桃井直常(?~?)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
桃井氏は足利義兼の庶子・桃井義助に始まる庶流である。桃井荘を本貫地とした独立した御家人であるが、その後の歴史の流れから実は新田氏の系統じゃね?ともいわれている。
桃井氏は足利氏ではあるものの、討幕の際は対鎌倉戦に足利義詮らと参戦しており、新田義貞とともに戦功をあげた。その後1335年に足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すとそれに従い、北畠顕家が足利尊氏を九州に敗走させた後は、これに付き従わず、下野・常陸周辺で帰路についた顕家と戦っている。
その後も関東戦線で活躍し、1338年に青野原の戦いで再度北畠顕家と衝突。桃井直常軍は敗走したものの顕家に大打撃を与え、高師直とともに般若坂の戦いで顕家を敗走させることに成功した。この勲功で若狭の守護となる。
その後も尊氏に従い戦功をあげ1340年には伊賀、1344年には越中の守護に補任された。
しかし、1350年に観応の擾乱が起きると積極的に足利直義派につき、同派の主力として活動したのである。一度高師直のクーデターで政権から直義が排除されると、1351年の直義の再起の際には越中、加賀、能登の軍勢を率い、佐々木道誉らを打ち破り、尊氏を降伏させたのちは引付方頭人となり幕政の中枢を担ったのである。
しかし尊氏が復権を目指すと、桃井直常は直義とともに京都を脱出して越前を経由して鎌倉に逃走。ところが再起かなわず直義は敗死してしまう。そこで彼は他の直義派とともに南朝に帰順。1354年には山名時氏や大内弘世とともに共闘して京を制圧。しかし反撃にあって信濃・越中方面へ逃れていった。
その後直義派に同情的だった足利基氏の庇護によって1367年、幕府に帰順する。ところが翌年足利義詮が亡くなると再起し再び幕府に反旗を翻したのである。しかし越中守護斯波義将、能登守護吉見氏頼らに敗れて飛騨に撤退し、以後消息を絶った。
しかし同じような存在だった石塔氏と違い、弟の桃井直信の系統が室町幕府の奉公衆番頭として続いていったようだ。また孫の桃井直詮は幸若舞の祖ともいわれている。
関連項目
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