いていると、
「びっくりしたか?」
と、ルークがニヤニヤしながら聞いてきた。
「そりゃあ……はい」
「そうだろそうだろ」
「はい、凄い……ですね」
王鷲と呼ばれていた鷲は大きく、そしてカッコ良かった。
ずんぐりむっくりとしているわけではなく、シルエットがスレンダーでシュッとしている。
飼われている王鷲は現在五羽だった。
この大きな建物全体で五羽というと少ない気もするが、サイズを考えれば妥当にも思える。
建物は壁と屋根だけの建物なのかとおもいきや、中に入ると枝打ちした大木をそのまま据え付けたような太い柱が何本も立っていて、それで支えられていた。
柱からはこれまた太い梁が何本も伸びていて、壁に繋がっており、王鷲たちはその梁に留まるのが好きなようだ。
梁から梁へと頻繁に飛んで移動している。
時折ぶわっと飛び跳ねたと思うと羽をばさんばさんと羽ばたかせ、けっこうな勢いで梁を掴んで停止しているので、よほど太い梁でなければ折れてしまいそうだ。
王鷲の翼は、縞のはいった茶色の羽でできていた。
そして、胸から腹の部分だけが白に灰色が混ざったような斑色になっていて、それがアクセントになっている。
地味な色合いにクチバシと足の鮮やかな黄色が映え、これまた美しい。
「すごい……こんな生き物がいるなんて」
「そうだろ? 俺が一番好きなトリなんだ。とても頭がいいし、慣れれば人懐っこい」
「人に慣れるんですか?」
「そりゃあそうだろ。でなきゃ危なくて乗れないじゃないか」
乗る?
「乗るってなんですか?」
「物語で天騎士ってのが出てきたろ? なんだと思ってたんだ?」
ルークは不思議そうに言った。
確かに出てきたが、役割のよくわからん偉い騎士という認識しかなかった。
「お前も乗りこなせるようにならないとな」
なんかわけのわからないことをいっておられる。
「これに乗って空を飛ぶんですか」
「怖がらなくても、もちろん俺が一緒に飛ぶから大丈夫だ。三歳のころに王鷲に乗らせるのは、ホウ家の伝統みたいなもんなんだよ。俺も三歳の時にやらされた」
そういうことを言ってるんじゃないんだが。
なんだか今日俺を乗せて飛ぶつもりでいるらしい。
話から察すると、ビビってる子どもの俺をなだめすかして飛ばせようというような流れになっているようだ。
「人を乗せて飛べる動物なのでしょうか」
「もちろん。そのために飼ってるんじゃないか」
どうやら本気で言っているらしい。
「大丈夫、父さんは世界一の王鷲乗りだ」
オヤジ特有の気休めを言い出した。
正直、怖くないといえば嘘になる。
こんな動物に乗って飛ぶとか、頭のなかの常識を司る部分が警鐘を鳴らしている。
だが、ルークの物言いではどうやら先祖代々からの実績が十分あるような口ぶりだし、慣れてるようなので、危険そうな匂いはしない。
というか、ルークからは危なげなことに挑戦するという気配が微塵も感じられない。
「分かりました。僕も腹を決めますよ」
「よし、それでこそ俺の息子だ」
ルークが首から下げていた木製の笛を口に咥えて吹くと、一羽の王鷲が降りてきた。
まさか笛の音で個体を選んで降ろしたのだろうか。
五羽のうち一羽しか反応しなかったので、選んで降ろしたのか。
俺があっけにとられた顔をしていると、ルークは壁にかかっていたカケドリ用とはまた別の、形のちがう鞍を持つと、まず嘴の先から手綱が繋がった皮の輪っかを通し、鞍を背中に据え付け、革のバンドを腹に回してガッチリ固定した。
鞍はのっぺりとしたものではなく、少し高くなっていて、馬の鞍というよりラクダの鞍のような感じだった。
またがるのは同じだが、椅子のようにちょっとだけ高くなっている。
ルークは王鷲の両側から伸びている手綱を手に取ると、それを引っ張って誘導していった。
王鷲は抵抗する様子もなく、するすると引かれていく。
そのまま、内側から閂のかかった大きなドアを開けて、外にでた。
そうして、建物から離れた草むらの中で、ルークはトントン、と鷲の頭を二度叩いた。
王鷲は、すっと足をたたんでしゃがみ込む。
躾の良い犬が「お座り」と言われたように、ごく素直に座った。
「ちょっと両手をあげろ」
そう言われたので言うとおりにすると、ルークは俺の腰に金属の輪っかがついたベルトを回し、痛いくらいぎっちりと締めた。
そのまま腹のところを持たれ、持ち上げられる。
「よいしょっと」
「うわ」
置物を置くように、鞍の上に置かれた。
ルークも同じようなベルトを巻いたあと、鞍の上に上がってくる。
俺の身長では鞍に跨ってもなんともないが、ルークは足を折って座るように乗っていた。
少し窮屈そうだ。
つまり、跨ってはいるものの馬と違って鐙がなく、座敷に「女の子座り」で座っているような感じになる。
それでは腰がうわついてしまうから、鞍が若干高くしてあり、座れるようになっているわけだ。
ルークは、腰につけたベルトと鞍とを皮のバンドで結び、体を固定させてゆく。
これは一種の安全帯だったらしい。
それが終わると、股の間に座っている俺のベルトにもバンドを締め、腰と鞍が絶対に離れないように固めた。
そして、ルークは手綱を操った。
***
鷲が勢い良く羽をはばたかせ、飛び立つ寸前に、ルークが思い出したように口を開いた。
「いいか、飛んでいる間は絶対に口を開けるなよ」
ぐわっと今まで感じたことのないGのかかりかたを感じたあと、ふわっと鷲の体が浮いた。
ジャンボジェットと違って、加速度に一定感がなく、羽をはばたかせるたびに波のような加速度が身を包む。
浮遊したあと、力強く何度か羽をはばたかせると、ぐんぐんと速度が乗り、王鷲は本格的な飛行に移った。
めまぐるしく眼下の風景が移り変わってゆく。
あっという間に丘を越え、小川を越えて、針葉樹の尖った木の先を掠めるように飛行しながら、空気の壁の中を突き進んでゆく。
途中で羽に切り返しをいれたかと思うと、空の中で更に舞い上がるように天頂方向に向かっていった。
一気に高層ビルの高さまで登ると、背の高い木々と地球のまるさに遮られていた視界が開け、世界が広がる。
雲で湿気を拭い去ったような晴れの空気は、どこまでも透明で、遥か遠くの風景をくっきりと目に映しだした。
なんて美しいのだろう。
旅客機の小さな窓から見る世界とは違う、山の頂上の展望台から見るものとも違う、なにも遮るもののない動的なパノラマは、どこまでも新鮮で、世界を美しく見せた。
しばらくそのまま旋回すると、また手綱が操られ、鷲は優雅なマニューバーを描きながらゆるやかな立体機動に移っていった。
空中で反転し、世界が逆さまになる。
体重が鞍から離れ、腰の安全帯で体が支えられているのを感じる。
すぐに安全帯からも体重が抜け、自由落下にうつる。
視界が空でもなく地平線でもなく、地表でいっぱいになる。
原始的な恐怖が頭をよぎり、パニックが思考を満たす。
だが、自由落下は数秒ほどで終わった。
鷲が羽の角度を変えて再び風を掴むと、ゆるやかに水平飛行に遷移していった。
完全に水平飛行に転じたとき、まだ地表との間にはけっこうな高度の余裕が残されていた。
***
二十分ほども飛行していただろうか。
眼下に見覚えのある建物が見えてきた。
牧場だ。
俺はもう自分がどのへんにいるのかさっぱり分かっていなかったが、ルークはしっかりと覚えていたらしい。
鷲は墜落するかと思うような勢いで地面に降りていった。
降りる手前で幾度も羽をバタつかせると、急制動がかかり、軟着陸でふわっと着陸した。
「ふう」
と俺の頭の上で一息つくと、ルークは安全帯を外しにかかった。
カチャカチャと音がする。
ルークは一分もかからず自分のを外し、俺のもすぐに外してくれた。
王鷲から降りると、俺に向かって「お父さんが受け止めるから飛び降りなさい」と言った。
少し気後れしたが、鞍の上からぴょんと飛び降りた。
ルークは宣言通りに俺をがっしりと受け止めて、地面に降ろした。
「どうだった?」
ルークは期待を込めた目で俺を見てきた。
「素晴らしかったです。いやほんとに」
俺は正直に感想を述べる。
「よかったよかった。ユーリは大丈夫そうだな」
ルークは安心したように言った。
「何がですか?」
「いや、王鷲がだよ。王鷲乗りにはどうしてもなれないって奴がいるんだ。地に足がついてないと駄目ってやつがな」
ああ、三歳児になると~ってのは、それを試すための試験なのか。
高所恐怖症でなくても、怖がりな人間にはあれは無理かもしれない。
怖がりを見下すわけではないが、怖いとどうしようもなくなるという人は一定数いる。
足がつかない海には入りたくないだとか、車は運転できるが高速道路は怖いので入りたくないだとか。
そういう人には無理なのだろう。
「僕は大丈夫みたいです。乗れるかどうかは分かりませんが」
「大丈夫、俺が見たところユーリは才能いっぱいだぞ。俺が言うんだから間違いない」
「そうですか」
こういうことを家族に言われると、年甲斐がないと自分でも思うのだが、嬉しいような気恥ずかしいような気分が沸き上がってくる。
日本にいたころの人生では、俺の親は息子をこういう風に褒めるような人間じゃなかったし、そのうち両親とも死んで、天涯孤独になってしまった。
どうも体に引っ張られて精神年齢が退行している気がする。
心が揺さぶられて涙腺が緩みそうになったので、あわてて堪えた。
「そういえば、みんなこんな小さなころから訓練を始めるんですか?」
「あ、嫌だったか?」
「いえ、全然嫌じゃありませんよ。でも、みんなやってるのかなって」
「まあ、三歳というのはウチのしきたりみたいなもんだが、みんな小さいころからやるぞ。体が大人になるまでに一人で乗れないと、天騎士にはなれないからな」
「なんでですか? 大人になってから目指せばいいじゃないですか」
軽飛行機を趣味で楽しむような感じで。
「ああ、王鷲は大人の男二人は乗せられないんだ。重量がな」
まじか。
どうやら厳しい体重制限が存在するらしい。
「え、じゃあ太った人はどうするんですか?」
「天騎士に太った人はいないよ」
ルークは笑いながら言った。
確かに乗馬の世界とかでも、百貫デブのプロ騎手なんてのは聞いたことがないが。
王鷲乗りというのは、ルークのような細身で筋肉のついた体が理想なのだろう。
「ユーリのいうとおり、大人になってから王鷲に乗りたいって奴もいるんだ。年をとってお金を手に入れた商人とかさ。でも、大抵うまくいかない。練習中に墜落して死んじまう」
そうなのか……。
「ユーリも、許可が出るまでは絶対に一人で乗っちゃダメだぞ」
ルークがその警句を発したときの表情は、今までの好きなことを語る趣味人の顔から、子どもを心配する親の顔になっていた。
「わかりました。肝に銘じておきます」
その日はこれで牧場をあとにして、カケドリに乗せられて家に帰った。
その間、ぼーっと考えていたのは、王鷲のことだった。