久野昭編『日本人の他界観』(国際日本文化研究センター 1994年)
国際日本文化研究センターでの連続研究会の成果をまとめた本。1988年11月を皮切りに、1993年9月まで、50回にわたる長大な研究会で、おそらく国際日本文化研究センターの当時の所長であった梅原猛の肝いりで始まったもの思われますが、梅原猛の影は一つも見当たりませんでした。というより、編者の久野昭による「序」では、「層を表面から削っていって最後に到達した層のみを日本人の伝統的な思想の層とみるたぐいの発想は、日本の文化的な、とりわけ思想的な伝統に対する認識不足も甚だしい」(p3)と、暗に梅原を批判しているような口ぶりも感じられました。
9名の報告者による論文が寄せられていて、テーマも、仏教、道元、日本のキリスト教、絵画、西洋哲学、日本思想、フィールドワークと多様ですが、我田引水の我田の部分が多くて、肝心の他界の考察が薄くなっている論考が多い。とくに「道元における生死と業の問題」、「繪畫に映った日本人の他界観」、「日本における他界観に関わる考え方をめぐって」の3篇。バランスが取れていると思われたのは、最後の2篇「他界地理学事始」と「他界のちかさ」でしょうか。
哲学系の執筆者が多く、難解な部分もたくさんあって、誤解があるかもしれませんが、他界に関して、各論者を通じて、いくつか共通の考え方が現われているように思えました。
①ひとつは、他界をなぜ必要としたかということについて:「他界を考える」の氣多雅子は、他界を生み出すもとは死の不安で、死後も何らかの仕方で存続し得るのかという不死性の追求から「霊魂」なるものを想定したわけで、他界とは死後の霊魂の在り場所ということになると言い、また「日本における他界観に関わる考え方をめぐって」の野崎守英も、存在の気配をまったく失うことになるのは腑に落ちないと人びとが思って、魂という領分を想定したとしている。
②つまり、他界が生まれる土壌として:そうした切実な不安があるわけで、「キリスト教他界観とその日本における意義」の青山玄が言うように、深刻な不安と苦しみの中で生活していない者には、他界に対する信仰や夢が現実味を帯びて理解できないものであると言い、また野崎守英も、幻想というものは近くより遠くに向かう特質があり、江戸期以降は目の前の現世に関心が移ったので、他界は実在しないという通念が広がり始めたと書いている。→前回読んだ小松和彦『異界と日本人』の中でも江戸時代になって異界が薄れてきたと、同様の指摘があった。
③そうした不安や苦しみが生まれる背景として:氣多雅子は、子の誕生や、死にゆく者の看取り、埋葬などの体験を通じて、生々しい手触りが個人の中に蓄積されていくことを挙げ、他界の表象はそうした身体的な蓄積を反映したものと考察、また野崎守英は、古人は近親や知己の死に直面することしかなかったので、死に対する荘厳な気持ちが強かったが、現代のわれわれは、情報の普及のせいで、まったく関係のない他者の死に触れることが多くなり、それが希薄になったと指摘していた。
④他界の哲学的考察としては:氣多雅子が、いくつかの論点を提示していた。
ア)「世界」という観念は、存在者から切り離してそれ自体で存在するものとしては問題にされ得ないこと、
イ)世界の絶対的限界というものは経験的に不可能であり、「他界」という観念は成立し得ないこと、
ウ)「不死」は超時間性をもつ言葉だが、「死後」という規定は明白に時間的な表現であり、「死後の世界」という表現は、感性界の領分にあること、
エ)身体と対立する形で霊魂という概念を設定するには、霊魂がある種の客観的実在性をもつことが必要になるが、それには疑念があること。
また「繪畫に映った日本人の他界観」の新田博衞は、目に映るのは物体のこちら側だけで向こう側は見えないが、物を見る場合、つねにその向こう側も含んで成立しており、向こう側を見る目を「心眼」と名づけるとすると、触覚の延長線上にある「肉眼」と異なり、心眼はきわめて言葉に近い、他界は、向こう側として心眼に映るものであり絵画として描き出され得ると述べている。
⑥他界というイメージのあり方については:やはり氣多雅子が、他界のイメージは、われわれの知覚する空間を延長したものになり、比喩的、暗喩的、象徴的な仕方で構想されるが、最終的には、霊魂は如何なる場所性ももたないという主張と対決することになると書き、野崎守英も、心の領分で支配的なのはイメージで、そうしたイメージの領分は意外に深く人の心性を動かしているとし、この領分を、事実の事実性という観点に立って虚偽と定義してしまうと、人間のあり方自体を否定することになってしまうと指摘、「他界のちかさ」の古東哲明も、他界観とは、その成り立ちのはじめから、根本幻想であり、死や死後というゼロでしかない位相を、表象化・イメージ化・概念化することを当然の前提として成り立つものとしている。
上記に関連して、他界の具体像に関しては、野崎守英も古東哲明も、他界の内実が極めて具体性に乏しく貧弱であることを指摘している。
その他、個別の議論として印象に残ったのは、
①当初、ユダヤ教において他界観は単に此岸の連続として意識されていたが、人間の正義感や正義に対する願望が高まるにつれ、生前の行ないによって死後罰せられるという信仰が現われるようになった。しかし、この善い行いをするように励ましてくれるはずの他界観が、罰を与えるという点で恐れられる存在になってしまい、その不安に耐えられない親鸞やルターが現われて、自力から他力、願力、万物救済の来世観へと変化していったのである(カール・ベッカー「仏教における他界観」)。
②日本にキリスト教が導入されたときのキリシタンの反応が興味深い。フランシスコ・ザビエルが語った地球が円いこと、太陽をめぐる惑星の軌道、月の満ち欠け、日蝕などの天体現象の話に、驚くほど強い好奇心を示したこと。またザビエルが「地獄に落ちた人には救いがない」と言うと、みんな泣きながら、「神はなぜ地獄にいる人を救うことができないのか」「なぜ地獄にいつまでもいなければならないのか」などと質問したという(青山玄「キリスト教他界観とその日本における意義」)。
③縄文後期の集落の構造は、中心に死者の領域があり、その死者の領域を取り囲むかたちで生者の領域が広がっていたが、弥生時代になると、方形周溝墓が集落の外側に造営され、生者の生活空間とは切り離されるようになった。しかし死者の占める空間のほうが、生者の占める空間よりもずっと広かった(正木晃「他界地理学事始―日本古代の霊的航海者のための里程案内」)。
④本来の仏教は輪廻転生を主張し、霊魂のような永続的な実体を認めていない。インド伝来の仏教をそのまま残すチベットの浄土思想では、浄土はあくまで一時的に住するところと位置づけられている。一方、日本では、古来、霊魂が死後も存続するという観念があり、源信は、浄土思想を日本に導入するに際して、極楽浄土を輪廻転生を解脱した末の究極の場所として設定した(正木晃「他界地理学事始―日本古代の霊的航海者のための里程案内」)。