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創作ノート

短編小説を書いています。

見知らぬ女(41)

 

唯一の生きる糧だった真衣を失い、狂っていく真衣の母親。

その様が菜摘の目の前に一つのイメージとして鮮やかに浮かんでいた。男の話から作り出されたそのイメージは、不思議な現実感を伴って菜摘に迫ってくる。ついさっき写真で見たばかりの彼女の顔が恨めしそうにこちらを見つめながら、菜摘の前にゆらゆらと揺れているのが見える気がした。その顔を見続けているのが耐えられなくて、菜摘は思わず目をぎゅっと閉じる。だけど顔は、目を閉じた暗闇の中で先ほど以上の鮮明さで菜摘を見つめていた。

「どうしましたか?」

男の問いかけに菜摘は目を開ける。男は怪訝な表情を顔ににじませながら、菜摘の方を見ていた。

「いえ。何でもありません」

「こんな希望のない暗い話をいきなりされて、気が滅入ってしまったのでしょう」

「そんなことは……」

首を横に振りながら菜摘は、男が語ったばかりの、真衣の母親の悲しい物語の結末を思い出す。男は、今、確かに「姉は今でもその病院に入院しています」と言った。現在も閉鎖病棟に入院しているのだとしたら、病院の外に出るというのも難しいはずだ。

それなら……。

武井有加里を殺し、私の前に立ち現れ、そして私に「佐々木真衣」の名で「次はお前だ」というメッセージを送ってきたのは真衣の母親ではないということなのか。

自分自身そのものであり、そして自分の生きる意味であった娘の真衣をいじめによって死に追いやった加害者を、真衣の母親が娘の着ていた制服を身にまとって一人ずつ復讐して回っている。写真を見ているときに浮かび上がったその鮮烈なイメージは、私の思い違いということなのか。

いや……。

菜摘は心の中で呟く。

この男の言葉が全て真実だという保証はどこにもないのだ。

確かに全てが嘘という訳ではないのかもしれない。だけど真実の中に嘘を散りばめているのだとしたら、それを識別する術を自分は何一つ持ち合わせていないということに菜摘は気付いた。

「暗い話はこれくらいにしましょう。それよりも、真衣の高校での様子について話を聞かせて下さい」

「真衣の……高校での様子……」

「はい。先ほどお話ししたように、私が真衣、そして私の姉と一緒に暮らした期間は二年にも満たなかった。それまでも私と姉はそれほど交流があった訳ではなかったし、一緒に暮らした二年間も真衣は日中は学校に行っていたし、家にいるときはずっと自分の母親と二人でいたので、お恥ずかしながら私は真衣とそれほど深い話をした記憶が無いのです。

日々、真衣がどのように過ごしていたのか、そのことについて自分は全く知らないということに気付きました。真衣の短い人生の中で、何に感動し、何に悲しみ、そして何に怒りを感じたのか。私は全く知らないということに気付いたのです。

交流は無かったが、それでも私にとっては血の繋がった姪です。だから私は、真衣が高校の中でどのように過ごしていたのかを知っておきたいのです」

「……そう言われても」

菜摘は言葉を濁す。

「ほんの些細なことでもいいので、教えていただけないでしょうか」

真衣の高校での様子。

菜摘の頭の中には、武井有加里に突き飛ばされて転んでしまった真衣、周りから嘲りの視線で見られていた真衣、教室の一番後ろの席で武井有加里たちに囲まれ、罵詈雑言を投げつけられている真衣、そして、俯きながらそれに必死に堪えている真衣の姿しか浮かんでこなかった。どんなにそれ以外の光景を思い出そうとしても、真衣がいじめられている光景がそれ以外の光景を上書きしていくように、菜摘の前には現れてくれなかった。

「真衣は……」

いじめられていました。

そんなこと、実の叔父に向かって言える訳がない。

たとえ自分がそのいじめに加担していないとしても、言うことは出来ない。

それに、あの真衣のノートには武井有加里だけでなく菜摘自身もいじめの加害者として名指しされている。そのことを目の前の男に知られるのを心のどこかで恐れていた。いじめに加担していないのだとしても、そのいじめから真衣を救うことをしなかった、いや、救うことを考えることすらしなかった自分に対して心のどこかでは罪の意識に苛まれ続けていた。

 

 

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見知らぬ女(40)

 

男が語る異様な世界と、その異様な世界に生きる異様な人たち。

静かな口調で語られるその世界は、菜摘がこれまで生きてきた世界とあまりにかけ離れていて、その世界をなかなか自分の中に受け入れることが出来なかった。まるで目の前の男が空想の世界の話をしているかのような気がした。だけどその一方で、菜摘の前に現れた白い影は、そのような異様な世界にこそふさわしい住人のようにも思えた。そしてその白い影は、一つの現実として菜摘の前に何度も立ち現れていた。

「そ……それで、真衣さんのお母様はどうなられたのですか?」

男は眉間に小さな皺を寄せて、微かに首を横に振る。

「もはや私の手に負えるような状態ではなかった。私は姉を近くの総合病院に併設されている精神科に連れていきました。そこで、娘である真衣が生きているという妄想に囚われている姉は、統合失調症と診断されました。

その時の医師の話によると、統合失調症の誘引としてストレスがあって、特に患者の殆どが発症の時期に、結婚、就職、離婚、そして死別といったライフイベントが重なっていることが多いのだそうです。

真衣の死という出来事は、姉にとって耐え難いほどのストレスだったのかもしれません」

「……」

「姉は閉鎖病棟に入院し、治療を受けることになりました。そこで薬物療法、電気療法、作業療法と様々な治療を受けたのですが、姉の症状は一向に良くはならなかった。逆に、一日一日経つごとに、姉の中の妄想はより強固になっていくようでした。

私が一度病院に面会に行ったときに、姉はベッドの上に腰掛け、ひざの上には熊のぬいぐるみを乗せていました。そしてそのぬいぐるみに『ほら真衣、叔父さんが会いに来てくれたから、挨拶しなさい』と話しかけていました。

私はその姿にぞっとするものを感じて、姉の肩に両手を乗せて、『何を言っているんだよ、姉さん。真衣は死んだんだよ。それを受け入れるのが辛いのは分かるけど、だけどもう変えられない現実なんだよ。だから姉さんも真衣の死を受け入れて前に進まないと駄目なんだよ』と、その折れてしまいそうなほど細い肩を揺するようにして言っていました。

すると姉は私の手を邪険に振り払い、そして再び膝の上のぬいぐるみの頭を撫でながら、『真衣は生きている。ほら、ここにいるじゃない。どうしてあなたたちは真衣を死んだことにするの? 真衣が可哀想じゃない。もし、それでも真衣を殺すというのなら、私は絶対に許さない』そう言ったときの狂気に満ちて爛々と輝く姉の目を、私は今でも忘れることが出来ない……」

男は小さく息を吐く。その様子を、菜摘は息を詰めるように見つめていた。

「姉にとっては、真衣が死んでもう存在しないという現実よりも、真衣は生きていて、今、自分の膝の上に乗っているという妄想の方が、現実だった。いや……。おそらく、そのような妄想なしでは一日だって生きることはできなくて、姉は心のどこかで、そのような妄想に救いを求めたのかもしれない。

膝の上のぬいぐるみに話しかけている姉を目の前にして、私はそのことに気付いた気がした。

もし、そのような妄想の世界の中にしか姉は自分が生きられる場所を見つけ出すことが出来ないのなら……そして、もし、それによって姉が生きることができるのなら……。

私は、姉のその妄想を、私自身も受け入れようとすら思った……」

「……」

「姉が入院した総合病院は短期の入院しか受け入れていなくて、様々な治療を受けても一向に症状が改善しなかった姉は県外の病院に転院することになりました。……姉は今でもその病院に入院しています」

男が口を閉じると、部屋の中は突然重苦しい静寂に包まれた。

菜摘の右手にある窓から覗く外の世界は、もうすっかり闇に覆われている。闇の世界の静けさと冷たさが、窓を介して部屋の中にも忍び込んできていた。

 

 

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見知らぬ女(39)

 

部屋の中はしんと静まり返っている。

菜摘の心の中では様々な感情が波を打って流れていた。その渦の中に身を任せながら、それと同時に、これまで目にした白い影の姿を思い返していた。公園のブランコに座っていた白い影。マンションの前の街灯の下に立っていた白い影。菜摘の部屋のドアの前に立っていた白い影。そしてF高校の校舎の前に立っていた白い影。その記憶に刻み込まれた白い影の中に、目の前に置かれた写真の中に写る中年女性の面影を必死に探した。だけどどうしても、決定的な証拠をそこに見つけ出すことはできなかった。

このままこの写真の前で立っていても仕方がない。

もともと座っていたソファに戻ろうと振り返りかけたが、最後にもう一度、右端の写真立ての中の真衣の母親の顔を見つめる。自分は、この顔を憶えておかなければならないと思った。これから先、どこかでこの顔が自分の前に現れる時が来るような気がした。

菜摘がようやく写真から視線を外し、後ろを振り返ろうとしたときに、ふと、棚の一番下の段が目に入った。

数冊のハードカバーの本が左側に寄せられるように置かれている。背表紙には「A文学全集」であったり、本によっては英語でタイトルが書かれているものもある。その中の一冊に、周りの本からは明らかに浮いている背表紙が見えた。そこには「東京都立M病院」と書かれていた。どうしてこんな本が置かれているのだろう。疑問には感じたが、特に気にすることもなくすぐにその本から視線を外す。そのことは菜摘の記憶の片隅にしまい込まれて、そして頭の中から消えていった。

後ろを振り返ると、男がソファに座ったままこちらを見ていた。何も言わず、黙っている。その細い目に見られているとなぜか、後ろ暗い嘘を見破られた小さな子供のように、背中に冷たいものを感じた。

「写真を見せていただき、ありがとうございます。本当に真衣さんと真衣さんのお母様は姉妹のように仲良しだったことが、写真を見るだけで分かりますね」

「そうですか。……そのように言っていただくと、真衣もあの世で喜んでいると思います」

あの世で……喜んでいる……。

男の言葉に何と答えていいのか分からず、曖昧に小さく頷いてから菜摘は自分がもともと座っていたソファに戻ろうとゆっくりと歩き出した。

その時だった。

 

ゴト……。

 

菜摘の頭上で物音が聞こえた、気がした。

本当に微かな音だった。注意していないと、その音の存在に気付かないような小さな音だった。だけど菜摘には確かにその音が聞こえたという実感があった。足が凍りついたようにその場で動かなくなる。

今の音は……何……。

頭上から聞こえたということは、この家の二階から聞こえたということになる。

この家の二階に、何かがいる……。

菜摘は耳を澄ます。だけどその頭上からはもう何の音も聞こえなかった。微かな気配すら感じ取ることはできなかった。そのまま視界の端で、ソファに座っている男の様子を観察する。男は先ほどと全く変わらずに無表情のまま、菜摘の方に視線を投げかけていた。その顔のどこにも、狼狽も衝撃も不安も警戒心も見つからなかった。この男には今の音が聞こえなかったのだろうか。それとも、そもそも音なんて始めから存在していなかったのだろうか。自分の異常な精神状態が幻聴を生み出しただけなのだろうか。

「どうかしましたか?」

男の言葉に菜摘ははっとして、「いえ、何でもありません」と首を横に振る。自分の中の動揺を必死に隠しながら、もともと座っていたソファに再び腰掛けた。

少しの静寂を挟んで、男は再び口を開く。

「姉の異常に私が初めて気付いたのは、真衣の葬儀を終えて一週間後のことでした。

それまでの一週間はずっと、姉は一日中真衣の部屋でどこか虚ろな目をしながら座っていました。私も、姉にとって真衣の存在がどれほど大きいかは知っていたので、姉の気が済むまでやらせてやろうと思い、そっとしていました。

一週間後のその日、私が仕事から帰ると、姉はキッチンに立っていました。私は姉もようやく真衣の死を受け入れて、自分の人生を前向きに捉えることができるようになったのかと姉を見ましたが、姉の様子は明らかにおかしかった」

「……」

「真衣が大切にしていた熊のぬいぐるみを、真衣がいつも座っていた椅子に座らせて、そのぬいぐるみに対して、『真衣、今日は学校でどんなことがあったの?』と話しかけていました。そしてぬいぐるみからの言葉を聞き取ったかのように、次には『そう、そんなことがあったの。今日の夕食は真衣の好きなカレーだから、楽しみにして待っていてね』とぬいぐるみに言葉をかけていました。

真衣が死んだことを受け入れることができなかったのでしょう。

私はそんな姉の様子を見ていられなくて、『姉さん、真衣は死んだんだ』と言っても、姉はその言葉の一切を受け入れようとはしませんでした。逆に、ぬいぐるみに対して『叔父さんもひどいよね。真衣が死んだなんて嘘を言う。真衣はちゃんとここにいるのにね』と話しかけていました」

「……」

「私が何より恐ろしかったのが、それを言う姉の顔が、信じられないくらい真顔だったことです。自分の言葉を全く疑っていなかった。姉にとって真衣はまだ生きていて、そしてぬいぐるみの形で存在している。姉にとってはそれが真実だった。姉の生きる世界の中では、真衣も同じように生き続けていたのです」

 

 

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見知らぬ女(38)

 

「この写真立ての中の写真は……真衣さんと、真衣さんのお母様の写真でしょうか?」

「……そうです」

写真の中で並んでいる二人の女性。二人の女性のうちの一人は真衣であり、それならもう一人の方が真衣の母親なのだろう。だけど写真は小さく、菜摘の座っているソファからはその写真の中の顔はよく見えない。真衣の母親はどのような女性なのか。それをどうしても今ここで確認しておきたかった。

「近くで見ても、よろしいでしょうか?」

菜摘の申し出に男は特に気に掛けることもなく、「構いませんよ」と事務的な口調で答えた。

菜摘はソファから立ち上がり、背後に置かれた棚にゆっくりと近づいていった。

棚の上には三つの写真立てが横に並べて置かれている。その全ての写真に、二人の女性が写っていた。

左側の写真の中では、大人の女性が、未就学児と思われる小さな少女を膝の上に抱えながら微笑んでいる。二人とも平和で穏やかな笑みだった。背景はどこかの部屋の中のようだ。自宅で、離婚したという夫に撮ってもらった写真だろうか。

真ん中の写真には、ランドセルを背負った少女と大人の女性が手を繋いでいる姿が写っている。少女はどこか緊張した表情をしていた。後ろには綺麗に咲いた桜の木が写っており、おそらく小学校の入学式のときにでも撮ったものだろう。

そして右側の写真には、大人の女性が、すっかり大きくなった少女の肩を後ろから抱くような形で写真に写っている。その二人は笑みは浮かべているのだけど、菜摘の目には、その笑みがなぜか陰のある笑みのように見えた。

小さな少女だった真衣は、左側から右側に行くにつれて、大人の女性に近づいていく。菜摘は一番新しいと思われる右側の写真立てを掴んで、その中の写真を見つめた。

菜摘の記憶の中の真衣の姿と変わること無く、長い黒髪を背中側に流した真衣が写っている。前髪は、菜摘がF高校で見ていた真衣よりも短く、その陰のある笑顔をはっきりと見ることが出来た。おそらくF高校に転入する前に撮られたものだろう。もしかしたら、東京の高校に通っていて、クラスメートからいじめを受け始めていた頃のものかもしれない。だからこの真衣の笑顔には、どうしても拭いきれない陰が潜んでいるのかもしれない。菜摘はそのようなことを考えながら写真を見つめていた。

真衣の背後からその肩を抱くようにして写っているもう一人の女性の方に視線を移す。

年齢は四十代前半くらいだろうか。

ショートカットの髪型をした中年の女性が写っている。

これが……真衣の母親なのか……。

その顔を自分の頭に焼き付けるかのように、菜摘は写真の中の顔をじっと凝視する。ショートカットの真衣の母親、長い黒髪の真衣。髪型が全く違うせいか、二人から受ける印象も全く違っていた。それに真衣はきれいな二重の目をしているのに、母親は一重の目をしていた。この部屋で、今、菜摘の背後でソファに座っている男の目にそっくりだった。その目は一重のせいなのか、どこか冷たい作り物の目のように菜摘には見え、それすらも男の目に似ているものを感じた。

いや……。

菜摘は改めて写真の中の二人を見つめる。

顔の印象の違いに引っ張られて二人の印象を全く違うものに捉えてしまったが、顔以外に視線を転じると、二人の背格好はよく似ている。真衣も小柄な少女だったが、真衣の母親も真衣と同じくらい小柄な女性だった。写真立てを持つ手の親指で二人の顔だけ隠してみると、どちらが真衣でどちらが真衣の母親か分からなかった。

F高校で岡本から聞いた話を思い出した。

岡本は菜摘に次のように述べたのだ。

「まず私が感じたのは、二人がとてもよく似ているということだった。背格好などの外見もそうだったし、身にまとう空気のようなものもよく似ていた。遠目で見たら姉妹か、あるいは双子と見間違うかもしれない。それが私の二人に対する第一印象だった」

確かに、真衣の母親が長い黒髪で顔を隠していて、そしてF高校の制服を着ていたとしたら……自分はその姿を真衣として見てしまうかもしれない……。

菜摘は自分の中に突然浮かび上がったこの考えに悪寒にも似た戦慄を感じながら、右手に持った写真立てを棚の上に戻した。

 

 

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見知らぬ女(37)

 

先ほど男が口にした話について、何か心に引っかかるものがあることに菜摘は気付いた。

何だろう。何かがおかしい。

だけどそれが何なのか、分からない。

菜摘はテーブルの上に右手を伸ばし、湯呑みを掴む。再びお茶を飲む振りをして時間を稼ぎながら、男の話を思い返す。心に引っかかる違和感の正体を探した。

男は離婚して、この家に一人で住んでいたという。そこに真衣と真衣の母親が二年前に移り住んできた。そして男、真衣、真衣の母親の三人の生活が始まった。だけど真衣は、一年前の高二の冬に亡くなっている。

今、男は確かに、現在はこの家に一人で暮らしていて他には誰もいないと口にした……。

簡単な話だった。

それなら真衣の母親は、今、どこにいるのか……。

その事実に思い至り、菜摘は微かに戦慄する。その事実が自分にとって重要な、そして不吉な何かを象徴しているような気がした。菜摘は自分の右手が震えるのをぐっと押さえつけながら、右手に持った湯呑みをテーブルの上に戻す。そんな菜摘の様子を、テーブルの向こう側で男は感情の読み取れない細い目でじっと見ていた。

きっと真衣の母親と白い影はどこかで繋がっている。

真衣の一番近くにいた人物は誰なのか。

岡本の話、そして今の男の話を合わせて考えても、菜摘には真衣の母親しか思いつかなかった。

「あの……」

声が震えている。

これから自分が口にしようとしていることが重要な核心となる。そんな思いが、強い緊張となって菜摘の心を締め付けていた。

「母親は……真衣の母親は、今、どちらにいらっしゃるのでしょうか?」

「え?」

「先ほどあなたは、今はこの家に一人で住んでいるとおっしゃいました……」

「……」

「それなら……真衣の母親は今どこにいるのかなと思って……」

「なぜ、そんなことを聞くんですか?」

菜摘は言葉に詰まる。真衣の母親に関係があると思われる白い影が武井由加里を殺して、そして今は自分の命を狙っている。そんなこと言える訳がなかった。

何でもいい。何か言わなければ……。

無理やり口を開く。

「ノートを……。真衣から借りたままになっているノートを、真衣の母親に直接返したくて……」

「そうですか。……ですが、それは難しいかもしれません」

「どうして……」

「あの当時の姉は、もうどこにもいないからです……」

「一体、何が……」

男は菜摘から視線を外して、菜摘の背後を見る。確かそこには棚が置かれていたはずだ。もしかしたら、その棚よりももっと遠くの何かを見ていたのかもしれない。

「姉は……可哀想な女でした」男は縁無し眼鏡に左手を添え、眼鏡の位置を直す素振りをする。

「先ほどお話ししたように、姉はまだ真衣が幼い頃に離婚しています。女手一つで必死になって真衣を育てていました。一人親ということで、いろいろな苦労や困難もあったのだと思います。だけどそれでも、姉は前を向いて生きていました。……それができたのも、姉の傍に真衣という存在がいてくれたからです。姉にとって真衣は生きる意味だった。生きる目的だった。自分自身そのものだった。どんなに辛いことがあっても、真衣がいたからこそ生きてこられた。……そんな女だったんです」

「……」

「だけど、一年前、真衣は突然亡くなってしまった」

その言葉が重要な意味を持つかのように、男は言葉を区切る。そして再び徐ろに喋りだした。

「そのことは姉にとって大きな意味を持つ出来事でした。姉は一瞬のうちに、生きる意味も、生きる目的も、そして自分自身をも失ってしまったのです。……真衣が亡くなってすぐに、姉は心を病んでしまいました。傍で見ていた私の目には、まるで姉の心がばらばらに壊れてしまったかのように見えました」

「……」

「それも仕方のないことだったのかもしれない。……だって、この写真のように、二人はいつも二人で過ごしていたし、いつも二人でお互いを見つめ合うように生きていたのだから」

この写真……。

菜摘は後ろを振り返り、男の視線の先に目を遣る。

そこには、この部屋に入ったときに目にした棚が置かれていた。そしてその棚の上の写真立てには、二人の女性が寄り添うように並び、微かに笑みを浮かべながらカメラのレンズを見つめている写真が淋しく飾られていた。

 

 

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