1月12(日)降誕節第3主日礼拝
注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。
(各自黙祷)
② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 (ヨハネ3:16)
③ 讃 美 歌 475(あめなるよろこび)
https://www.youtube.com/watch?v=8NhNj2kgiVc
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編2編1-12節(讃美歌交読文5頁)
⑥ 聖 書 ヨハネによる福音書19章31-42節(新約208頁)
⓻ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 529(主よ、わが身を)
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-529.htm
⑨ 説 教 「イエスの葬り 北村慈郎牧師
前回ヨハネ福音書のイエスの十字架死にいての記述から(19章23-30節)、私たちへの語りかけを聞きました。そのイエスの十字架の下にいたのは、弟子達ではなく、数名の女たちでありました。弟子たちはイエスの十字架を前にイエスを棄てて逃げてしまいました。
ユダヤの権力者である大祭司たちやローマ帝国の総督ピラトによって十字架につけられたイエスのそばにいて、イエスの死を見つめ、その場に留まっていることは恐ろしいことです。弟子たちはそれに耐えることが出来ませんでした。
しかし、数名の女たちは、十字架の下に立って、イエスの最期を見届けました。この逃げてしまった弟子たちと十字架の下に留まっていた女たちの対照的な姿について、森野善右衛門さんは「いざという時の強者と弱者の逆転を示しているようで興味深いことです」と言っています。
イエスを信じる(イエスを信じて歩みを起こす)ということは、イエスのいるところに共にいるということではないかと思いますが、その意味では弟子たちより、女たちの方の信仰が強かったと言えるかもしれません。
さてヨハネ福音書では、イエスの十字架上での死に続いて、今日の箇所ですが、「イエスの死体の取り下ろし」(19:32-37)と「埋葬」(同38-42節)について記されています。前者のイエスの死体の取り下ろしの記事は、ヨハネ福音書独自のもので、共観福音書にはありません。後者の埋葬の記事はヨハネ福音書だけでなく、共観福音書にもあります。
イエスが処刑されたのは金曜日のことであり、夕暮れが来れば安息日が始まり、しかもその安息日は、過越祭の第一日という「大事な日」でありましたので、ユダヤ人たちは、何とかして金曜日の夕暮れまでにすべてのことを終えたいと思ったのでしょう。<ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た>(31節、新共同訳)と言うのです。「足を折る」のは死が早まるからです。
<そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足はおらなかった>(32,33節、新共同訳)と言われていて、イエスの足を折ることは中止されます。何とも残酷な仕打ちです。
しかし兵卒の一人が、さらにそれを(イエスの死を)確認するために、槍でイエスの脇腹を突きさすと、血と水が流れます(34節)。
このことが真実であるということについては、目撃証人がいると、ヨハネ福音書記者は、35節で、強調しています。その目撃者が誰であるかは35節では明示されていませんが、それが「イエスの愛弟子」であることはヨハネ福音書の研究者のほぼ一致した見解であります。
「血と水」の流出に注意を引き付けることによって、ヨハネ福音書記者は先ず第一に何よりもイエスの死が現実であることを確認しようとしているのであります。ヨハネ福音書ではイエスは「言(神)が肉(人間)となった」(1:14)方であり、この瞬間に、血と水がイエスの死体から流失することによって、言(神)の肉体(人間)性が最も鮮烈に表現されているのだと思います。
また、ヨハネ福音書記者が血と水の流出を記したのは、そこに象徴的な意味を込めているものと思われます。イエスはヨハネ福音書において「生ける水」の源(4:10,12-14,7:37-38)ですから、この血と水の流出によって、生命がイエスの死から流れ出ていることを示そうとしたのです。
この34節を聖餐(「血」)と洗礼(「水」)のサクラメントの根拠を象徴するものとして読む人もいますが、ヨハネ福音書記者の強調点はサクラメントそれ自体よりも生命の源としてのイエスの死に置かれているように思われます(オデイ)。
そしてさらに、<これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある>という説明が加えられています((36,37節、新共同訳)。
イエスの死をこの聖書の成就と解することによって、ヨハネ福音書記者は、イエスによる神の勝利に関心を集中し、そのことによってイエスの死においてすら神の主権を、死んだイエスと神が一体であることを強調しているのであります。死においてさえ、人がその槍で刺された方を見つめる時、人は神の独り子としてのイエスをそこに見るのだということです。
さて、アリマタヤのヨセフという人物が、ピラトに願い出て許可を得、イエスの死体を十字架から取り下ろしに行きます(38節)。
ヨセフは、アリマタヤの金持ちで、イエスの隠れた弟子(マタイ27:57)であり、神の国を待ち望んでいた地位の高いサンヒドリンの議員(マルコ15:4)でした。ユダヤ人をはばかって密かにイエスの弟子となった人物です。
38節に<イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ>と言われています。そのヨセフがニコデモと共に、ピラトに願い出て許可を得て、イエスの死体を十字架から取り下ろし、埋葬します。
「弟子たちが全て逃げ去った後、ユダヤ人をはばかって密かにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフや密かに夜イエスの下に行ったニコデモが、公然とイエスの死体の引き渡しを、危険を覚悟で願い出、非難を覚悟の上でイエスを埋葬したところに、イエスの真実に触発された人間の真実の麗しさがある」(菅隆志)と言えるでしょう。
38-42節をもう一度読んでみたいと思います。<ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた>。
イエスの埋葬は、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って行われました。イエスの死体は墓の中に横たえられ、ここにイエスの地上の生涯についての記述は終ります。
十字架の死→取り下ろし→葬り→墓の中に横たえられたイエス、埋葬ですべては終わったのです。このイエスは神にさばかれ、見捨てられた者の死の姿そのものです。そこには「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿も」(イザヤ53:2)ありません。三日目に復活するまでの墓の中のイエスの三日間は、神不在の時間ではないか、ということがここで問われます。
何でもできないことのない全能の神が、今、ここでは、イエスと共に苦しみを担い、十字架につけられ、死の墓へと赴き給うのです。神は十字架につけられた神であり、苦難と弱さと無力における神であります。しかしこのように、イエスと共に死んで葬られ、この世の最低点にまで下られた神こそ、私たちを救う神なのです。
なぜなら、聖書においては、神の力はその強さにおいてではなく、その弱さ、無力さにおいて示されているからです。「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリ12:9)。「無力の力」、ここに、有力と無力との考え方の根本的な転換が示されているのです。
ボンフェッファーは獄中から、次のような意味深い一節を書き送っていますーー「神はこの世においては無力で弱い。そして神はまさにそのようにしてのみ、私たちのもとにおり、また私たちを助けて下さるのである。キリストは彼の全能によってではなく、彼の弱さと彼の苦難によって私たちを助けて下さるということは、マタイ8:17――「これは、預言者イザヤによって『彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた』と言われた言葉が成就するためである」――に全く明らかである。この点にあらゆる他の宗教とキリスト教との違いがある。人間の宗教性は、人間が困った時にこの世における神の力を示す。しかしその神は、機械仕掛けの神である。聖書は人間に、神の無力と苦難を示す。苦しみたもう神だけが、私たちを助けることができるのである」(『抵抗と信従』邦訳253頁)。
このボンフェッファーの獄中書簡の言葉は、信仰の本質にふれているように思います。この世の富、武力、権力、地位、特権などと結びついて示されている神は、聖書の神ではありあません。「神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24)と聖書に言われているように、神と武力、神と権力、神と特権とに兼ね仕えることはできないのです。初代キリスト者は、十字架につけられたイエスを神と信じたがゆえに、ローマ皇帝を神として拝することを拒否したのです。そしてそのようなキリスト者は、ローマ帝国の側から見ると、ローマの神々を信じない「無神論者」として見られたということは、もっともなことでした(森野善右衛門)。
パウロはこのように述べています。<十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(1:18)と語り、<ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わししたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人よりも強いからです>(同1:22-25)。
またパウロは、「わたしは福音を恥としない」(ローマ1:16)と言っていますが、「福音を恥としない」とは、十字架を恥としないことであり、それは「十字架につけあれた神」「無力な神」を恥としないということです。キリストの十字架の奥義は、そこにおいて神からも人からも棄てられたイエスが、全くの無力に徹することによって、この世の見棄てられた者、神無き者、苦しめられ、虐げられている者にとっての力となり、慰めと救いとなりたもうということです。力と富とにおける神ではなく、無力と苦難と貧しさにおける神、十字架につけられた神についてこそ、私たちを救う神の知恵と力とが証しされていると言うのです。
今もイエスは、貧しく、いと小さいひとりである隣人の姿において私たちに出会われるのではないでしょうか(マタイ25:40)。教会は、その外観の壮麗さや人数の多いことによって教会であるのではなく、たとえ二、三人であっても、イエスの名によって集い、イエスの名によって共に祈り、聖書からの語りかけを聞いて共に生きていくところに、イエスも共にいてくださり、そこに教会が存在するのであります(マタイ18:20)。すなわち、十字架の下に立ち、十字架を恥としないところに、イエスを信じる群れである教会が立てられるのです。
私たちの教会は、まことに小さく、弱く、取るに足りない群れでありますが、数が多くなり、この世的に有力な教会となることよりもむしろ、地の塩・世の光として、十字架を恥とせず、真実にイエスに信従する教会となることを目ざして歩み続けたいと思います。
主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように!
(この説教の後半は、ほぼ森野善右衛門さんのヨハネ福音書講解説教によっています。)
祈ります。
神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを、心から感謝します。
神さま、今日はイエスの十字架とその死から、無力さの中にある真の命について改めて教えらえました。私たちはこの世の生活の中で力を求めていく自分がいることを思わされます。そして無力な神ではなく、全能の神を求めている者であります。
神さま、どうかイエスの十字架を通した私たち人間の救いを見失うことなく、弱さの中にある真の力を私たちに与えてください。
ロシアによる軍事侵攻やイスラエルによる軍事攻撃が続き、戦争によって命を失い、生活基盤を失う人々が今も起きています。どうか速やかに戦争が停止しますように。私たちを、平和を造り出す者にしてください。
神さま、どうか今戦争や貧困・差別、また自然災害によって苦しむ人々を支え、助けて下さい。国や人々の支援が苦しむ人々にいきわたりますように。
他者のために働く人々を力づけ励ましてください。
今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン。
⑩ 讃 美 歌 449(千歳の岩よ)
https://www.youtube.com/watch?v=xj_skK7rias
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。