第026話 クラ人という人種
それから数日して、待望のクラ語講座の日がやってきた。
教室に入ると、他の講義と違って、殆ど人がいなかった。
商人のハロル・ハレルとミャロ、その他は五人くらいしかいない。
一般人の参加がないからだろう。
ハロル以外は。
この期に及んで、この国の人らは、まったく必要性を感じていないのだろうか。
そもそもシャン人に国際感覚なんてものは存在しないのかもしれない。
クラ人というのは、例えば黒人と白人といったレベルではなく、性交渉しても子供ができないレベルでシャン人とは別人類らしいので、最初から外交しようという発想は芽生えないのかもしれない。
または、九百年間も内輪で、鎖国というか重商主義のような外交をしてきたから、外国語を学ぶという発想がないのかも。
既に講義室に来ていたミャロの隣に座る。
「こんにちは」
と挨拶してきた。
ミャロは俺が取るからこれを取ったのだ。
「うん」
といっても、別に話すことはない。
朝方にさんざん喋ったばかりだ。
「よう」
そこで、俺の隣にハロルがどっかりと座った。
席を移動してきたらしい。
「こんにちは、どうも」
「そっちの子は誰だい。紹介してくれよ」
「ミャロ・ギュダンヴィエルさんですよ。あ、彼はハロル・ハレルさんです」
「どうも、こんにちは、ハロルさん」
ミャロはにっこりと微笑んだ。
初対面の人用のよそ行きの笑顔という感じだ。
だが、ハロルの反応は極端だった。
途端に怖気づいたような顔をし、それを態度にも表している。
「よ、よろしく。ギュダンヴィエルどの」
なにやら恐縮しておる。
殿って。
俺のときは「オッス! ああ、村長さんとこの子かぁ! 腹空いてねぇかぁ!?」みたいな感じだったのに。
いや、そんなでもなかったっけな。
「ハレルというと、ハレル商会の方でしょうか」
知ってるのかミャロ。
「お、おう。いや、はい。お聞きに及ばされて光栄で……」
言葉が変だ。
「普通の話し言葉でけっこうですよ。ユーリくんと同じで、ボクも気にしませんから」
「そ、そうか」
ハロルは明らかにほっとした顔になった。
なんだよ。
俺の時は最初からタメ口上等って感じだったのに。
「いかにも。いちおう、ハレル商会の跡取りってことになってる」
「ハレル商会って有名なのか?」
とミャロに小声で聞いてみる。
ミャロは俺の耳元に口を近づけて話し始めた。
「大商会とはいえない中堅ですが、マルマセットに商売の邪魔をされて没落しつつあるという話は聞きました。あそこは賄賂を拒む商人に嫌がらせするのが仕事みたいなものですから」
へー。
マルマセットってのは、タチの悪いヤクザみたいだな。
そのヤクザの一員が教養院の長ってところが、これまたタチの悪い冗談みたいだけど。
だとすると、ハロルがミャロに遠慮してたのは、議員の息子(俺)とヤクザの息子どっちが怖いか、みたいな感じなのか。
どうなんだろう。
「なんの話しをしてるんだ」
ハロルは心配そうだ。
言っちゃっていいのかな、とミャロを見ると、いたずらっぽく頷いていた。
「たかり屋の被害にあってるお店だって聞いただけですよ」
「ンム……まァな……」
あながち間違いではないらしく、ハロルは憤懣やるかたないといった顔をしている。
ミャロの手前愚痴も言えないんだろう。
「ハロルさんはなんでクラ語を?」
ミャロが話題を替えた。
「あ、ああ。こないだこい……この子と」こいつって言いかけたな。「この子と算盤の講義で一緒になったとき、仕事がないならクラ人と取引すればいいんじゃねえかって言われたんだ。それでな」
「クラ人と……ですか?」
ミャロは少し眉根を寄せていた。
「親父もいい考えだと言っていたからな、早速申し込んで、この講義に来たわけだ」
「ちょっと思いついただけなんだが、なんか問題あるかな?」
気軽にそう訊くと、ミャロは少し考え込んだ。
「問題はないと思いますが、いろいろ困難がありますよね」
困難があるという言い方はミャロらしい。
「殺されたりとかな。まあ、それでも構わないらしいけど」
ハロルはうんうんと頷いている。
「それはいいんですが、困難にあたって付随する行為が問題になるかもしれませんね」
「どういうことだ?」
困難にあたって付随する行為?
シャン語が大分得意になった俺でも。なかなか難しい言い回しだった。
「問題は取引相手を探すまでの間だと思います。これにはもちろん危険が伴いますが、殺害や拉致を回避するために、ハロルさんは十分な数の武装した私兵を使って退路を確保することを考えるでしょう」
ミャロはなにもいわずとも、相手はならず者ということは考慮のうちらしかった。
ならず者相手なのだから、これは当然の措置だろうな。
私兵と言わずとも、船員に武装させて守らせるくらいのことは。
「それはたぶん、クラ人国家の領土に侵入してやることになりますよね。問題は、そこで私兵を使って暴れ、クラ人を大勢殺害してしまうと、自衛のためとはいえ、表向きの行為は海賊と同じになってしまうというところです。海賊罪は死刑なので、運良く逃げ延びても、向こうが国家に訴えて、文書でも送られると、こちらで捕まって縛り首になるかもしれません」
ああ、なるほど。
そういう方面から違法になってくるのか。
考えもつかなかった。
まあ、よくよく考えてみたら、ごく普通にヤバいよな。
敵性国家に勝手に交渉しにいって上手く行かなかったから大勢ブチ殺して退却してきました。って絵面になるし。
最初の目的は交渉でした、という点で弁護の余地は多少あるけども、極小規模のプチ戦争を勝手に吹っかけたのと構図が変わらない。
「ああ、そうか……うーん……」
ハロルはなんだか考えこんでしまった。
「でも、危険ですが実入りは大きいかもしれませんね。さすがはユーリくんです」
なんだかしらんが褒めてもらえた。
「どうだろうな、よく考えたら実際は自殺行為かもしれん」
「野心ある商人というのはそういう危険なことに挑戦するものでしょう」
ミャロは当然のことだというふうに言った。
それは確かにそうかもしれない。
ハイリスク・ハイリターンの危険な取引に体ごと突っ込んでガッポリ稼ぐか、もしくは権力者に上手く取り入って利権を分けてもらうか、どっちかというイメージがある。
ハロルは後者に向かないのは一目瞭然というか、既に嫌われてしまっているようなので、前者しかない。
三井ではなく鈴木だな。
***
「ところで、クラ語の教師はクラ人らしいですね」
ハロルが黙ってしまったところで、ミャロがぽつりと言った。
「え」
知らなかった。
クラ人とかって普通にこの国に住んでるのか。
いや、住んでてもおかしくないけど。
「そうなのか、初めて見るな」
「ボクも初めてです」
そうなのか。
「この国にもクラ人って住んでるのか。何人くらい?」
百人くらいか?
「基本的には居住していませんよ。間諜になったら面白く無いですから」
まあ、そうだよな。
「でもいるんだろ」
「亡命者ですね」
あっ。
なるほど。
「クラ人国家に住めなくなった人たちか」
「そうです」
「でも、普通は東に逃げないか?」
ユーラシア大陸は広い。
どうせ異国に逃げ延びるのであれば、東のほうに行けばいいだろう。
南、つまりアフリカに逃げてもいいし。
どちらにせよ、言葉も通じぬ異人種の、しかも極寒のこの国にくる必要はない。
「追手がかかって殺される危険が高い人々が来るようですよ。ここなら追手のかけようもないでしょう」
「ああ、それはそうかもな」
確かにここならその心配もない。
暗殺者を仕向けるにしても、途中にいるのは明らかに見た目の違う異人種なのだから、隠れるにしても難しいし、外は寒いから行軍も厳しいしで、かなり難易度が高いだろう。
暗殺者というより暗殺団のようなものが必要になってくるだろうし、そしたら人一人殺すのに金が幾ら必要なんだ。という話になる。
「特にヤバい奴らがくるわけか」
どうしようもないので修羅の国に逃げざるをえないみたいな。
「さすがに大量殺人とかで追われている人は亡命を許さないようですよ」
「やっぱそうか」
デメリットしかないもんな。
「主に政治犯などだそうです。教鞭を取られる先生は異端者だそうですけど」
異端者。
剣呑な響きだ。
「先生はクラ人の宗教者で、三年ほど前に亡命してきたそうです」
へー。
それにしても、なんでそんなことを知っているんだ?
本当にどこで調べてくるのだろう。
***
その女性は普通にドアから入ってきて、トコトコと歩くと、教壇に立った。
二十歳くらいに見える女性だ。
クラ人だというその人は、見た目はあまりシャン人と変わらなかった。
どこが違うかというと、肌が浅黒い。
シャン人は全員が全員肌の色が薄いので、俺は新鮮な思いがした。
十年以上ぶりに見る人種だ。
あえてアピールしているのか、その女性は長い黒髪を耳にひっかけていた。
耳の形はシャン人とは違い、ちゃんと耳たぶがあり耳の形も丸っこい。
もちろん、耳に毛などは生えていない。
シャン人の女性と比べて若干背が低く見えるが、これは個人差かもしれないから、クラ人の一般的な体質かどうかは解らない。
つまりは、まるっきり俺の知っている人間だった。
シャン人よりよほど俺の知っている人類に近い。
俺もツノが生えた鬼のような人種を想像していたわけではないが、クラ人はシャン人と子どもが作れないほど分類学的に離れているのだから、大分容姿が違うのだろうと思っていた。
トールキンでいえばドワーフみたいな。
これではまるで人間と同じだ。
子どもが作れないと言われるよりは、作れると言われたほうがずっと腑に落ちる。
なぜ子どもが作れないのだろう?
生物分類でいえば、明らかに亜種程度しか離れていなさそうだけど。
顔作りは少しクラ人とは異質だが、この人は眼鏡をかけているので、むしろ一般的なシャン人より知的に見えた。
この国には眼鏡といえるような眼鏡はなく、ルーペや虫眼鏡のようなものを使う。
耳と鼻梁で支持するツル型の眼鏡をみたのは、こちらにきて初めてだった。
「イーサ・ヴィーノと申します」
ぺこりと頭を下げた。
「見ての通り、私はクラ人です。女王陛下の情けを得て学院で職を得ることができました。よろしくお願いします」
まだシャン語に慣れていないのか、発音のイントネーションに少し違和感があった。
だが文法は完璧らしく、文法的な無理は一切ない。
イントネーションに難があるということは、クラ語というのはシャン語と発音が大分違うものなのだろうか。
「この講義を始めるにあたって、皆さんに注意事項を説明する必要があります」
なんだろう。
「私が教えるクラ語というのは、まずクラ人の国家全てで通用する言語ではなく、正確にはテロル語と呼ばれているものです。私は便宜上テロル語をクラ語と呼びますが、クラ語というのは本当は何十種類もあることに注意してください」
へえ。
まあ、これは想定していた。
こっちは世界をシャン人とクラ人で二分して考えているが、向こうはそうではない。
世界中に無数にある地域圏の、しかも辺境の一地域で生活する異人種にすぎないのだろう。
それはシャンティラ大皇国が健在だった時代でも変わらない。
いくら今と比べて大きかったと言っても、モンゴル帝国のようにユーラシア大陸を半分も席巻していたというわけではないのだから、原則は変わらない。
クラ人には統一言語があります。なんて言われたら、逆にびっくりだ。
まあ、もしかしたら極東のほうには俺の知らない第三の人種圏があったりするのかもしれないけど。
「つまり、テロル語を学んだからといって世界中どこに行っても言葉が通じるわけではありません。ですが、テロル語は何十種とあるクラ語の中でも、もっとも広範に通じる言語の一つです。そして、シャン人国家を取り巻く周辺地域で話されている言語でもあります。また、非テロル語圏に行っても話者は多く、話者を探せば会話に困るということはないでしょう。つまり、あなた方が学ぶのにもっともふさわしいクラ語であることは、間違いありません」
前世でいう英語みたいなものか。
いや、違うか。
この水準の人類社会では、国際的な流動性はさほどないだろうから、安易に国際言語のように考えるのは危険だ。
残念ながら一地方言語と考えたほうが良いだろう。
「もう一つ。テロル語もといクラ語というのは、講義期間一年ではとても習熟できるものではありません。本当は国語などと同じように、最低三つの講義に分けるべきもので、本当なら五つくらい、つまり五年くらいは学習に時間がかかります。ですが、私に与えられている講義はこの一コマだけなので、四単位しか皆さんにあげられません。
つまり、クラ語の十分な習得を条件に単位を与えるとなると、他の科目と比べて単位あたり五倍ほどの努力をみなさんに強いることになります。
これはとても不公平になりますので、習得は完璧でなくとも単位は与えたいと思いますが、私としても学習がまったく進んでいない状態で単位を差し上げるのは不公平と思いますので、やはり一般的な科目の倍くらいは努力が必要になると思います。
なので、申し訳ないのですが、この講義はクラ語に興味が無い方にとっては、いってみればあまり旨味のない講義ということになるでしょう。
私としてはとても残念ですが、これを聞いて嫌になった方は講義を変更することをお薦めせざるをえません。もちろん、残った方には誠心誠意クラ語をお教えしますし、課外でも習得のお手伝いをさせて頂きます」
ふむふむ。
非常に長ったらしく説明してくれたが、つまりは学院側がクラ語を軽視しており、単位をケチっているということらしい。
四単位といわず初級中級上級とわけて十二単位くらいはくれればいいのに。
そうしたら、腰を据えていっちょやってみるかという連中も現れるだろう。
しかし、五年というのはどうなんだろう。
週一コマの授業を五年やるだけで、一から外国語がマスターできるものだろうか。
それはちょっと楽観的なような気がする。
俺などは、大学四年間で英語をずっとやっていたが、無理だった。
海外旅行をするのに困らない程度の英語はできたし、時間をかければ論文も英語で書けたが、向こうの研究者と専門的な会話を苦もなくできる、といったレベルに達することはできず、イントネーションにも癖が残った。
「それでは、講義を始めたいと思います。まずは、基本的なクラ語とシャン語の違いから解説します。私もシャン語が完璧ではないので、わからないところがあったら随時質問してください」
講義が始まった。
もったいないことだが羊皮紙に要点を書き込んでいく。
板書もろくにできないのだから不便なものだ。
この講義では、英語を勉強したときの知識が役に立つことがわかった。
クラ語というかテロル語はSVO型の言語だ。
そのことは、すぐに分かった。
シャン語は日本語と同じSOV型の言語なので、日本語と英語の関係に似ている。
加えて、アクセントの付け方も違った。
文法は単純に勉強をすればよいが、アクセントの付け方が違うというのは、非常に厄介なことだった。
音の高低で発音を補うような言語に慣れ親しんでしまうと、強く発音する一つの音を他が補うような形の言語には、容易に順応できない。
文法かアクセントかのどちらかが同じなら、一気に親しみやすくなるはずだが、両方違うとなると壁を感じざるをえない。
イーサ先生が実際にクラ語を喋ってみせると、ミャロあたりは目を白黒させていた。
ハロルのほうはわりと平然としている。
貿易なんて仕事をしていれば、海賊の言葉として聞く機会もあったのかもしれない。
コマ区切りの鐘がなると、講義は終了した。
「それでは、これで講義を終わります。これから一年間よろしくお願いしますね」
イーサ先生は教室から出て行った。
うーん。
とりあえず単語帳とか欲しいんだが、どうしたものだろうか。
隣を見ると、ミャロがぽけーっとした顔をしていた。
心なしか、煤けてみえる。
「ミャロ、どうしたんだ」
心配になって声をかけた。
「……ボクには無理かもしれません」
ぽつりと言った。
「そ、そうか」
語学は向き不向きが大きい。
他の勉強はできないのに語学だけは得意で、中学二年くらいで英検一級を取るような奴も居れば、語学留学までしてもモノにならない奴もいる。
覚えておいて損はないと思うが、必修ではないのだから無理しなくてもいいと思う。
イーサ先生の言うとおり、損だし。
「……タコかなにかの言葉のようでした」
重症だ。
タコの言語とは。
いっそ聞いてみたいが。
俺も語学はどちらかというと不得手なので、先行き不安ではある。
うーん。