prologue 0
翌日、前の日と同じように朝起きてネットをチェックすると、今やっているゲームがサーバーメンテナンスで夜までできないという情報が目に飛び込んできた。
一日中寝ているのもなんなので、俺はいそいそと出かける支度をした。
久しぶりに量販店でも回って、いろいろと買いこんでこようと思ったのだ。
一週間前に、食器が山と入った水切りカゴがバランスを崩し、床に落ちた拍子に大半の食器が割れたため、食器も補充しなければならなかったし、衣類も穴が空いて捨ててしまったものを補充しなければならない。
今どきは食器くらいネットで買ってもよいのだが、どうせ暇なのだから歩きに出るのも悪くない。
俺は上着を羽織って、玄関の外に出た。
今は四月のはじめで、まだ肌寒い。
空模様は曇天で、外に出ると寒かったので、上着のボタンを締めた。
今日は平日だ。
山に近い住宅街から市街地に近づくにつれ、健全に仕事をしている勤勉な人々が多くなる。
悪いことをしているわけではないのに、居た堪れない気持ちになった。
罪悪感は湧かないし、俺も昔はああだったことを考えると、昔に戻りたいとも思わないが、やはりなんとなく居心地が悪い気がする。
早く帰りたかった。
***
もう少しで量販店に着く。
寂れた商店街の歩道を歩いていると、前方に母子の親子連れが歩いているのに気づいた。
俺も人生のどこかが違っていたら、このくらいの歳の子どもが居てもおかしくないんだよな。
そう思うと胸が苦しくなった。
こんな男が後ろから子ども連れを見ていたら、不審がられてしまうかもしれない。
昨今の事情を鑑みると、子どもはともかく、親はいい顔はしないだろう。
ただ、親子の歩調はとても遅かった。いっそ追い抜いてしまったほうがいいだろう。
そう思い、足を早くした。
「あっ、お父さんだ!」
俺が横を通り抜ける瞬間、そう喋る声が聞こえた。
ぱっと横を見ると、少女が母親の手を振りきって、ガードレールの間を通って道路に入ろうとしていた。
前方を見ると、大型のトラックが迫ってきている。
やばい。
俺はそう直感して、とっさに後を追って道路へ入った。
既に道路に飛び出している少女に手を伸ばす。
視界に映る母親は、目を見開いて、何故か両手で口を包んでいる。
悲鳴でも押し殺しているのだろうか。
それより先に助ければいいのに。
俺がとっさに少女の翻ったフードを掴み、思いっきりひっぱった。
俺の体はもう車線の真ん中あたりに来ている。
思いっきり腕を振るって、少女を路肩に放り投げる。
死んだか。
俺は死を覚悟して体を強ばらせた。
だが、衝撃は来ない。
代わりに、耳のすぐ横を、ギリギリで俺を避けたトラックが通り過ぎた轟音と暴風が突き抜けた。
肝を冷やした運転手が鳴らしたであろう、クラクションの音が響き渡る。
あっぶねー。
危機一髪、九死に一生ってやつか。
目を開けると、泣きながら幼女を抱擁している母親の姿があった。
***
なんだったんだ一体。
夫婦に相応の感謝をしてもらって、一家から離れたあとになっても、興奮が冷めやらず、冷や汗はとまらんわ手は震えるわで、とてもショッピングを楽しむどころではなかった。
心ここにあらずで食器を幾つか買うと、服を買うような気分ではなくなってしまった。
夜になるまでの暇つぶしに、漫画本でも買って帰ろう。
そう思って、近場の本屋に向かって歩き始めた。
地元民しか知らないような裏道を使う。
途中、電車の通る踏切があった。
歩行者や原付だけが通れるような狭い踏切で、棒が降りてくるわけではない。
そこに一人の少年がいた。
足を線路に挟まれている。
なんだか靴が脱げないらしく、四苦八苦している。
この路線は第三セクターの鉄道会社が運営しており、非常に経営が厳しく、貧乏なことで知られていて、ものすごい古い車両を使っている。
そんなだから、こんな小さな踏切までは整備が行き届いていないのだろうか。
少年が俺に気づき、こっちを向くと、目が合った。
面識もないのに、助けてくれという言葉がアイコンタクトで伝わってきた。
しょうがない。
俺は荷物を置いて少年のもとへ駆け寄ると、靴を見た。
靴はマジックテープ式ではなく、靴紐のスニーカーで、足首のところに意味不明なダンゴみたいのがついてる。
ダンゴは、靴紐だった。
半分乾いたスパゲッティをこね回したような、わけわからん結び目になっているのだ。
どうなってんだこりゃ。
どうやったらこんな結び目になるのだ。
こんなん、普通に解いたら十分かそこらかかりそうだ。
「靴紐切るからな」
と言うと、少年は怖がっているのか、猛烈な勢いで首を縦に振った。
といっても、ナイフなどを携帯しているわけではない。
近くの民家でハサミでも借りてくるか。
だが、交渉しているうちに電車がきてしまうかもしれない。
本数の少ない路線だからそれほど心配はないだろうが、急ぐことには急ぐべきだ。
俺は荷物のところまで戻ると、先ほど買った食器が入っているビニール袋から、一つ手頃なものを選んで、地面にたたきつけた。
カシャンと小気味良い音がする。
包装紙を剥がすと、茶碗は一度も使われることなく割れていた。
もったいないことをした。
だが、しょうがない。
一番大きな欠片を持って、少年のところへ戻る。
割れた茶碗の鋭利な側面を使い、靴紐を上から順にブツブツと切っていった。
全て切り終えて、靴を緩ませる。
「ほら、足抜いてみろ」
少年は思いっきり足に力を入れた。
だが抜けない。
そのとき、聞こえてほしくない音が聞こえてきた。
カンッカンッカンッ……という踏切の音だ。
遮断機はなくとも音は鳴るらしい。
電車がくる。
俺はその事実にかつてない焦燥感を覚えた。
少年のほうは泣きそうな顔になっている。
もう足を抜くとか抜かないとか言ってる場合じゃない。
こういう時のために、踏切には非常警報装置がある。
周りを見ると、設置が義務付けられているのか、警報装置はちゃんとあった。
一目散に警報装置を押す。
しっかりと押下している感触が手に伝わるが、警報はならない。
二度、三度と押すが、狼煙のような煙が上がるようでもなければ、カンカン以外の音が鳴るわけでもない。
……音が出ないタイプとか?
俺は少年のところへ戻った。
機械が動いてるんだかどうか分からないが、信用してどっかへ行くわけにもいかない。
少年を線路から引き離せればそれが一番いい。
「少し痛いかもしれんが、我慢しろよ。一緒に力を入れろ」
俺は少年の両脇に腕をいれて、背筋を使って思いっきり引っ張った。
それでも少年の足はびくともしない。
いつ電車が現れるかと思うと、ドキドキした。
「俺におぶさるようにしろ」
そう言って少年の前にしゃがみこむと、おずおずと背中に体を預けてきた。
胸の前に垂れてきた少年の両手首を掴み、背筋・腹筋・大腿筋、全ての筋肉を動員して、一本背負いのような要領で引っこ抜きにかかる。
「んっ!!!」
っと声を出しながら全力で力を入れると、ふいに抵抗がなくなり、前のめりに転げた。
耳には、ゴトトンゴトトンという電車の車輪が線路を打つ音がしていた。
もう近くに来ている。
少年の腕を掴んだまま、立ち上がるより前に横に転がった。
ゴロゴロっと転がり、踏切を出た瞬間、
ズオオオオオオオッ!!!! ガタタンッガタタンッ
という音が、すぐ近くで聞こえた。
あっぶねぇ……。
やっぱり機械動いてなかったんじゃねえか。
今日はなんちゅう日だ。
少年は俺の横に転んでいた。
足首に激痛が走っているらしく、イタイイタイ言いながら蹲っている。
俺は救急車を呼んだ。
***
はあ、なんて日だ。
少年を救急車に乗せ、事情を説明し、気づけば昼飯を食う暇もなく、日が暮れようとしていた。
もはや、世界に殺されようとしているような気さえする。
死ぬかと思った。ということは人生で二度くらいあった気がするが、三十年あまりで二度だったものが、一日で二度起きたというのは、やはり尋常ではない。
だが、ゲームにしても、ドロップ率1%くらいのアイテムが二度連続で落ちるなんてことは、意外とよくあるものだ。
そういうものなのかもしれないな。
割れた食器の入ったレジ袋を引っさげながら、俺は帰宅することにした。
もう腹が減って何をする気も起きない。
もうすぐ家だ。と思いながら、家の近くの橋に通りかかると、川面が夕日に照らされて凄く美しい光景を作り上げていた。
曇天がいつのまにか晴れて、オレンジ色に照らされた散り散りの雲になっていた。
これは二人の子どもの命を一日にして救った俺へのご褒美なのか。
だとすれば慰められもする。
見返りとなったのは感謝の言葉のみで、茶碗代すら戻ってこず、美人と知り合いになるような、エロゲみたいな展開もなかったけど。
これがご褒美なのだ。
俺はそう思い、己の心を慰めることにした。
そして、美しい風景を見ながら、気分を良くしつつ、短い橋を半分ほど渡ったところで、欄干から身を乗り出して水面を眺めている少女を見つけた。
んん??
俺は目を閉じ耳をふさぎ、通り過ぎたい気分になった。
今日はツイてない。
なにか悪いことが起きるに違いない。
活発そうな格好をした少女は、欄干を鉄棒だとでも思っているのか、風景を見ながら両腕で体を持ち上げてゆらゆらしている。
飛び降り自殺という雰囲気ではなく、ただ馬鹿なことをしているようだ。
橋の下をよく見れば、雪解け水が流れてきたのか、川は流れが早く、いくらか増水しているようだ。
いやいや、大丈夫だって。
杞憂だ。
子どもが危ないことをしていたからといって、それが重大事故に繋がる場合が、一体どれほどあるというのだ。
ハインリッヒの法則というものがある。
別名をヒヤリ・ハットの法則ともいうが、1件の重大事故の背後には、29件の軽微な事故と、300件の「やっべ、危なかったなぁ」と思うようなヒヤリとした体験があるというものだ。
逆を言えば330回も危険な行為をしても、人間はなんだかんだで329回は軽微な怪我で済んだり危険を回避できたりするものなのだ。
その一回がまさか、こんなところでたまたま来るわけがない。
そう思って、通りすぎようとした、そのときだった。
ぐいんぐいんと体を揺らして遊んでいる少女が、たまたまバランスを一番崩した瞬間に、大型トラックが車道を通りぬけ、トラックに押された突風が俺と少女に吹きつけた。
俺はたたらを踏むほどではないが、体を少し傾けさせられた。
悪寒を覚え横を見ると、杞憂に終わるはずだった光景が、現実のものと化していた。
先ほどまでいた少女が居ない。
俺は、驚くという動作を忘れたかのように、呆然と突っ立っていた。
「どうしてこんなことが起こる?」と、ため息をつきたい気分だった。
だが、ため息をついていられるほど悠長な事態ではない。
すぐに欄干にかけよって、川面を見下ろす。
すると、やはり少女は川の中に落ちており、橋から見える川下のほうに流れている。
パニックになって溺れてしまっているようだった。
救けるか、救けまいか。
それが問題だ、と思いつつも、俺は服を脱いでいた。
下着姿になった俺は、すぐに川面に飛び込んだ。
元より、俺のようなクズの命など、生きようが消えようがどちらでも良いのだ。
衝撃とともに川面に落ち入ると、恐るべき冷たさが全身を襲った。
上流の雪解け水が溶けてできた川は、人間が浸かるには冷たすぎた。
だが、兎にも角にも泳がなければならない。
水に入って泳ぐというのは、プールとも海とも縁遠くなった俺の人生では、実に四年ぶりのことだった。
俺は泳いで泳いで、ようやく少女のところまでたどり着くと、少女の服を鷲掴み、ほとんど溺れながら岸に向かった。
体がみるみる冷えていくのが解る。
昼飯を食べてなかったからだ。
不摂生な生活をしていたから、体力不足も祟ったのだろう。
命からがら岸辺に辿り着き、少女をなんとか陸に上がらせると、もはや這い上がる体力は残っていなかった。
俺はそのまま水に呑まれて、流された。