部屋の中はしんと静まり返っている。
菜摘の心の中では様々な感情が波を打って流れていた。その渦の中に身を任せながら、それと同時に、これまで目にした白い影の姿を思い返していた。公園のブランコに座っていた白い影。マンションの前の街灯の下に立っていた白い影。菜摘の部屋のドアの前に立っていた白い影。そしてF高校の校舎の前に立っていた白い影。その記憶に刻み込まれた白い影の中に、目の前に置かれた写真の中に写る中年女性の面影を必死に探した。だけどどうしても、決定的な証拠をそこに見つけ出すことはできなかった。
このままこの写真の前で立っていても仕方がない。
もともと座っていたソファに戻ろうと振り返りかけたが、最後にもう一度、右端の写真立ての中の真衣の母親の顔を見つめる。自分は、この顔を憶えておかなければならないと思った。これから先、どこかでこの顔が自分の前に現れる時が来るような気がした。
菜摘がようやく写真から視線を外し、後ろを振り返ろうとしたときに、ふと、棚の一番下の段が目に入った。
数冊のハードカバーの本が左側に寄せられるように置かれている。背表紙には「A文学全集」であったり、本によっては英語でタイトルが書かれているものもある。その中の一冊に、周りの本からは明らかに浮いている背表紙が見えた。そこには「東京都立M病院」と書かれていた。どうしてこんな本が置かれているのだろう。疑問には感じたが、特に気にすることもなくすぐにその本から視線を外す。そのことは菜摘の記憶の片隅にしまい込まれて、そして頭の中から消えていった。
後ろを振り返ると、男がソファに座ったままこちらを見ていた。何も言わず、黙っている。その細い目に見られているとなぜか、後ろ暗い嘘を見破られた小さな子供のように、背中に冷たいものを感じた。
「写真を見せていただき、ありがとうございます。本当に真衣さんと真衣さんのお母様は姉妹のように仲良しだったことが、写真を見るだけで分かりますね」
「そうですか。……そのように言っていただくと、真衣もあの世で喜んでいると思います」
あの世で……喜んでいる……。
男の言葉に何と答えていいのか分からず、曖昧に小さく頷いてから菜摘は自分がもともと座っていたソファに戻ろうとゆっくりと歩き出した。
その時だった。
ゴト……。
菜摘の頭上で物音が聞こえた、気がした。
本当に微かな音だった。注意していないと、その音の存在に気付かないような小さな音だった。だけど菜摘には確かにその音が聞こえたという実感があった。足が凍りついたようにその場で動かなくなる。
今の音は……何……。
頭上から聞こえたということは、この家の二階から聞こえたということになる。
この家の二階に、何かがいる……。
菜摘は耳を澄ます。だけどその頭上からはもう何の音も聞こえなかった。微かな気配すら感じ取ることはできなかった。そのまま視界の端で、ソファに座っている男の様子を観察する。男は先ほどと全く変わらずに無表情のまま、菜摘の方に視線を投げかけていた。その顔のどこにも、狼狽も衝撃も不安も警戒心も見つからなかった。この男には今の音が聞こえなかったのだろうか。それとも、そもそも音なんて始めから存在していなかったのだろうか。自分の異常な精神状態が幻聴を生み出しただけなのだろうか。
「どうかしましたか?」
男の言葉に菜摘ははっとして、「いえ、何でもありません」と首を横に振る。自分の中の動揺を必死に隠しながら、もともと座っていたソファに再び腰掛けた。
少しの静寂を挟んで、男は再び口を開く。
「姉の異常に私が初めて気付いたのは、真衣の葬儀を終えて一週間後のことでした。
それまでの一週間はずっと、姉は一日中真衣の部屋でどこか虚ろな目をしながら座っていました。私も、姉にとって真衣の存在がどれほど大きいかは知っていたので、姉の気が済むまでやらせてやろうと思い、そっとしていました。
一週間後のその日、私が仕事から帰ると、姉はキッチンに立っていました。私は姉もようやく真衣の死を受け入れて、自分の人生を前向きに捉えることができるようになったのかと姉を見ましたが、姉の様子は明らかにおかしかった」
「……」
「真衣が大切にしていた熊のぬいぐるみを、真衣がいつも座っていた椅子に座らせて、そのぬいぐるみに対して、『真衣、今日は学校でどんなことがあったの?』と話しかけていました。そしてぬいぐるみからの言葉を聞き取ったかのように、次には『そう、そんなことがあったの。今日の夕食は真衣の好きなカレーだから、楽しみにして待っていてね』とぬいぐるみに言葉をかけていました。
真衣が死んだことを受け入れることができなかったのでしょう。
私はそんな姉の様子を見ていられなくて、『姉さん、真衣は死んだんだ』と言っても、姉はその言葉の一切を受け入れようとはしませんでした。逆に、ぬいぐるみに対して『叔父さんもひどいよね。真衣が死んだなんて嘘を言う。真衣はちゃんとここにいるのにね』と話しかけていました」
「……」
「私が何より恐ろしかったのが、それを言う姉の顔が、信じられないくらい真顔だったことです。自分の言葉を全く疑っていなかった。姉にとって真衣はまだ生きていて、そしてぬいぐるみの形で存在している。姉にとってはそれが真実だった。姉の生きる世界の中では、真衣も同じように生き続けていたのです」