「立花宗茂」(たちばな・むねしげ 1569 ~ 1642)とは、高橋紹運と立花道雪と言う(良い意味で)チートな武将が作り出した日本史上屈指の「武勇」と「信義」をあわせもち、豊臣秀吉が本多忠勝と並べて
「その忠義鎮西一、その剛勇また鎮西一」
と評した程の「清廉」且つ「律儀」で「信義」を重んじる武士の見本の様な存在である。しかも関ヶ原の戦いに敗れて改易された後に、旧領・柳川の大名へ復活を遂げた「奇跡は起こす!起こしてみせる!」と本当に起こしてしまった真・西国無双。
名将言行録においては、
- 人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。
- 功ありて誇らず。
- 人を用ふる、己に由る。
- 善に従ふ。流るるが如し。
- 奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。
- 故に士、皆之が用たるを楽しめり。
- 其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり。
と、ベタ褒めされているのが当然だと思える程(良い意味で)チートな完璧超人。
なお、「吉弘統増(烈風伝での誤記ネタ)」「吉弘統虎」「高橋統虎」「立花統虎」の他、10回ほど名を変えており、「立花宗茂」は最晩年の名である。
概要
筑前国岩屋城主・高橋紹運の子に生まれ、男子の無かった雷神・立花道雪の娘・立花誾千代(立花ギン千代)を妻に迎える事で養子になった。つまり「剛勇」と「忠義」の両面で武士の理想を背中で語る(良い意味で)チートな父親達を見て育ったことになる。
耳川の戦いに敗れて主家である大友氏が衰退する中で、養父・立花道雪が陣没し、実父・高橋紹運もまた763の死兵を率いて島津軍に対抗し、豊臣秀吉の九州征伐軍到着までの時間稼ぎに奮闘して玉砕する等の悲劇が続く。その中で宗茂は実父の意思を汲んで島津軍に対抗し、豊臣秀吉の九州征伐軍到着まで戦線を持ちこたえさせた。その奮闘ぶりを評価されて豊臣秀吉より感状を与えられるとともに、大友氏の家臣から筑後柳川13万石の豊臣秀吉直臣にとりたてられた。
文禄の役/慶長の役では、朝鮮へと出兵し、寡兵を率いて大軍を打ち破る等の大戦果を挙げた。しかしこのときは鬼島津こと島津義弘がさらに上を行く戦果を挙げた為に、いまいち目立てていない。
関ヶ原の戦いでは、厚遇してくれた豊臣秀吉への恩義から西軍として参加し、大津城を攻め落とす等活躍した。しかし関ヶ原の戦いの決戦の場に参加することなく西軍が敗れた為、前進撤退を敢行して脱出してきた島津義弘と共に九州へと落ち延びた。その後説得を受け入れて東軍に降伏し、柳川城を開城した後に改易処分となった。
はじめは加藤清正の客分として過ごした後、由布惟信ら付き従う家臣を引き連れた浪人の身で京都に昇る。自身の改易処分が解けるように尽力し、江戸にて蟄居生活を送る中で徳川秀忠の御伽衆に列せられて陸奥棚倉1万石に取り立てられ、大坂の陣で認められて柳川の大名に復活する。関ヶ原の戦いで西軍について改易されて旧領の領主に復帰したのは立花宗茂のみであり、まさに奇跡を起こした。
その後は、普段は江戸住まいを続けていたが、島原の乱が起きると柳川勢を率いて参加し、立花宗茂ここにありを周囲に見せつけ、江戸にて76歳の大往生を遂げた。
お坊ちゃまなところもあったが基本スペックは質実剛健で義理堅く、清廉潔白で裏表が無く、功を誇る事もなく人の恨みも買わないと言う完璧超人であり、多くの武将に武士の見本として厚遇された。
また、立花宗茂よりもコーエーに厚遇されることに定評のある正妻・立花誾千代(立花ギン千代)との仲は、立花誾千代(立花ギン千代)の「私は男だ」な性格等もあり上手くいかなかったが、柳川の大名に復帰した際は、早世した立花誾千代(立花ギン千代)を偲んでいる。
※その他「立花宗茂」の詳細についてはWikipeidiaの該当記事参照の事。
(良い意味で)チート伝説
(良い意味で)チートな立花宗茂の温厚篤実な人間性を物語るエピソードとして、彼本人が軍法について語った言葉が残っている。
特別に何流の軍法を使うわけではない。
常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。
したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。
その他によい方法はない。
このように、家臣を一兵卒まで大事にするを旨とすると語った。
世間的には「もっと評価されるべき」武将なはずなのだが認知度は高くない。理由としてはまず、戦国時代の後半から登場する事が挙げられる。また多大な功績を挙げても、その時だけ更に上の功績を挙げる輩(島津義弘とか島津義弘とか島津義弘とか)がいた。そして実父・高橋紹運や養父・立花道雪も個性的なエピソードと明確なアピールポイントを持ち、さらに嫁の立花誾千代(立花ギン千代)は、自分以上にコーエーに優遇されている。
しかし、そんな立花宗茂には「もうそれでいいよ」といいたくなるような(良い意味で)チート伝説にあふれている。
生まれた時からすでに(良い意味で)チート
立花宗茂は、実父が松永久秀に爪の垢を飲ませたい武将ランキングの西の1位たる高橋紹運であり、この武士の鑑の様な父のDNAを受け継いだ立花宗茂は、生まれつき頑健で、よく乳を飲む子であったといわれている。「俺を育てろ」と言ったとか言わなかったとか
まだ一桁の年齢の段階ですでに聡明で弁舌に勝る子供であったとされ、八歳の時に行った見世物の最中に、群集の中で争いが起きて死傷者がでてまわりが大騒ぎする中でも平然と供の者に
今日の見せ物はこれで終ったのか
と言ってのけた。早々に騒ぎの場が立ち去らんとしてこの場が危険であると進言する供の者に対しては、
お前たちが慌てるとはおかしなことだ。
我々は、あの論争の相手ではないのだから、どうしてこちらに切りかかって来るようなことがあろうか。
見せ物がまだ終ってないのに、どうして立ち去る必要があるのか
と笑顔で答え、実際に騒ぎはすぐに静まって見世物が再開したといわれている。なにこの「お持ち帰り」したくなるお子様ぶり。
また、父・高橋紹運が、重罪を犯した家臣を別の家臣に命じて斬らせた際に、すれ違いざまに後ろから一刀で斬り殺した事を「後ろから斬るのは簡単だし、卑怯者の所業だよね」と罵る者がいた。それに対し幼き立花宗茂は、
突然行き逢ったのであれば、前後を問わず、その場で討ち止めてこそ手柄だ。
敵を討つのに容易なところを避けて、討ちにくい方法で切りかかって、仕損じたら何とする。
お前たちのような者は、私が成長した後には、軍利の邪魔になるであろう。
と武士の正論を展開して黙らせたと言われている。立花宗茂10歳の時のことである。すいませんこの子お持ち帰りしたいんですが。
幼年にて器量抜群
ある時、まだまだ幼い立花宗茂に対して猛犬が襲いかかってきた。
すでに武士の基本スペックを備えていた立花宗茂は、恐れることなく刀を抜き、すれ違いざまに猛犬を強く叩いて退散させた。
後日、父・高橋紹運が話を聞き、猛犬を斬り殺さなかった理由を問いただしたところ、立花宗茂は、
刀というものは敵を切るものと承っております
と言い、己の子がまだ幼いのに武士の器量を兼ね備えている事に嬉し涙を流した高橋紹運は、
我が子ながら器量雄才ともに抜群だ。
しかし成長して後、自分の才能を誇るようなことをしてはならぬ
と釘をさすことも忘れなかったといわれている。まさにこの父あっての息子である。
雷神の養子へ
高橋紹運と共に大友家のツートップとして牽引する雷神・立花道雪には男子の後継者が無くて困っていた。
ある時、高橋紹運の息子が遊びに来た時、試しに罪人同士で斬りあいを行わせて、一人が斬りあいの後に死に、残った一人も手打ちにした際に、それを見ていた高橋紹運の息子の胸に手をいれてみたところ、動悸は一定で落ち着いていた。この事から勇将の資質を察した立花道雪は、無理を言って高橋紹運より息子を譲りうけた。
この息子は後の立花宗茂である。
雷神のむす・・・めの立花闇千代(立花ギン千代)を嫁に迎えて立花家に養子入りした立花宗茂は、立花道雪流の教育をうけ、
九歳のころ、父(立花道雪)と一緒に飯を食った折、鮎をむしって食ったところ、武士の作法を知らぬ。女のようなやり方では役に立たぬとひどく叱られた。
栗の毛毬が足にささったので、抜いてくれと言ったら、由布惟信が走り寄ってきて、抜くどころか、逆に押し込んでしまった。
あまりに痛かったが父(立花道雪)が見ていたので悲鳴を上げるわけにはいかなかった。
といったシゴキにも似た精神鍛錬の甲斐もあって、後の西国無双は形作られていった。
初陣で戦功
秋月種実との嘉麻・穂波の戦いで初陣を飾った立花宗茂は、嘉穂八木山の石坂で秋月勢を迎え討ち、150の兵を率いて戦って敵将の首をとる戦功を挙げ、戦闘全体においても初陣の武将とは思えない冷静沈着にして豪勇絶倫な指揮を見せた。
その後も参加した戦に全て勝利し、立花道雪の出陣後の留守を狙って攻めてきた秋月種実の軍8000を夜襲や火計で撃破した。この事から、立花道雪は、
天性の質を備えており、末は立派な武将となるであろう。
長生きしてその姿を見たいものだ。
すでに70歳を越えた身ながら大絶賛した。
実父譲りの義理堅さ
主家である大友家が耳川の戦いに破れて勢力を衰退させ、代わりに北上してきた九州最強軍団島津に対して、実父・高橋紹運は763の兵士と共に岩屋城に籠もり、島津からの降伏勧告を受け入れずに玉砕するまで戦って時間を稼いだ。
そしてついに立花宗茂の元へと島津の軍勢が迫ってきた。
先に立花宗茂の弟が守る宝満城を調略にて開城させた島津軍は、立花宗茂が籠もる立花山城にも、父・高橋紹運の様に死を選ばずに降伏する旨を勧告したのだが、立花宗茂は、
弔い合戦は望むところだ。
潔く討ち死にする覚悟なれば、早々にこの城を攻めるがよかろう。
弓矢鉄砲で会釈いたす。
と、実父譲りの信義を重んじる姿勢を見せて勇戦し、大友宗麟が豊臣秀吉の九州征伐軍を上陸させるまでの時間を稼ぐ事に成功し、結果、島津軍は撤退した。
西国無双
豊臣秀吉の九州征伐軍来襲により、島津軍は立花宗茂が籠もる立花山城の包囲を解いて撤退を始めた。
まだまだ20代前半と若い立花宗茂は、豊臣秀吉を迎え入れるよりも先に、撤退する島津軍を追撃して散々に打ち破り、島津方となっていた高鳥居城や、宝満城、そして生まれ育った岩屋城を三日あまりで奪還する電撃戦を展開し、筑前に展開していた島津軍は掃討された。
この武勇と戦功に対して、豊臣秀吉は、
東国にかくれなき本多平八(本多忠勝)に、西国無双の立花宗茂
と絶賛し、岩屋城で玉砕した父・高橋紹運の遺志を継いで持ちこたえた事から、
その忠義は鎮西一、またその剛勇も鎮西一
と豊臣秀吉から評価されて、大友義統の家臣から、豊臣秀吉の直臣にして筑後柳川の大名に取り立てられた。
父の面影
豊臣秀吉から
東西無双の者
と賞賛された立花宗茂が小田原征伐に参加した際に、立花宗茂の陣に東国無双・本多忠勝が訪ねてきた。
生涯参加した戦で一度もダメージを追わなかった事に定評のある本多忠勝の来訪を喜んだ立花宗茂は、
後学の為に、是非お話をお聞かせ願いたい。
そう・・・本多忠勝は・・・立花宗茂の実父で一身是義理なる高橋紹運と同い年だった。
徳川家康の忠臣・本多忠勝に、立花宗茂は父の面影を見たのかもしれない・・・
元主君に遠慮
大友義統の家臣から豊臣秀吉の直臣に取り立てられた立花宗茂は、その後、肥後に入った佐々成政が国人一揆に悩まされている際に補給戦の確保を目的に派遣されたのだが、この時の立花宗茂は、1日で、
と言う途方も無い活躍をして見せた事から、豊臣秀吉が従四位侍従に叙任しようとした。
しかし立花宗茂は、
ありがたき仰せなれど、主筋の大友義統が従五位であるからには、それを超えるのは筋ではございませぬ。
と言って功を誇らぬ誠実さを見せて叙任を断ったといわれている。
その後、しばらくしてから従四位に叙任された後、大正4年に従三位を贈られている。
生一本の勇士
立花家の三千は他家の一万に匹敵する。
との小早川隆景の判断から、立花宗茂の3000の兵が先陣となった。
碧蹄館の戦いでは、弟・立花直次と共に奮戦して小早川隆景の言葉が偽りで無い事を証明した。15万の敵軍に3千の兵で突撃して散々に打ち破ったり、夜襲や伏兵で蹴散らす等、武勇と智略を駆使して鬼神の如き活躍を繰り広げ、
生一本の勇士
と高い評価を受けた。
また朝鮮に出兵時に、黒田長政の家臣・井口兵助が立花宗茂の陣にやってきた。井口が言うには、伏兵によって敵を討ち果たした事から朱槍を得るに十分だとして、黒田長政に勇者の証である朱槍の許可を願いでたが許可されなかったので飛び出してきたとのこと。朱槍を許されるには首を七つ取ることが条件であり、この日井口が取った首は五つだった。これを聞いて、立花宗茂は、
他の武功があるからと強いて朱柄を欲しがるのは、かえって弱そうに聞こえる。
その方は今後絶対に首を七つ取ることはできないのか。
と武士の本質を知る者であれば発奮せざるを得ない言葉で諭して黒田の陣へと帰参させた。加えて黒田長政に対して井口兵助が首七つをとったら必ず朱槍を与えるように口添えした。その後、井口兵助は無事に首七つをとって朱槍を得たといわれている。
太閤の恩に報いる
柳川の大名にまで取り立ててくれた豊臣秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いが勃発すると、徳川家康からも東軍についてほしい旨の手紙をうけとっていた妻・立花闇千代(立花ギン千代)の
立花家安泰のためにそのような冒険をなさいますな
との諌めを、
どのようなことがあってもそなたに悪いようにはせぬ。
武士の妻なら夫を信じて待っておれ。
と言って、豊臣秀吉の恩義に報いる為に西軍として参加した。
このとき宗茂自身も徳川家康から「勝利の暁には50万石に加増」をネタに東軍についてほしい旨の手紙をうけとっていた。しかし、実父・高橋紹運と養父・立花道雪から叩き込まれた信義を重んじる心が、東軍について豊臣家に反抗するのを良しとしなかった。
真の勇者
関ヶ原の戦いでは、鉄砲の弾と火薬を一発分ずつに小分けした竹筒を使って3倍のスピードで速射する術を用いて大津城を攻め落とした。しかし落城と同日の関ヶ原の決戦に参加することが出来ずに敗戦を迎え、立花宗茂は軍勢をとりまとめて柳川へと帰国の道についた。
その時、折りしも関ヶ原の前進撤退により散々に討ち減らされていた島津義弘と一緒になった。
家臣の一人が、父・高橋紹運の仇をとるべきだと進言するが、立花宗茂は、
窮地に陥っている者の足をすくう等武士の所業ではない。
それに、共に西軍として戦った同志ではないか。
とお互いに大変な状況でつまらないことで争いを起こす必要性の無さを説いた。また島津義弘に対して、
昔の遺恨は、少しも心にかけていない。
九州までの道中は諸事心を合わせたい。
と協力して九州まで生きてかえろうと打診し、感服した島津義弘は篭城するなら加勢を送るとして共に九州まで道を急いだ。
帰国後、立花宗茂が柳川に帰国して黒田家の軍と戦っていると聞いた島津義弘は、約束通り援軍を差し向けたが、加藤清正の説得によりすでに立花宗茂は開城した後だった。
その後は、島津攻略の先鋒に使命されていたが、最強のお留守番・島津義久の手腕により島津攻めが中止されると、細川忠興や黒田長政らの取り成しもむなしく、改易処分となり柳川を出る事となった。
普段が公明正大で温厚篤実であった立花宗茂は、この様な危機の時に敵から援助を受けるほどであった。
領民に慕われる
西国無双とまで言われた立花宗茂だったが、柳川城へ篭城し続けることは柳川の領民によくないと判断して開城しようとした。柳川の領民達は開城の当日に、
領内の百姓は立花の殿の為なら命は惜しまない。
人数に不足は無く兵糧もある。
だから開城は思いとどまってほしい。
と切なる願いをもって開城を押しとどめようとした。しかし宗茂は、
気持ちはうれしいが皆を戦乱に巻き込みたくはない。
と言って領民達を諌めて柳川城を開城した。武功と嫁との話ばかりが目立つ立花宗茂だが、彼の温厚篤実に誠実な人柄は民政にも大きな効果を与えていたと言える話である。
そして、立花宗茂が改易となって柳川を去った後も
いつの日か必ず柳川に戻ってこられる
と領民達は信じていた。
徳川家康に呼び出された立花宗茂が、改易後も付き従う家臣のアルバイトにより旅費を工面しながら江戸に向かう途中、亥の子の節句を祝う際に皿も箸もなく、家臣達が炊いた赤飯を枡に盛って柳を削った箸と共に立花宗茂に出すと、立花宗茂は一口だけ食べてて家臣達に分け与え、家臣達は手の甲を皿にして赤飯を分かち合って食べた。この話を伝え聞いた領民たちは、その苦渋を我が身も分かち合おうと、手の甲で赤飯を受けて
愛嬌、挨拶、仲の良か事
との祝いの言葉と共に食べた。これはその後、柳川の風習となった。
そうして領民達は20年待ち続けるのだった。
立花宗茂と言う生き方
柳川城開城後、敵であった大名達の取り成しもむなし改易処分となった立花宗茂が浪人へと転落したが、東軍の武将の中には、武勇の誉れ高く、武士の鑑の様な存在である立花宗茂を召抱えようとする者が後を断たなかった。それに対して立花宗茂は、
我が身惜しさに太閤との誓いを裏切り、親しき友を討つようなものたちの仲間入りはできない。
と言う正論を語って全て丁重に断った。
※せんせー!加藤くんが隠れて泣いてます。
家臣達に対しては、
天に誓って我が生き方を恥じておらぬ。
天運あればまたふたたび立花の名を興す時がこよう。
といって立花山城時代から付き従う立花家の御意見番・由布惟信らと共に浪人生活を送る道を選び、京都や江戸で生活した。
お坊ちゃま伝説
岩屋城で生まれて、立花山城で育った立花宗茂唯一の弱点は「生活力の無さ」である。
これは大名家の当主においては不要であるとも言える。しかし、改易により浪人の身となった立花宗茂の生活費は、付き従う由布惟信ら家臣達が、武器・甲冑を売り払い、時には乞食をしたり、人足として働く等で生活費を稼ぎ出していた。その間、立花宗茂は家臣達の仕官先を探したり、感状を書いて就職支援をしていた。
食べるものにも困窮し始めると、毎食の白米を大根を混ぜて粥にして出したところ、食した立花宗茂は、
汁かけ飯を食べたい時は、自分で飯に汁をかけるから、余計な事をするな
といい、育ちのよさが家臣達の重荷になってしまっていた。
※よかった・・・立花宗茂も人間だったよ・・・異次元生物が紛れ込んだと思ってたけど・・・
また、ある時、立花宗茂の家臣達の困窮振りをしった者が炊いた飯を分けてくれたところ、由布惟信らは干飯にして保存食にすることを思いついた。
晴天が続くと思われる天気の中で、飯を干したまま立花宗茂を残して人足仕事に出ていった由布惟信らだったが、案の定、雨が降ってきてしまった。
雨により人足仕事も終わってしまった為、由布惟信らは急ぎ立花宗茂の元へ戻ろうと帰路を急いだ。そこで飯を干していた事を思い出し、お坊ちゃまな殿(立花宗茂)の事だから干飯に気づかずに雨にまみれさせているだろうと予想した。
家臣の一人が、立花宗茂は聡明だから、飯を屋敷の中に入れているだろうというと、御意見番の由布惟信は、
大将は雨をみたら兵を考え、民を思うものである。
明国にまでその名をとどろかせた西国無双の大将が、目前の飯などと言う小事に心奪われるようであれば、西国無双も地に落ち、立花家の復興は果たせぬだろう。
と返した。
由布惟信らが立花宗茂の元へと帰り着くと、案の定、干していた飯は雨ざらしのままほおっておかれていた。
その時、立花の家臣達は大声で「万歳」と叫んだらしく、その大声に驚いた立花宗茂は、
なぜ皆は雨がうれしいのだ?
と話かけたところ、雨が降っても飯に気をとられることの無かった立花宗茂ならば、また立花家を再興できるだろうと思った由布惟信は、
これほど嬉しい雨はありません。
と涙ながらに答えたといわれている。
ただし、全俺が泣いたエピソードではあるが、残念ながら当時の立花宗茂は加藤家に残った小野鎮幸や諸大名の援助により、ここまで困窮していたとは考えられず、後世の創作話らしい。立花宗茂らしい話ではあるが。
文武両道
立花宗茂は、武勇に優れていた他、養父・立花道雪の教育もあって連歌や茶道や蹴鞠や狂言に堪能な教養も兼ね備えていた。
剣の腕は、タイ捨流の始祖・丸目長恵から免許皆伝をうけて、弓術も幼き頃に立花山城にあった剛弓で正確に射撃する等堪能であり、日置流弓術免許皆伝の腕前をもっていた。
茶道については、細川忠興に認められて立花宗茂との間で茶器のやりとりをしている。
蹴鞠の腕前は、飛鳥井雅春から「鞠道」の門弟として「紫組之冠懸」を免許をうけており、今川氏真と共に、戦国時代のファンタジスタを名のれたかもしれない腕前だったと思われる。
もし、立花宗茂の江戸生活時代に今川氏真との接点があったとしたら・・・日本最強のツートップが誕生していたかもしれない。
奇跡は起こすもの
江戸での蟄居生活を送る中で、武士の鑑の様な存在である立花宗茂は、徳川家康と徳川秀忠の御伽衆にとりたてられ、以降は徳川家に忠実に仕えることとなった。
その後は、九州とは真逆の陸奥国棚倉1万石の大名となり、3万石まで加増される。大坂の陣後にはその功が認められ、立花宗茂の後に柳川に入った田中吉政の子・田中忠政が後継者のいないままに没して断絶した事もあって、関ヶ原で西軍として参加した後に改易された大名では唯一の
柳川よ!私は帰ってきた!
と、旧領の大名に復帰すると言う奇跡を起こして見せた。
そして柳川に戻った立花宗茂は、柳川領民からの歓迎をうけ、旧臣たちを呼び戻す等、柳川・立花家復興に尽力した他、改易後すぐに亡くなっていた妻・立花闇千代(立花ギン千代)の供養を行った。
徳川家光からも重用された立花宗茂は藤堂高虎と並んで外様大名の中でも幕閣格を務める程であったが、武勇を恐れた徳川家康により、
決して15万石以上の大名にしてはならぬ
との言が遺されていた事から柳川10万石以上にはなれなかった。ただ柳川の大名に復帰できたのが奇跡なのだから、立花宗茂自身もそれ以上を望む必要がなかったのではないかと思われる。
誰もが認める人格者
宗茂が細川忠興と島津家久(忠恒)を食事に招いた際、家久の箸の進まぬのに気付いて理由を尋ねた。なんでも家格の近さ故に伊達政宗と相席で有ることが多いのだが、会う度に「関ヶ原で敵対した島津と最初から徳川に味方した自分が同列扱いとは図々しい」と嫌みを言ってくるのでと事情を述べ宗茂に相談し、宗茂はそれならばと一つ策を授ける。
「政宗殿はそう言うが、あの時島津が降伏しておらねば、討伐軍として差し向けられたのは大忠臣を自負する伊達殿でしょうが、我が島津もただやられはしませんから相打ちぐらいになったでしょう。そうなれば北と南の大大名が消えることで、再び大争乱と成ったはず。それを降伏する事で避けたのだから我が島津もある意味で忠臣と言って差し支えないはず。」
その言葉に伊達政宗は「誰が入れ知恵したのか知らんが、気の利いたことを言うな」と言うと、以後は嫌みをいう事が無くなったという。
このことからも解るよう、 伊達政宗 島津家久 細川忠興という同年配のいずれ劣らぬ問題児達も、人格者たる立花宗茂には一目置いていたという。
家臣を思う心
柳川の大名に復帰した立花宗茂は、旧臣たちを呼び戻した他、新たな家臣を雇う等、家臣の数は日増しに増えていった。
ついには立花宗茂の屋敷が手狭になる数の家臣があふれかえった為、屋敷を大きくする旨を浪人時代から支えた家臣達が進言したのだが、
屋敷は狭いままで良い。
浪人となっても見捨てず、物乞いをしてまで支えてくれた者達はかけがえの無い家臣である。
もし屋敷を広くすれば、こうして顔を合わせる事も減り、疎遠になるだろう。
それは嫌だ。
それなら屋敷が狭いほうが良い。
家臣達は涙で言葉も出なかったと言われている。まさに全俺が泣いた状態。
功を誇らず
「太閤記」の作者・小瀬甫菴が編集の為に豊臣秀吉恩顧の武将である立花宗茂の元を訪れて、戦功についての情報を求めた。
しかし立花宗茂は、
拙者のした事は天下の公論に基づいたもの。
どうして名をあげるために、その功績を記録するようなことがあろう。
と笑顔で答えて、小瀬甫菴に何も話さなかったと言われている。まさに「功を誇らぬ」名将。
衰えぬ戦略眼
大坂の陣に参加した際は、関ヶ原の戦いの際に、真田昌幸と真田信繁によって大失態を演じていた徳川秀忠に対して、今後は失敗せぬようにと立花宗茂があてがわれた。
歴戦で鍛えられた戦略・戦術眼に衰えはなく、天王寺の戦いで、もっと評価されるべき戦国武将の一人である毛利勝永の奮戦により、徳川秀忠の軍が突出してしまている事に気づいた立花宗茂は、
このままでは旗本は蹂躙される。
もう少し本営を後方に置きましょう。
と進言した。しかしこれは聞き入れられず、結果、徳川秀忠の軍は後退することになった。さらに後方にさがって一息いれようとする徳川秀忠らに対して、敵兵の息切れを見てとった立花宗茂は、
もう敵の攻撃はありません。
今、本営を退かせると味方の士気にかかります。
といって、自ら兵を率いて徳川秀忠の陣と前線との間を維持するように奮戦した。
徳川家光の代となって島原の乱が発生し、総大将の板倉重昌が戦死するなど幕府軍が苦戦を強いられる中、徳川家光が72歳となっていた立花宗茂に出陣を求めると、
と答えた。呆気にとられた徳川家光をよそに隠居の身ながら参戦し、総大将を務めた松平信綱を補佐して戦略面の指揮をとり、敵軍の夜襲を見抜き、有馬城を攻略する等、昔日の勇姿を見せ付ける活躍をした。
70歳を超えてなお西国無双に衰えはなく、人生の最後まで(良い意味で)チートであり続けた。立花宗茂とはそういう人物である。
無双シリーズでは
声:東地宏樹
妻・立花誾千代につづいて、戦国無双3で初登場。
史実でも両刃の刀であった長光を武器に、西洋風の盾と鎧に身を包んだイケメン。逸話を反映して栗が嫌い。
立花家の雷神の妻と対の風神を名乗るように、風のように涼しげで飄々と、そして余裕と品格に満ちた性格をしており、わざとふざけて相手を怒らせることも多い。誾千代や三成に感銘する言葉を残しておきながら、覚えていと言ったりするなど普段は自由に振舞っている。
ストーリーでは、誾千代との絆や仇である島津義弘との友情、東の無双である本多忠勝との戦いが描かれた。
ゲーム中の性能ではチャージ攻撃が強力だが武器の振りが遅い為、横槍につぶされ易く、いかにそこまでもっていくかが重要な中・上級者向けの性能。
4ではゲームの進行上、後の方になる天下統一の章の九州征伐から使用可能になるなど遅め。九州の章にも登場するもののプレイヤーが操作するのは島津側の義弘と豊久なので敵側のNPCとしての出番が主。天下統一の章クリア後に登場する柳川城の戦いのみが九州の章での操作ステージとなる。ゲームバランスの変化で欠点であった攻撃範囲や攻撃速度が補われたため、前作のような使いにくさは薄れた。
無双OROCHI2では、妖蛇出現後の九州の戦いで誾千代を守るために殿をつとめそのまま行方不明になった。
その後、興勢山の戦いで妲己の罠にはまった誾千代を罠だと知りつつも救援に駆けつける。どうやら先の戦いで殿から生き残った後、妻の心配をよそに世界を放浪していたという。
宗茂「俺は、お前を助けにきた」 誾千代「それもこちらの台詞だ!この……大馬鹿者!」 爆破だ!
今作ではパワータイプになったことにより横槍につぶされにくくなったので3よりも使い勝手が向上している。
戦国大戦
戦国大戦のEXカードとして登場した彼。先んじて登場した大友家が全員制圧持ちというのもあり、彼も制圧を手にしている。3コストで武力9統率7とバランスのとれた騎馬隊、魅力・制圧と特技2つと、この辺りは西国無双の面目躍如である。
「鎮西一の我が武、とくと見よ!」
計略の「西海の勇者」は、士気5で相手の計略の対象にならなくなり更に自分の兵力が少ない程武力が上がる計略。東国無双の本多忠勝を意識したのかどっちも兵力が減る程真価を発揮する計略である(西国無双もドMのご様子)。
登場当時に猛威を奮っていた島津軍の川上久朗の「座禅の陣」を計略無効化でものともせず、島津を蹂躙出来る計略…かもしれない。兵力が少ない程武力は上がるが、同時にそれは1ミスすると即撤退というシビアさも併せ持つので、中々癖のある計略であるあたり、夫婦そろって同じである(ついでに特技・兵種も同じ)。
なお兵力回復との相性がいいので父の高橋紹運との相性も良い。
関連動画
▼加藤清正と共に九州から大坂の豊臣秀頼のもとへと目指して戦う「豊臣家の盛衰」
▼「信長の野望革新PK」地方別武将ランキング九州編にチート枠で登場。
▼ボスラッシュシリーズが元ネタの信on手描きMADでは、嫁優遇を愚痴る姿も。
補足
「信長の野望」(PC)シリーズにおける立花宗茂(吉弘統増)の能力一覧。
これでもまだ評価が低いと思わせるところが(良い意味で)チート。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 83 | 政治 | 49 | 魅力 | 73 | 野望 | 56 | 教養 | 65 | ||||
覇王伝 | 采配 | 94 | 戦闘 | 92 | 智謀 | 26 | 政治 | 57 | 野望 | 36 | ||||
天翔記 | 戦才 | 190(A) | 智才 | 102(C) | 政才 | 136(B) | 魅力 | 89 | 野望 | 35 | ||||
将星録 | 戦闘 | 95 | 智謀 | 74 | 政治 | 62 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 89 | 戦闘 | 83 | 智謀 | 69 | 政治 | 60 | ||||||
嵐世紀 | 采配 | 82 | 智謀 | 62 | 政治 | 54 | 野望 | 42 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 84 | 知略 | 62 | 政治 | 54 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 83 | 知略 | 61 | 政治 | 54 | 教養 | 55 | ||||||
革新 | 統率 | 97 | 武勇 | 94 | 知略 | 68 | 政治 | 60 | ||||||
天道 | 統率 | 95 | 武勇 | 94 | 知略 | 68 | 政治 | 60 | ||||||
創造 | 統率 | 91 | 武勇 | 95 | 知略 | 81 | 政治 | 62 |
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関連項目
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