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松永光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松永 光
まつなが ひかる
内閣広報室より公表された肖像
1998年 撮影)
生年月日 (1928-11-23) 1928年11月23日
出生地 日本の旗 日本 長崎県南高来郡南串山村
(現・雲仙市
没年月日 (2022-10-11) 2022年10月11日(93歳没)
死没地 日本の旗 日本 埼玉県さいたま市
出身校 早稲田大学第二法学部法律学科卒業
前職 弁護士
衆議院議員
公益財団法人日本武道館会長
所属政党 自由民主党村上派江藤・亀井派
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
さいたま市名誉市民
法学士(早稲田大学・1951年
配偶者 松永桂子
親族 養父・松永東(第45代衆議院議長
義姉・松山千恵子(元衆議院議員)
義兄・松山義雄(元衆議院議員)

日本の旗 第104代 大蔵大臣
内閣 第2次橋本改造内閣
在任期間 1998年1月30日 - 1998年7月30日

内閣 第1次海部内閣
在任期間 1989年8月10日 - 1990年2月28日

日本の旗 第106代 文部大臣
内閣 第2次中曽根第1次改造内閣
在任期間 1984年11月1日 - 1985年12月28日

選挙区旧埼玉1区→)
埼玉1区
当選回数 10回
在任期間 1969年12月27日 - 2000年6月2日
テンプレートを表示

松永 光(まつなが ひかる、1928年昭和3年〉11月23日[1] - 2022年令和4年〉10月11日)は、日本政治家弁護士。公益財団法人日本武道館会長(第8代)。位階は正三位、勲章は勲一等旭日大綬章

衆議院議員(10期)、大蔵大臣第104代)、通商産業大臣第50代)、文部大臣第106代)、衆議院予算委員長・建設委員長、美しい日本の憲法をつくる埼玉県民の会会長[2]などを歴任した。

衆議院議長、文部大臣、衆議院議員を務めた松永東は養父。

来歴

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長崎県南高来郡南串山村(現雲仙市)生まれ。1947年東京都立九段中学校を卒業し、中央大学法学部法律学科に進学。その後、早稲田大学第二法学部法律学科に編入し、1951年に卒業した。同年、司法試験に合格し、1954年福岡地方検察庁検事に任官。しかし翌1955年に退官し、弁護士開業。そのかたわら養父・松永東の秘書を務め、東の死後、1969年第32回衆議院議員総選挙旧埼玉1区から自由民主党公認で立候補し、初当選した(当選同期に森喜朗小沢一郎羽田孜奥田敬和渡部恒三綿貫民輔村田敬次郎江藤隆美浜田幸一らがいる)。以後、10期連続当選。当選後は中曽根派に所属し、渡辺美智雄が継承した後も渡辺派に所属。引退するまで、中曽根派・渡辺派の系譜である志帥会に所属していた。

法務政務次官通商産業政務次官を務めた後、1984年第2次中曽根第1次改造内閣文部大臣に任命され、初入閣した。1989年第1次海部内閣通商産業大臣に就任[1]1996年第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い、埼玉1区から立候補。新進党公認の浜田卓二郎らを破り、10選。

1997年衆議院予算委員長に就任。翌1998年第2次橋本改造内閣において、大蔵省金融検査官による汚職事件(大蔵省接待汚職事件)で監督責任を取り辞任した大蔵大臣三塚博の後任に起用された。三塚の後任の大蔵大臣候補には梶山静六森喜朗亀井静香ら派閥領袖や党の実力者たちの名前が挙がっていたが、不良債権問題をはじめ当時の大蔵省には難題が山積しており、また相次ぐ汚職への対処も期待され、検察官出身の松永に白羽の矢が立てられた。同年7月の第18回参議院議員通常選挙の敗北に伴い、橋本龍太郎首相は退陣し、松永も大蔵大臣を退任した。1999年11月、勲一等旭日大綬章受章[3]

2000年第42回衆議院議員総選挙では埼玉1区で民主党公認の武正公一に敗れ、落選。2003年第43回衆議院議員総選挙では、新設された埼玉15区から立候補するも、民主党公認の高山智司に敗れ、政界を引退した。

政界引退後は選挙にこそ立候補していないものの、候補者の応援は行っており、2001年には、さいたま市長選挙で旧大宮市長の新藤享弘を支援した(新藤は旧浦和市長の相川宗一に敗れ、落選)。松永は一貫して「反・相川」の姿勢を貫いており、2005年のさいたま市長選では中森福代を支援したが、中森は現職の相川に敗れた。2009年のさいたま市長選でも、衆議院議員を辞職して立候補した中森を支援し、中森は落選したものの、現職の相川も清水勇人に敗れ、落選した。また、自身のかつての選出選挙区である埼玉1区では、後継候補の金子善次郎保守新党→自民党)を支援していた。

代議士時代を含め、政界引退後も弁護士の業務は継続して行っている。2012年には、東京都知事石原慎太郎による尖閣諸島購入計画に際し、埼玉県内に居住する尖閣諸島の地権者の代理人を務めた。

2022年10月11日9時35分、老衰のため、さいたま市の自宅で死去[4]。93歳没。死没日付をもって正三位に叙された[5]。旧中央省庁の国務大臣で、松永は「大蔵大臣」を経験した最後の存命者となっていた。

人物

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趣味は少林寺拳法[1]

家族・親族

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選挙歴

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当落 選挙 執行日 年齢 選挙区 政党 得票数 得票率 定数 得票順位
/候補者数
政党内比例順位
/政党当選者数
第31回衆議院議員総選挙 1967年01月29日 38 旧埼玉1区 無所属 6万2140票 10.81% 4 5/8 /
第32回衆議院議員総選挙 1969年12月27日 41 旧埼玉1区 無所属 8万9160票 15.35% 4 3/9 /
第33回衆議院議員総選挙 1972年12月10日 44 旧埼玉1区 自由民主党 13万3620票 17.87% 4 2/7 /
第34回衆議院議員総選挙 1976年12月05日 48 旧埼玉1区 自由民主党 14万7679票 33.65% 3 1/6 /
第35回衆議院議員総選挙 1979年10月07日 50 旧埼玉1区 自由民主党 10万2091票 25.04% 3 1/6 /
第36回衆議院議員総選挙 1980年06月22日 51 旧埼玉1区 自由民主党 12万6969票 25.28% 3 1/6 /
第37回衆議院議員総選挙 1983年12月18日 55 旧埼玉1区 自由民主党 10万5660票 22.00% 3 3/5 /
第38回衆議院議員総選挙 1986年07月06日 57 旧埼玉1区 自由民主党 14万8886票 28.89% 3 1/7 /
第39回衆議院議員総選挙 1990年02月18日 61 旧埼玉1区 自由民主党 13万6422票 22.48% 3 2/9 /
第40回衆議院議員総選挙 1993年07月18日 64 旧埼玉1区 自由民主党 9万3987票 15.75% 4 3/8 /
第41回衆議院議員総選挙 1996年10月20日 67 埼玉1区 自由民主党 8万5109票 38.96% 1 1/4 /
第42回衆議院議員総選挙 2000年06月25日 71 埼玉1区 自由民主党 8万7358票 35.22% 1 2/4 /
第43回衆議院議員総選挙 2003年11月09日 74 埼玉15区 自由民主党 5万8522票 33.56% 1 2/5 /

脚注

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  1. ^ a b c 『政治家人名事典』494頁。
  2. ^ 美しい日本の憲法をつくる埼玉県民の会、改憲へ署名活動を展開”. 産経新聞 (2018年5月4日). 2024年1月26日閲覧。
  3. ^ 「99年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人、在日外国人の受章者一覧」『読売新聞』1999年11月3日朝刊
  4. ^ 松永光氏死去 大蔵相や通産相など歴任 93歳”. NHKニュース (2022年10月12日). 2022年10月12日閲覧。
  5. ^ 『官報』第855号7頁 令和4年11月10日
  6. ^ a b c 『東京弁護士名家録 第1巻』78-80頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年9月14日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 佐藤幸平『東京弁護士名家録 第1巻』日本法曹要覧発行所、1925年。
  • 『政治家人名事典』日外アソシエーツ、1990年。

関連項目

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外部リンク

[編集]
議会
先代
深谷隆司
日本の旗 衆議院予算委員長
1997年 - 1998年
次代
越智通雄
先代
村田敬次郎
日本の旗 衆議院建設委員長
1982年 - 1983年
次代
浜田幸一
先代
石井一
日本の旗 衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員長 次代
関谷勝嗣
公職
先代
橋本龍太郎
日本の旗 大蔵大臣
第104代:1998年
次代
宮澤喜一
先代
梶山静六
日本の旗 通商産業大臣
第50代:1989年 - 1990年
次代
武藤嘉文
先代
森喜朗
日本の旗 文部大臣
第106代:1984年 - 1985年
次代
海部俊樹
その他の役職
先代
塩川正十郎
日本の旗 日本武道館会長
第8代:2007年 - 2017年
次代
高村正彦