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_noharraに関するo_keke_nigelのブックマーク (11)

  • 2009-02-23 - 弯曲していく日常 -言説摩滅装置との戦い

    Palestinian_man_returning_home.jpg 月だけが壁を越えゆく地にありて闇にも届けよ春の樹のこえ http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20090220/1235141488 詩人の想像力においてここでは卵は月に(おなじ円形で白いものだから)姿を変える。鳥だけが越えられる、月だけが越えられるといった比喩は洋の東西を問わずかってはとてもポピュラーな比喩だった。越えられない格差が世界の至るところにあったからだろう。いまではわざわざ詩人のために高くて高い頑丈な壁を建ててくれるような酔狂な国家、でしかそうした比喩は使えない。 >tmsigmundさんへ (1)をもう一度読んでからRESしようとして遅れております。すみません。 巨大な言説摩滅装置 さて、すべての批判を(少なくとも政治的には無化する)巨大な言説摩滅装置としてイスラエル国家とそのシンパ

    2009-02-23 - 弯曲していく日常 -言説摩滅装置との戦い
  • 2009-01-31 - 弯曲していく日常 -われらが心の内なるイスラエル

    ある目的を果たすための道は、必ずしもひとつではないし、人にはそれぞれ、自分のやりかたがあるのです。 それが他者に致命的なほどの痛みをもたらすものでないかぎり、誰かの「抗議」のやりかたが自分の意にそまないものだからという理由で、「人として批判されてるのです」なんて言うのこそ、「イスラエル的」じゃないの? 「正義」とか「大義」って怖いよ。 イスラエル的なものは、世界のあの場所にだけあるんじゃなくて、僕たちの心のなかにいまも息づいているのです。 http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20090127/p1 「イスラエル的なものは、世界のあの場所にだけあるんじゃなくて、僕たちの心のなかにいまも息づいているのです。」というのは、この間引用しているバタイユの「一般に、人間であるという事実のなかには、克服されるべき重苦しく胸をむかつかせる要素がある。」とおなじこと言っている。*1 

    2009-01-31 - 弯曲していく日常 -われらが心の内なるイスラエル
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/02/06
    「自分の中の”悪”をも直視できるオレ」と「自分の中の”悪”を正面から直視すること」との距離について。
  • 2009-01-29

    ガザのあとで−− わたしたちは人間であることに恥を覚えることなく、「ガザ」という名を口にすることはできない。ガザ、それは人間性の臨界を意味する言葉となった。「アウシュヴィッツ」や「ヒロシマ」と同様、人間性の臨界域において現出する悲劇の同義語となった。 ホロコーストのあとで−− 「わたしたちは知らなかった」、ドイツ人たちはそう言って自らを免罪しようとした。(略) では「ガザ」は?2008年12月27日以来、ガザで起きたこと*1は? 150万人の人間を出口なしの檻のような狭い土地に閉じ込めて、世界最強の軍隊のひとつが空から海から陸から世界最新鋭の軍事兵器でミサイルの砲弾を、雨のように浴びせて殺戮する。そんなことが、わたしたちの目の前で、世界注視のなかで公然と、20日以上*2続いたのだ。まるで、「知っていたら、お前は当に声を上げるのか?」と問わんばかりに。 岡真理「ガザのあとで」p8 現代思想

    2009-01-29
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/02/02
    の理論武装された典型(http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/f48cc067877abd243580c6911efb3ba4)に対して。「「政治感覚の優れた人」…という三分法は、かなりあざとい。」選択肢の中に組み込まれている政治性。意図されているものは明白。
  • 彎曲していく日常 -安全で無垢な<わたし>

    従軍慰安婦関連のRSSリーダーを作りました。今後キーワードを増やして、ヒットする記事が増えるようにしたいと思います。 http://r.hatena.ne.jp/kmiura/ComfortWomen/ kmiuraさん作成。!! つまり日国内における<わたし>が絡めとられてしまう捻れとは、次のことである。現在の日国の状況において、従軍<慰安婦>問題に関わる当事者であろうとすると、国民国家=血縁の共同体の一員であることに無批判であり続けるか、それとも、従軍<慰安婦>問題の責任の所在を追求するために、この国民国家からは距離をとり、安全で無垢な<わたし>を確保し、<わたし>自身が位置づけられている諸々の権力の網の目からはあたかも無関係な<わたし>を確立するのか、という二者択一の前に立たされてしまうようなのだ。p115 岡野八代『法の政治学』isbn:4791759699 わたしは戦争を体験

    彎曲していく日常 -安全で無垢な<わたし>
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/05/20
    「正義というものが、西欧起源の無垢な空間に、国民国家=血縁の共同体とは切り離されたものとしてだけ存在するという強固な信念。」に落ち込まないようにするには、やはり「自分を」ではなく「自分と」語ることだ。
  • 「戦後民主主義」は、一種の思想的独裁だったのだ - 松下昇への接近

    とアンカテ(essa)さんは言っている。アンカテさんという方はとても聡明でバランスのとれた知性をお持ちの方ではないでしょうか。で、真顔でそう言われると困ってしまう。 「美しい国」というのは、「戦後民主主義」へのアンチテーゼであって、統一協会系の人脈はその線で使われているのだと私は思います。単なるしがらみで切れないとか政治的方便で利用しているとかではなくて、理念的なつながりがあって、確信を持ってそういう人たちを起用しているように感じます。 「戦後民主主義」は、svnseeds’ ghoti!:日語で上手な文章を書くには:10の「べからず」に戯画的に表現されている特定の価値観を押しつけてくる、一種の思想的独裁だと思います。(http://d.hatena.ne.jp/svnseeds/20060908#p1 svnseeds’ ghoti!) 安倍さんは、その象徴として日教組(的なもの)を暗

    「戦後民主主義」は、一種の思想的独裁だったのだ - 松下昇への接近
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2006/10/25
    「だいたい、戦後60年を支配してきたのは自民党なのに、どういう理路でもって自民党が「「戦後民主主義」へのアンチテーゼ」なんていいだすことが出来るのか分からない。」鋭い。
  • 2006-09-03

    http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/16661/ 「「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府の照屋昇雄さん」 http://b.hatena.ne.jp/entry/http%3A//www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/16661/ はてなブックマーク - イザ!:「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府の照屋昇雄さん-話題!ニュース (http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060828 経由) 皇国皇軍の責を問えるかそれとも、住民の自発的行為か、がまず第一の論点です。その論点を問わず、ある特定の部隊長が「命令」を発したかどうか、かどうかという法的論点に焦点を当てるべきだと考えるのは、最初から論点のすり替えだ、(野

    2006-09-03
  • 彎曲していく日常 -誰が血みどろの犯行を犯したのか私は言わない。

    『チビチリガマの集団自決(下嶋哲朗著、凱風社)にこう記されている箇所がある。』 太平洋戦争時の沖縄戦において集団自決は、あちこちで引き起こされた。しかしそのほとんどは、日軍の命令あるいは自決用の手りゅう弾を配るなどの直接、間接命令にしたがう自決だった。ほとんどということの意味は、今回のチビチリガマの調査のように、まだまだ明らかにされてはいない集団自決が、相当あると思われるからである。 事実、今回の調査を通して読谷という小さな村の中だけでも、ほかに二か所の集団自決があったことを確かめているこれらなどもチビチリガマと同様に知られてはいない http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/Taro10-330.pdf 330-戦時下の精神状態.−チビチリガマの集団自決へと追い詰められていく経過 いわゆる「集団自決」問題に関連した村尾建吉さんのホームページをもう一度読んでみ

    彎曲していく日常 -誰が血みどろの犯行を犯したのか私は言わない。
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2006/09/07
    沖縄戦での集団自決を「生み出したものはなにか?」と問うことが実は重要だ、と。「誰が」命じたのか「誰が殺したのか」を単に問うだけではなく。
  • 2005-09-13

    http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050907#p1 の続き 下記コメント欄で、kuronrkobousyuさんとcharisさんの議論が、継続中です。 http://d.hatena.ne.jp/charis/comment?date=20050910 下記に一部だけ抜き書きし、野原の感想を書きます。誤解を与えてしまうといけないので、ぜひ全文を読んで欲しい。 charis 「英霊は<心ならずも>戦争に動員されたのではなく、<自らの意思で>行ったのだ」というのが、靖国派の主張ですから、「英霊の心が一番分るのは自分たちだ」と思い込んでいる。だから、内田氏の主張は、靖国派にとって「大いに不愉快」なものである可能性もあります。 「英霊」と呼ばれる人たちはたとえ自らの強い意志で参戦しようとも、彼らの人生を中断されたわけだ。狭義の自衛戦争ならともかく倫理的にいかがわしい

    2005-09-13
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2006/08/17
    「そのような死者に対し国家が為さなければならないことは謝罪であり、君の死は無駄ではなかったという顕彰などではない」
  • 2005-08-24

    大江の「あまりにも巨きい罪の巨塊」というフレーズはなんといってもデリダの「幽霊・亡霊」を思わせる。 えーと、id:noharra:20050122#p1 で次のようなデリダ論の一節を引用した。 また、亡霊は現れるだけではなく、つねに何かを語り出すものでもある。 (略)あるいは、ナチの強制収容所というおよそ証言不可能な場所から生き残った人が、長くまもっていた沈黙を破って語り出す言葉のことを考えてもよいだろう。だがこうした言葉は客観的な出来事の証言であるばかりではなく、さまざまに矛盾し、時間的に混乱したものとしても現れてくる。彼らの経験した出来事が、およそ単純に現前するようなものではなかったからである。デリダに言わせれば、こうした発言を受け止めることが亡霊の声に応えることである。亡霊の命令や約束は、つねに自己分裂・自己矛盾しながら容赦なくつきつけられる命令や約束なのである。(廣瀬) p119『

    2005-08-24
  • 2005-08-20

    私にとって第一の関心事は、「私においてどのような表現が可能なのか?」「どのような私が可能なのか?」にあります。 「私は有罪だ。」という表現は成立可能でしょうか。不可能だと思います。有罪とは、それを言表することにより致命的なダメージを私が受けるという意味である。したがって何らかの裁判装置に私が受動的に掛けられるなら、「あなたは有罪だ」という言表は装置から発せられるであろう。もちろんわたしの内にも良心がある。良心は反省し認罪することができる。だが実行した私も、認罪した私も同じ私に過ぎない。前者ではなく後者が優越すべきだとする根拠は何処にあるだろう。戦争の時代に戦争に加担し、反省の時代に反省に加担する。それでは時流に合わせているだけですね。時流としてはまさに現在、反省への反動が押し寄せている。 わたしというものが“どこまでも述語となって主語とならない時間面的自己限定にほかならない”*1なら、反省

    2005-08-20
  • 2005-08-16

    http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050807 への応答です。 gkmondさん 応答が遅れ失礼しました。数日間パソコンから離れていたもので。 さて、 小泉氏が何を罪とし、何を反省としているのかは知りませんが、個人的な見解としては、「反省する」材料以外はすべて隠す(略)という歴史認識は否定されるべきだと思います。 一般論としては異論ありません。 ただ、具体的には(ここでいう隠された材料とはnoharraさんが「ネット右翼」と呼ぶ人たちが熱心に発掘しているエピソードや事実)というものがどの程度のネタか、という評価の問題になりますね。 ☆ 私の理解するところによれば、情報量の少ない「辺境の寒村の住民」(どこのことでしょう?)は、情報の相対化ができなかったのだから、自由はなかったと言いたいのだということになります。 であるならば、「軍が悪かった」以外の情報に、あるいは

    2005-08-16
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