黙想と祈りの夕べ通信(492)復刻版を掲載します。2009年2月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(492[-21]2009・2・22発行)復刻版
今日の聖書朗読箇所の一つ詩編18編の中に「主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救い
の神をあがめよ。」(47節)とあります。ここに「命の神」という言葉が出ています。神は命であ
るということは、いつの頃からか強く思わされるようになりました。特に解放の神学者グティエレ
スが『いのちの神』という本が翻訳で出て、それを読んで、ますます強く命の神について思いを深
めることができました。甦りの信仰にも、死を命に変えるというモチーフがあります。ここにも死
ではなく命がテーマです。そういうことからすると、神に連なるということは命に連なることだと
言えるのではないでしょうか。そして私たち人間の営みを振り返って見ますと、私たちの全ての営
みは、それが命に結びついているものか、死に結びついているものか、どちらかではないかと思う
のです。もちろん私たちのしていることがすべて命に結びついていると言えればいいのですが、残
念ながら、現実はそうではなく、死に結びついている言行に私たちが陥っている場合もあり得ます。
私が関わっています寿地区活動委員会では毎年ポスターを作って献金を募ります。そのポスターの
キャッチフレーズは、ここ数年「命の灯消さないで」です。数年前に発行しました20周年誌の表題
にもこの言葉を使いました。日雇労働者や野宿者の中にはこの社会の中で、命の灯が消されそうに
なる方も多くいます。そういう方々の「命の灯消さないで」と訴えているのです。私は自分の生き
方が自分や人を死に追いやるもではなく、命の再生産に繋がるものでありたいと常々願っている者
です。
上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。沖縄に行って来た。辺野古と高江
の反基地運動に国会前の座り込みで得たカンパを届けてきた。今回の沖縄行きのもう一つの目的は、
昨年高座渋谷教会の牧師を辞任し、沖縄の教会に赴任したK・R牧師を訪ね、その教会の礼拝に出席
することでした。15日の礼拝に出席した。彼女は高座渋谷にいた時には国会前にも座り込みに来て
いた。しかし、現在教会では一切基地の話はできないだけでなく、タブー視されていると言う。し
かしウイークデイには個人として辺野古に時々行っているという。まだ1年たたないが本人はタフで、
町内のラジオ体操やお掃除にも顔を出して、近所の方々と親しくなろうといている。また、比較的
経験を積み重ねた年齢になっているので、教区の若い牧師の相談を受ける役割も有るという。その
教会の会堂は200人以上入る、紅葉坂教会より大きい。しかし礼拝出席者は50~60人くらいで、パラ
パラな感じである。その日の礼拝には、東北教区の方々、全国市民憲法9条の会が沖縄であり、8名
ほどのゲストがいた。一人一人紹介されたが、何となく遠巻きに見られているような感じだった。
それは何か? 沖縄は戦後日本から切り離され、沖縄の教会はアメリカの援助の下に建てられてお
り、基地を真正面から反対はできない。礼拝の讃美歌も第一編、・交読も讃美歌の後のもの。過去
に戻った感が有った。教団と合同した教会は皆同じではないかというイメージを勝手に私が持って
いたことを知らされた思いである。沖縄の歴史やその人たちの歴史を思い、違和感として感じるも
のは何なのかを色々黙想の時に考えた。礼拝に出る事で観光とは違った沖縄の空気に肌で触れ、考
えさせられ、宿題をもらった感じである。
「近さと距離のバランス」 2月22日
人と人との間の親しさは、近しさも大切ですが、また距離を保つことも必要です。それは、ダン
スと似ています。時には互いにちかづき、互いに触れ、抱き合いますが、時には離れて双方が自由
に動ける間をとれるようにします。
すぐそばにいることと、距離を保つこととのバランスをとるのはやさしいことではありません。
とりわけ、パートナーのニーズがある瞬間に非常に異なる場合には、一方が近づきたいと思った時
に、他方は距離をとる必要を感じます。一方が抱き締められることを望んでも、他方は独りで動く
ことを求めます。完璧にバランスをとることなど、なかなかあり得ません。けれども互いに正直で
あり心を開いてバランスをとろうとするなら、見るに価する美しいダンスを生み出すことが出来る
でしょう。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)