政治や社会を反権力の立場から鋭く批評したコラムニストの小田嶋隆(おだじま・たかし)さんが24日、病気のため死去した。65歳。葬儀は近親者のみで営む。 東京都生まれ。早稲田大卒。食品メーカーを退社後、ラジオ局アシスタントディレクター、作詞家などを経験する。雑誌「噂の真相」(2004年休刊)でコラムを…
日経ビジネス電子版で「『ア・ピース・オブ・警句』~世間に転がる意味不明」、日経ビジネス本誌では「『pie in the sky』~ 絵に描いた餅べーション」を連載中のコラムニスト、小田嶋隆さんが亡くなりました。65歳でした。 小田嶋さんには、日経ビジネス電子版の前身である日経ビジネスオンラインの黎明(れいめい)期から看板コラムニストとして、支えていただきました。追悼の意を込めて、2021年11月12日に掲載した「晩年は誰のものでもない」を再掲します。 時の権力者だけでなく、社会に対して舌鋒(ぜっぽう)鋭く切り込む真のコラムニスト。その小田嶋さんがつむぐ1万字近い原稿を、短い言葉でどう表現するか。記事タイトルを短時間で考える担当編集者にとっては、連載の公開前日は勝負の1日でもありました。 再掲載するコラムは療養中の病室から送っていただいた原稿です。「晩年」という言葉やそれを何も考えずに使う社
今までずっと、ひたすらラクなことや楽しいことだけをやって生きていきたいと思っていたのだけど、40歳を過ぎた頃から、今までのやり方ではいろいろと行き詰まってくるようになってきました。何をやってもそんなに楽しくない。これからの人生はずっと下り坂が続いていくのだろうか。人生、長過ぎるな……。 そんな感じの中年で思ったあれこれについて書いた新刊が6月5日に出ます。僕の今までの人生を総括するような本になったと思います。 パーティーが終わって、中年が始まる 作者:pha幻冬舎Amazon 目次 本の発売にともなって、「中年以降の人生を考えるための選書フェア」として、僕が好きな本を5冊を選んでみました。初めての中年や老年を、先人たちの知恵を参照しながらなんとか生き抜いていきたいと思っています。 この選書は、僕がスタッフをやっている東京・高円寺の蟹ブックスという書店で展示する予定です。この内容(選書・コメ
なんと、黒川弘務東京高検検事長が辞意を表明した。 2020年に入ってからというもの、毎日のようにびっくりすることばかりが続いていて、何かに驚く感受性自体が、たとえば去年の今頃に比べて、50%ほど鈍化した気がしているのだが、それでも今回のこのニュースには仰天した。 黒川氏は、5月21日発売の「週刊文春」誌がスクープしている新聞記者との賭け麻雀の事実関係を認めて、辞意を漏らしたもののようだ。 してみると、3日前(18日)に政府が検察庁法の改正案の今国会での可決成立を断念した理由も、安倍総理が説明していた「国民の皆様のご理解なくして前に進めて行くことはできない」という筋立ての話ではなかったことになる。 「ネット世論が政治を動かした」 というわたくしども野良ネット民の受け止め方も、こうなってみると、ぬか喜びというのか、勘違いだった可能性が高い。 政府が法改正を断念した理由は、あらためて考えるに、黒
「鋭い批評性と親切心が同居する不思議な味わいがあった」小田嶋隆さんの訃報が届いたのは、禊祓いの行をしている途中だった。メールを読んでから道場に戻って行を続けた。小田嶋さんは、こういうのが大嫌いな人だったと思いながら、身勝手ながら供養のつもりで祝詞を上げた。 僕が最初に小田嶋さんの文章を読んだのは70年代終わりか80年代初めの、東京の情報誌『シティーロード』のコラムでだった。一読してファンになった。「若い世代からすごい人が出てきたな」とか「端倪すべからざる才能である」とか思って驚いたわけではない。ただ、「この人のものをもっと読みたい」とだけ思った。それだけ中毒性のある文章だった。それから彼の書くものを探して、むさぼるように読むようになった。 実際に拝顔の機会を得たのはそれから20年以上経ってからである。当時毎日新聞社にいた中野葉子さんが憲法9条をテーマにしたアンソロジーを編みたいというので僕
Twitterのタイムラインで話題になっている(っていうか、オダジマが無理やり話題にしているわけですが)「男の部屋に上がりこんだ女性の処遇」について、昔原稿を書いたことを思い出したので、アップしておくことにします。 「日経ビジネスオンライン」で連載中の「ア・ピース・オブ警句」のコーナーのために、2010年の7月に書いた原稿です。 残念なことに、「ア・ピース・オブ警句」では、2015年以前に書いたコラムは、リンク切れになっていて、アクセスできません。 なので、こうしてブログにでもアップするほかに読者の皆さんに読んでいただく方法がないのですね。悲しいことです。 なお、掲載時には「千原J」「K兄」と表記していた個人名を、「千原ジュニア」「キム兄こと木村祐一」と、モロな形に書き改めました。 タイトルは、さっき思いついたものに付け替えました。腐れヤンキー芸人の皆さんには、「もう少しボーっと生きてみろ
政府がマスクを配布してくれるのだそうだ。 このニュースをどう受け止めるべきなのか、いまだに自分の中で整理がついていない。 なので、思いついた順序で、思いつくまま感想を書き並べることにする。こういう話題にはこういう断片的な書き方で対処するほかに方法がない。「こういう話題」というのはつまり、度外れてバカげた話ということだ。こんなバカな話をいじくりまわすのに、緻密な書き方や論理的な記述法がマッチするとは思えない。私はだらだらと書く。読者のみなさまも、できればだらだらと読んでほしい。 全国5000万世帯に一世帯あたり2枚の布マスクを配布するという、このおどろくべき計画を聞いて、まず私が思い浮かべたのは、東京五輪の暑さ対策として発案されたいくつかのプランとの類似だった。 これらについて、私は、昨年の9月に書いた当欄の記事の中で 《多くの勤勉な日本人は、無駄な努力であっても何もしないよりはマシだと考え
衆議院の代表質問で、心ない野次が飛んだようで、その時の様子が早速新聞記事になっている。 「心ある野次」といったようなものがあるのかどうかはともかくとして、今回のこの野次に関しては、野次を飛ばした行為そのものよりも、野次の内容をくわしく分析せねばならない。 記事によれば、1月22日の衆議院で、国民民主党の玉木雄一郎代表が選択的夫婦別姓の導入を求める発言をしたタイミングで、 「それなら結婚しなくていい」 という趣旨の野次が 「自民党席の女性議員から飛んできた」 のだという。 なるほど、心ない野次だ。 しかしながら、心ない野次を飛ばす人間にも、やはり心はあるわけで、今回は、その彼または彼女の「心」について考えてみたい。 選択的夫婦別姓については、これまで、ほかのところにも何回か寄稿したことがあって、その度に同じことを書いている気がしている。もっとも、夫婦別姓のような隅々まで論点のはっきりしている
Netflixの『13th -憲法修正第13条-』というドキュメンタリーを見た。 現在、この映画は、Netflixの契約者以外にもYou Tube経由で無料公開されている。 お時間のある向きは、ぜひリンク先をクリックの上、視聴してみてほしい。 世界中の様々な場所に、BLM(Black Lives Matter)のスローガンを掲げたデモが波及している中で、Netflixが、2016年に制作・公開されたこのオリジナル作品を、いまこの時期に無料で公開したことの意味は小さくない。 世界の裏側の島国でステイホームしている私たちとしても、せめて映画を見て考える程度のことはしておこうではありませんか。 ただ、視聴に先立ってあらかじめ覚悟しておかなければならないのは、1時間40分ほどの上映時間いっぱい、間断なく表示される大量の字幕を、ひたすらに読み続けることだったりする。この作業は、字幕に慣れていない向き
アメリカが大変なことになっている。 海外のニュースサイトやTwitter経由で流れてくる動画を見る限り、ほとんど内戦が勃発しているように見える。 こういう時は、頭を冷やさないといけない。 現地で暮らしている複数の日本人の証言に耳を傾けると、デモが暴徒化しているのはあくまでも一部のできごとであるようで、アメリカ全土に火が放たれているわけではない。報道メディアのカメラが、武装した警官隊と群衆との衝突のような、扇情的な映像をとらえるのは、彼らの責務でもあれば商売でもある。しかし、その映像をリビングの液晶画面越しに視聴しながら、全米がニュース映像そのままの混乱に陥っていると考えるのは、やはり早計だ。 とはいえ、トランプ大統領のTwitterを眺めていると、やはり心配になる。彼は、デモのために集まっている市民や、暴徒化しつつある一部の人々をむしろ煽りにかかっている。それどころか、この混乱に乗じて、全
前回更新分の当欄コラムで、『13th -憲法修正第13条-』というNetflix制作の無料配信動画をご紹介したところ、その動画を見たという人々から様々な反響が寄せられた。 大部分は、 「見る価値のある映画だった」 「合衆国の歴史を見る目が変わった」 という感じのポジティブな反応だったのだが、一部には 「内容が一方的だ」 「プロパガンダ臭が強すぎる」 といった見方を伝えてきた人々もいる。 私個人としては、あの動画を「プロパガンダ」と断定してしまう評価には共感できないのだが、それはそれとして、自分の中に無い視点から作品を読み解く解釈を知ることができたのは収穫だった。ひとつの作品を、ネット上に散在する不特定多数の人々とともに同時視聴する経験の貴重さに、感銘を受けた。 ただ、作品の評価とは別に、先日来アメリカで吹き荒れているBLM(Black Lives Matter)の運動について、 「ここ10
先週から今週にかけて、似たような事件が3件続発した。 「似たような事件」とは言っても、細かく見て行けば、背景は微妙に違っている。個々の事件が明るみに出した問題点も、それぞれに異なっている。ところが、3つの話題を伝える報道記事をひとつのテーブルの上に並べてみると、あらまあびっくり、なんとも見事な「女性蔑視連続事件」とでも言うべきひとつのシリーズが出来上がってしまっている。ここのところがポイントだ。 つまり、われわれは、それぞれに異なった別々の出来事が、ほとんどまるで同じひとつの事件であるように見えてしまうメディア環境の中で暮らしている。このことは、われわれの感覚が粗雑になっているということでもあれば、メディアによる報道がそれだけ劣化してきているということでもある。 今回は、この1週間ほどに相次いで発覚した3つの炎上案件をひとまとめに扱うことで、それらの出来事に共通の背景を与えている「気分」に
前回に引き続き、日本学術会議の会員任命の話をする。 第一報から一週間が経過して、この問題の中心的な論点は、任命権の実質的な意味であるとか、法律的な根拠の有無といった当初注目されたところから、少しずつ別のポイントに重心を移しつつある。そして、この論点のズレっぷりは、結果として、新政権の中枢メンバーが学術会議の人事に介入したことの真意を明らかにしつつある。さらに、私の目には、この間に次々とあらわれた新しい視点が、わが国の社会に広がりつつある分断を反映しているように見える。今回は、その「分断」に注目してみようと思っている。 菅義偉総理大臣は、日本学術会議の推薦名簿に記載されていたメンバーのうちの6人を任命しなかった理由を、いまだに説明していない。 加藤勝信官房長官も、同様だ。 「人事のことなので(説明を)差し控えさせていただきます」 という不可解な発言を繰り返すばかりで、その回答のひとつ先にある
今回は、本当は「炎上」について書きたいと思っている。 しかしながら、まだ気力が戻っていない。 炎上を語るためには、炎上を覚悟しなければならない。 ところが、いまの自分には、炎上を引き受けながら、炎上の本質をえぐる原稿を書くための精神の準備が整っていない。 こんなふうにして、炎上は、ものを言う人間から気力を奪っていく……と、今回はこの結論だけをお伝えして、別の話題について書くことにする。 ものを書く人間に限らず、スポーツ選手であれミュージシャンであれ、何らかの形で社会に向けて発言する人間は、誰もが炎上のリスクをかかえている。 もっとも、炎上を避けること自体は、そんなにむずかしいタスクではない。 ものの言い方を手加減すればそれで済む。 ただ、私がこの場を借りて強く言っておきたいのは、 「この世界の中には、ものの言い方を手加減した瞬間に価値を喪失してしまうタイプの言論があるのだぞ」 という事実だ
みんな政治でバカになるのだろうか 2021.10.15 小田嶋 隆 (略)… さて、めんどうくさいインターネットに生半可な気持ちで関わっていると、思わぬトラブルを引き起こしてしまう。 今回は、『さて、めんどうくさいインターネットに生半可な気持ちで関わっていると、思わぬトラブルを引き起こしてしまう。 今回は『みんな政治でバカになる』という書籍に関連して私が発信したいくつかのツイートが炎上した。 自分が炎上を招く書き方をしていることは承知していたのだが、毎度のことながら、タイピングの勢いを自制することはかなわなかった。この点は反省している。各方面に失礼な言辞を弄した責任は、ひとえに私の側にある。この場を借りておわびを申し上げておきたい…(後略) https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00138/
今週もまた、菅義偉新政権の話題に触れなければならない。 このことについて、まず、読者の皆さまにお詫びしておく。 思うに、商業メディアに連載を持っている書き手が、3週連続で政権批判めいた文章を書くことは、「コラムニスト」という職業の矩(のり)をこえた所業だ。言ってみれば「運動家」のやりざまだ。 もっとも、私は、誰かに頼まれて倒閣運動を展開しているのではない。 菅さんに対して私怨を抱いているというわけでもない。 にもかかわらず、3回続いて似たような話題を取り上げる結果になってしまったことは、自分としては不幸な偶然なのだと考えている。 というよりも、私が今回、この話題(菅さんが自著の新書版の発売に当たって、元の単行本の記述を削除したこと)を取り上げるのは、首相の政治姿勢を批判するためというよりは、一人の出版業界人として、コトのなりゆきに心を痛めているからだ。 私の受け止め方としては、本件は、政治
2021年10月15日付、日経ビジネス掲載の小田嶋隆さんのコラムにて、小社刊・綿野恵太著『みんな政治でバカになる』が紹介されていますが、このコラムにあるように「政治について語ることが無意味でバカだ」といったことが、本書で書かれているわけではありません。端的に誤読であると考えます。 本書は、政治について考えたりかかわったりする際につきまとう困難をどう乗り越えるかを、進化心理学や認知科学の知見を援用しながら真摯に(無知に居直るのでもなく、シニカルでもなく)考察したものであり、その執筆の姿勢は「政治を語るやつらはバカ」と揶揄的に語るような態度とは真逆のものです。 本をどのように読むかは読み手の自由でありますが、書かれていない内容をあげたうえで批判している点で、当該コラムの内容は的をはずしたものであると考え、本書『みんな政治でバカになる』についての誤解・曲解が広まることのないように、異議申し立ての
緊急事態宣言が出てからこっち、世の中の設定が、すっかり変わってしまったように見える。 にもかかわらず、先週も書いたことだが、私の生活はたいして変わっていない。 あるいは、私はずっと以前から緊急事態を生きていたのかもしれない……というのは、はいそうです、格好をつけただけです。本当のところを申し上げるに、私の生活は、緊急性とはほぼ無縁だ。それゆえ、このたびの事態にも影響を受けていない。それだけの話だ。 ブルース・スプリングスティーンの歌(1973年に発売されたアルバム「アズベリー・パークからの挨拶“Greetings from Asbury Park, N.J.”」に収録されている“For You”という歌です)の中に 「おい、人生ってのはひとつの長い非常事態だぞ」(Your life was one long emergency) という素敵滅法な一節がある。 私は、残念なことに、そういうロ
「女性はいくらでもうそをつけますから」 と、杉田水脈議員は言ったのだそうだ。記事にはそう書いてある。 見出しを読んだだけでは、この発言の悪質さは伝わらない。 うっかり読むと、杉田議員は個人的な観察を述べただけであるように思える。 というのも、実際、女性はうそをつくことができるからだ。 うそをつくのは女性だけではない。男性だってうそをつく。子供も大人も、当然ながら、うそをつく。のみならず、日本人も外国人も、金持ちも貧困層も、およそすべての人類は例外なくうそをつくことができるし、現実に、多くの人間は、うそをつきながら日々を暮らしている。 そういう意味で、一般論として述べるのであれば、杉田議員の言葉は間違っていない。間違っていないどころか、人類普遍の真実を端的に述べた勇気ある言葉であると評価することさえ可能だ。 しかし、杉田議員は一般論を語ったのではなかった。 彼女は、性暴力に対する相談事業につ
「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」 と、森喜朗・ 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長は言ったのだそうだ。 この発言の第一報が伝えられた日の夜、ツイッターのタイムライン上には、記事を読んだ人々が、それぞれ、五輪の幕引きの手順や、尻拭いの方法について、思い思いの感慨を書きこんでいた。 なんというのか、第一報が伝わった時点で、すでに 「女性蔑視」 というのは、主要な論点ですらなくなっていたわけだ。 当然といえば当然だろう。森さんの発言がドンピシャリの女性蔑視であることは、いまさら誰が検証するまでもなく、隅々まではっきりしている。そんな論点について、ことあらためて議論をするのは時間の無駄というものだ。 とすると、次の問題は、森さんの言葉が、JOCの臨時評議員会という公の場所で五輪組織委のトップが発信する内容として適切であったのかどうかなのだが、これについても
政治や社会を鋭く批評したコラムニストの小田嶋隆(おだじま・たかし)さんが6月24日、病気のため死去した。65歳だった。稀代の論客の功績を所縁のある関係者が跡づける連載の第3回は、小田嶋さんのツイートをまとめた著書『災間の唄』の選者・編者をつとめたライターの武田砂鉄さんがつづる。 「ということはあれだな」小田嶋さんが死んじゃって困っている。なぜって、死んじゃうと、「辛口の社会批評、コラムニストの小田嶋隆さん死去」(読売新聞)、「小田嶋隆さんが死去、65歳 反権力の論客、コラムニスト」(東京新聞)みたいな記事のタイトルに突っ込んでくれなくなっちゃうからだ。「辛口」ってなに。「反権力」ってなに。そこに印字されている言葉を疑って、「ということはあれだな」なんて振りかぶりながら、「ってことなのかね」なんて混ぜ返してみるあの感じがないと、小田嶋さんの仕事が「辛口」で「反権力」ってところで落ち着いてしま
2022年6月24日、日経ビジネスオンライン時代から長くご執筆をいただいてきたコラムニスト、小田嶋隆さんがお亡くなりになりました。 今回は、小田嶋さんに近しい方々にいただいた寄稿を掲載して、皆さんと一緒に偲びたいと思います。 最初は、日経ビジネスに小田嶋隆さんをご紹介くださったジャーナリスト、清野由美さんです。 追悼、小田嶋隆さんへ ついにこの時が来てしまった。 小田嶋さんが脳梗塞で入院された時から、ずっと、はらはらと過ごしてきた。編集Yこと、日経ビジネスの山中浩之さんから電話の着信があると、覚悟を決めて出るのが習いになっていた。小田嶋さん本人の美学から、逐一の病状はうかがっていなかったが、じわじわと砂の落ちる音は伝え聞いていた。 私にとっては、昨秋「中央公論」で小田嶋さんとオバタカズユキさんの対談の仕切り役をした時が、今生のお別れとなった。幾度かの入院治療のインターバルのタイミングで、身
東京など7つの都府県に緊急事態宣言が出された。 このたびの緊急事態に関しては、気になることがあまりにも多すぎる。言及しておきたい論点をすべてチェックしにかかると、間違いなく支離滅裂な原稿になる。 なので、当稿では、当面、最も大切に思えるポイントだけを、なるべく簡潔に書くよう心がけたいと思っている。 緊急事態宣言が出されたのは、4月7日の夕刻だった。 それが、翌日の8日には、はやくもほころびはじめている。 「どこが緊急なんだ?」 と思わざるを得ない。 共同通信が伝えているところによれば、西村康稔経済再生担当大臣は、4月8日、7都府県知事とのテレビ会談の席で、休業要請を2週間程度見送るよう打診したことになっている。 ん? 休業要請を見送ってほしい、だと? どうしてだ? なぜ、そんな話になるんだ? 大臣はいかなる根拠から2週間の猶予が必要であると判断したのだろうか。 意味がわからない。 そもそも
東京など7都府県に緊急事態宣言が発出されてから、半月が経過しようとしている。この間に、緊急事態宣言は、全国に拡大された。都民に告知されていた外出自粛要請の内容も、夜間の外出に特別な注意をうながすなど、日に日に峻厳さを深めつつある。 私自身の暮らしぶりは、新型コロナウイルスの感染拡大以前と比べて、さほど変わっていない。というのも、1990年代以降、プロフィール欄に「引きこもり系コラムニスト」であるとか「岩窟ライター」といった文言を書き並べていたことからも明らかな通り、私は、元来が出不精で、だからこそアームチェア・コラムニストという仕事を選んだ人間でもあるからだ。 COVID-19をめぐる騒動がはじまるずっと以前から、私の活動範囲は、自宅を起点とした半径500メートル以内にほぼ限られている。その徒歩圏内から外に出る機会も、週に1回ほどの頻度に過ぎない。 とはいえ、生活習慣に特段の変化がなくても
Go Toについて書いておきたい。 7月16日午後6時の執筆時点では、東京を対象外とする方針が固められたようだ。 とすれば、Go Toトラベルキャンペーンが、国の施策として動きはじめようとしているいまのうちに、その決定の経緯と現時点での反響を記録しておく必要がある。このタイミングを逃すと 「お国が引っ込めた施策について、いつまでもグダグダと言いがかりをつけるのは、あまりにも党派的な思惑にとらわれたやりざまなのではないか」 「世論の動向にいち早く反応して、一旦は動き出した政策を素早く見直す決断を下した安倍政権の機敏さを評価しようともせずに、死んだ犬の疱瘡の痕を数えるみたいな調子で撤回済みのプランを蒸し返してあげつらっているパヨク人士の叫び声が必死すぎて草」 てな調子で、検証作業そのものが、要らぬ非難を招くことになる。 でなくても、いったいに、現政権は、検証ということをしない。 彼らは、森友案
新型コロナウイルス関連の話題には、できれば触れたくないと思っている。 にもかかわらず、気がつくと自分からコロナの話をはじめている。 私は、メンタルをやられているのかもしれない。 「コロナ神経症」という病名が、すでに存在しているものなのか確かなところは知らないのだが、でも、自分がそれに罹患しているかもしれないということは、なんとなくわかる。私は正常にものを考え続けることができない。とてもつらい。 世間の人々は、いったいどうやってこのバカげた騒動に耐えているのだろう。不思議でならない。私は、限界だ。とにかく、コロナという言葉は二度と聞きたくない、と、日々、そう思いながら、毎日コロナの話をしている。 多くの人々が、毎日のように同じ話を繰り返している。 テレビ画面に出てくるMCは、この3月以来、何千回というオーダーで告知してきた同じ注意事項や基礎知識を、今朝もまたリピートしている。 「とにかく3つ
毎日新聞が伝えているところによれば、なんでもJR東神奈川駅の駅員が、 《新型コロナウイルスの感染拡大に伴う休校や外出自粛が長引く中、少しでも明るい気持ちになってもらおう》 ということで、改札の前にあの昔なつかしい黒板の伝言板を設置したのだそうで、これが、好評をもって迎えられているのだという。なるほど。 いきなりのヒマネタだ。やれ新型コロナだ検察庁法改正だで世間の空気が緊迫しているなかで持ち出すには、あまりにも能天気な話題にも思える。でも、「伝言板」というフレーズを何十年ぶりかで見て、いろいろな記憶がよみがえってしまった私の執筆脳は、もはや後戻りができないのだね。 今回は伝言板の話をする。 そもそも、こんなほのぼの系の街ネタがどうして私のアンテナにひっかかったのかというと、週イチで出演しているラジオのディレクターさんが拾ってきてくれたからだ。ディレクター氏は、毎週、私が出演する20分ほどのコ
mainichi.jp 小田嶋隆さん逝去。 2019年に脳梗塞を発症したり、アルコール依存症についての本を上梓されたりしていたので、おそらくずっと体調が良くはなかったとは思うのだけれど、65歳というのは、今の時代に人が病気で亡くなる年齢としては早すぎます。 僕が「小田嶋隆」という書き手のことを知ったのは『遊撃手』というマイコン雑誌だったのです。 10代の前半にコンピュータというものを知り、マイコンゲームやコンピュータという新しい世界にハマってしまった僕は、世の中に流通しているマイコン雑誌を、『LOGIN』『マイコンBASICマガジン』『コンプティーク』といったメジャーどころから、『ポプコム』(「美少女ゲーム特集」のときにレジに持っていくのが恥ずかしかった……僕は美少女が目的じゃないんです!って心の中で言い訳していました)、『テクノポリス』『Oh!MZ』(のちに『Oh!X』)といった中堅どこ
とある化粧品会社の経営者が、自社のオンラインショップのサイト上で、差別発言を拡散している。 今回は、この話題を「寛容」というキーワードを軸に読み解いてみたいと考えている。 私がこんなことを考えた理由は、先日(←といっても、つい昨日のことだが)、『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』(森本あんり著・新潮選書)という本を読んで、おおいに刺激を受けているからだ。 ありていに言えば、自分の頭の中で読後感が反響しているうちに、それを記録しておきたいという考えが、本稿を書き進めるモチベーションの半分以上を占めている次第だ。 本書は、この何年か、私があれこれと思い悩んでいたいくつかの問題に関して、その意味と方向性を照らし出すヒントを提供してくれている。より具体的な言い方をすれば、「寛容と不寛容」という、どこから考え始めても、必ずや隘路に迷い込んでしまうこのやっかいな命題について、思想的な地図に相当
懸念している事態が懸念した通りに展開するケースは、実は、滅多にない。 多くの場合、われわれの懸念は、空振りに終わる。だからこそ、世界はまわり続けている。 別の言い方をすれば、私たちは、状況がこれ以上悪化することを恐れて、自分たちの内心に、あらかじめ最悪の事態を思い描いているのかもしれない。 もちろん、不安が危機を防ぐ保証はない。 逆に、不安の感情が、必ず不幸を呼び寄せると決まっているものでもない。私たちが心の中にどんな近未来を想定しているのであれ、すべての出来事は、起こるべくして起こり、変転するべくして変転していくものなのだろう。 このたびのウクライナ情勢は、年明け以来、私が抱いていた不安をそのまま裏書きするカタチで推移している。このことに、私は、いまだにうまく適応できずにいる。 目の前で繰り広げられているこの悲劇に対して、何か自分にできないのだろうかと考えずにいることは、とてもむずかしい
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