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吉武好孝『翻訳事始』


吉武好孝『翻訳事始』(早川書房 1995年)


 前回読んだ『明治・大正の翻訳史』(初版は1959年)と同じ著者の本。ハヤカワ・ライブラリで1967年に出た初版の再版です。同じ時代の同じ現象を扱っている訳ですから、当然同じ記述がありますが、異なった角度から記述しようという努力の形跡は見られます。新しい部分としては、冒頭に、洋学の東進や文明開化による明治の世相、社会の変化ついて詳述していること、誤訳について一章、専門用語の造語についても一章を割いていること。

 幕末から明治初め、海外の知識を吸収しようという意欲がすさまじく、また命がけであったことが伝わってきました。ペリー来航に刺激され、幕府が洋学を奨励する政策に舵を切り、外国文書の翻訳を専門にする機関「洋学所」を創ったこと。そうした幕府の政策に対する反動として攘夷運動が起こり、洋学者の手塚律蔵と東条礼蔵が長州人に襲撃されたり、また翻訳をめぐっても、原抱一庵という翻訳者が誤訳を指摘されて自殺を遂げたというほど、真剣なものだったようです。

 もともと、医学や薬学、数学、天文学、化学、砲術学のような実用的な学問は、早くからオランダ語を通じて知識が日本に入ってきていたが、世界の趨勢がオランダからイギリスに移っていることが分かってきて、幕末の洋学者たちは、苦心惨憺してどうにか読めるようになったオランダ語を棄てて、また新しい英語の勉強を一からやり直さねばならなかったらしい。苦労がしのばれます。

 そんなわけで、明治の最初の20年ぐらいはかなり混乱した模様です。翻訳の世界でも、それまで漢文の修辞法しか知らず、常套的で硬い表現しかできない貧弱な語彙のなかで、新しい外国語が描き出す近代的な人間の生活や思想に適した訳語を見つけだすのは大変な作業であったようです。それに翻訳者たちも、漢文修辞学の文章法の達人ということでもなかったので、結局は国文の法則や文体をめちゃめちゃにかき乱してしまったと指摘しています。

 明治20年頃に大きな節目が訪れていたことがよく分かりました。堅苦しい漢文直訳ばりの文体の衣を脱ぎ捨て言文一致の口語体に変わっていったのがこの頃で、山田美妙の言文一致の小説や、マコーレー『クライヴ伝直訳』口語訳、坪内逍遥の『小説神髄』の出たのも明治20年頃。細かいところでは、例えば、暦の月を表わすのに、それまで「第一月(だいいちげつ)」「第二月(だいにがつ)」と書いていたのが、現在も使われているように、「一月」「二月」と、「第」が取れて「がつ」に統一されたのが、明治20年以後ということです。

 『明治・大正の翻訳史』でも触れられていましたが、この本でも、豪傑翻訳について一章を割いています。豪傑翻訳というのは、乏しい語学力で適当に解釈し、想像をまじえて勝手気ままに、文法や文脈を気にしない大まかな訳し方をして、読者の興味を煽り立てることをめざした訳と説明していますが、耳の痛い話です。豪傑という言葉が面白い。具体例を引いて、自分の訳した正しい文と比較していますが、私から見ると、正しい文の方は味もそっけもなく、豪傑訳の方がリズムのある魅力的な文章で、捨てたものではないと思いました。一世を風靡した黒岩涙香への言及がないのもおかしい。

 著者は、外国文化崇拝の進歩主義者のようで、「国粋主義思想にかたまったコチコチ頭の人間ばかりの世の中になったら、思想も文化も決して進歩することがなくなる」(p227)とか、「われわれが人種の改良を望むなら、異種族との結婚によって健康で新鮮な血液を注ぎ入れねばならないように、思想や文化もまた、たえず外に向かって窓を開き、異質文化の血液を流入させねばならない」(p228)とか書いています。別の角度から見ると、著者の方が能天気なコチコチ頭のように見えてきます。また「『官尊民卑』が三等郵便局の窓口にさえはばをきかせている」(p225)ともありましたが、何となく高圧的で差別的な方のようです。