梅原猛/吉本隆明『対話 日本の原像』(中公文庫 1994年)
引き続き梅原猛を読みます。今回は、吉本隆明との対談。梅原は、吉本隆明を日本で数少ない独立自存の思想家として尊敬してきたと言い、一方で、吉本の書いたものは難しくて分からない部分があると正直に吐露しています。その際、ソクラテスがヘラクレイトスを語った言葉を引用して、「分かった部分が素晴らしいところをみると、分からないところもたぶん素晴らしいのだろう」と書いていました。謙虚でいい言葉です。対談では、梅原が一方的に喋っているような印象を受けました。
前回読んだ『日本人の「あの世」観』と同様、梅原の思想の中心に縄文的世界への憧れがあるのは確かで、その逆の作用として国家や近代世界への不信があると思います。例えば、「国家のできるのが遅かったからよかった・・・巨大国家が造られたときは富の集中があって、階級社会ができて、うんと金持ちと貧乏人の差ができる。そういうところから生ずる人間の心の歪みが大変きつい」(p35)や、「人類文明を、農耕牧畜以前の地点まで掘り下げ、そこに何らかの思想的誤謬が含まれているのではないか、そして、以後の人類はそういう思想的誤謬を徐々に拡大してゆき、そして、確実に一歩一歩滅びの道へ進んでいるのではないか、そういう反省が必要であるように思います」(p64)という言葉に現われています。
宗教観にしても、そういう近代世界への懐疑が前提になっているようです。
①国家ができるとともに、国家を統一するような大宗教ができ、社会の貧富や境遇の差を反映した教義がつくられた。キリスト教や仏教はそうした厳しい階級社会から生まれてきたもので、地獄極楽という考えも、この世はどうにもならない悪の里だという前提に立っている。
②神の姿がもっぱら人間の姿で表わされるようになった時、一つの大きな思想的革命が起こったのではないか。自然のなかで動植物と共存して生きていた人間が、自己の特権的地位を明らかに主張し始めたことを意味するのでは。そして本来、古代の人間が信仰していた永久に続く魂の回帰運動を、最後の審判がある一回きりの終末をもつ動きに変えてしまった。歴史は最後の審判に向かう直線として把握され、それが近代人の基本的な世界観を形成している進歩思想の世界観となった。
一方、そうした近代世界が行き詰っているという考え方に惹かれながらも、アイヌの信仰に見られるような、後の世に、熊になったり貝になったりして戻ってくるという霊の往還については、合理的にはどうしても信じがたいことで、知性を破棄してしまえば終りだという思いがあると、ジレンマを正直に白状しています。
縄文文化については、アイヌ民族の文化にその残像があるとし、それを手掛かりにして、日本文化の本質が解明できるのではとしていますが、昨年に見たNHKの番組で、日本人のDNAで、縄文時代の日本人と一致するのは2割ぐらいしか居ないと言っていましたから、アイヌや沖縄の人たちの文化を日本文化の本質と決めつけるのも正しいかどうか分からなくなっているようです。
この本で、もっとも衝撃を受けたのは、吉本隆明が引用している樋口清之「日本古典の信憑性―神武天皇記と考古学」の内容で、次のようなものです。大和盆地の真ん中にむかし湖があったというのは知っておりましたが。
①大和平野は、今から約1万年余り前、山城平野に口を開いている海湾であった。紀伊半島の地盤隆起が起こり、大和湾中に孤立した海水は、先ず北に向かって排出され、その時に押し流された土砂が堆積し現在の奈良山丘陵をつくった。次に西のほうを切って大阪湾に排出し始め、この時に運ばれて堆積したものが二上山の麓を埋めている砂礫層である。さらにここが詰まると、北側に水路を移す。これが現在の大和川である。
②このことは、考古学においても、大和平野の標高45メートル以下には、奈良朝以前の住居趾及び遺物が発見されていないことで証明されているし、神武天皇記に出てくる大和の地名を拾って調べてみると、全部標高70メートル線以上にあることからも、立証できる。
その他、細かな蘊蓄として、次のようなことを知ることができました。
①アイヌ語では顔のことを「エ」「ヘ」と言い、お尻のところを「オ」「ホ」と言う。古代日本語でも上と下の対立を「エ」と「オト」で表現する。この「ヘ」「オ」が言葉の後について、「何々ヘ」「何々ヲ」となる。「東京を発って京都へ行く」は、東京に尻を向けて京都へ顔を向けるという意味となる。ここに助詞の成立過程を見ることができる。
②中国や韓国は父系社会で、氏を大事にし氏で固まっているが、日本はそうでなく、氏や血よりも住んでいる土地のほうが大事だから、苗字はほとんど地名から来ている。それで苗字の数が、中国や韓国に比べ、極端に多いのである。
③初期王権では、彦(日子)という男称は前置されているが、王権と婚姻関係にある豪族においては、彦(毘古)が後称されている。さらに単なる豪族では、彦名は称されていない。系統を区分しようとする神話記述者の意図を見ることができる。