被爆地・広島を訪れたオバマ米大統領は、「サプライズ」の贈り物を残した。大統領手作りのカラフルな4羽の折り鶴。原爆投下の10年後、白血病で亡くなった少女にまつわる「平和のシンボル」だ。核廃絶の願いを世…
原爆投下直前に米軍が攻撃準備を行う様子を捉えた写真が69年を経た今、初公開されたそうだ。 米軍は、第二次世界大戦の末期に当たる1945年8月に、日本の広島と長崎に二発の原子爆弾を投下した。これは人類史上初めて、そして今のところ唯一核兵器が実戦使用された例である。 マンハッタン計画により製造された原子爆弾 ロスアラモス国立研究所で遂行されたマンハッタン計画によって、1945年8月までに2種類の原爆開発が完了している。 ガンバレル型ウラニウム活性実弾、コードネーム「リトルボーイ」は8月6日に広島に投下された。それから3日後の8月9日、インプロージョン方式プルトニウム活性実弾、コードネーム「ファットマン」が長崎へ投下された。 犠牲者数は広島 約14万人、長崎 約7万人で、それぞれの街の人口のおよそ半分の命が失われた。 原爆のケースを確認する兵士。この後、攻撃拠点となった日本の南方に位置するマリア
アメリカ国立公文書記録管理局のアーカイブス・カレッジパークに保存されている写真をもとに、第二次世界大戦時に日本へ投下された原子爆弾「リトルボーイ」と「ファットマン」が製造&運搬される様子を詳細に追った貴重な写真が公開されています。 An illustrated guide to the Atomic Bombs By Ryan Crierie http://www.alternatewars.com/Bomb_Loading/Bomb_Guide.htm 第二次世界大戦中に原子爆弾を製造するため、アメリカ・イギリス・カナダの科学者が総動員されたのが「マンハッタン計画」です。この計画は1942年にスタートし、1945年の7月には世界初の原爆実験を実施し、8月6日に広島、同月9日に長崎へ原子爆弾を投下。たった2発の爆弾で合計30万人以上の死傷者が出ました。この「マンハッタン計画」の名前の由来は
湯川博士のノーベル賞受賞の陰に 前回、「8月15日」の意義についてお話ししましたが、日本の敗戦を決定づけた広島、長崎への原爆投下に関して、日本ではあまり知られていない史実があります。今回は小筆がアメリカ在住時に耳にした秘話を披露したいと思います。 広島、長崎の悲劇を生んだ原爆を発明したのは、オッペンハイマーやアインシュタインほかユダヤ系化学・物理科学者たち(ナチスから逃れ米国へ移民した学者たち)によるマンハッタン計画でしたが、当初の“ナチスドイツ殲滅・ヒットラー必殺の目標”が、想定外に早く訪れたヒットラーの自死とドイツの降伏(5月)で、実験と投下のタイミングを失したのか、ウランとプルトニウムという二種類の核爆弾の準備を万全に整えるのに遅れたのか(7月に実験成功)、おそらくこれらの理由により、5月以降も応戦を続けていた日本に振り向けることになったそうです。
アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。
広島市も説明しているように広島に投下された原爆による死者の正確な人数は判らないのですが、それにしても「一瞬にして10万人以上」という推定が蓋然性のあるものとして語られているのは聞いたことがありません(もちろん、まともな論者や機関によって、という意味)。一般財団法人高度情報科学技術研究機構が運営する「原子力百科事典ATOMICA」には次のような記述があります。 原爆投下から数か月以内に、広島で約11.4万人(人口の33%;軍人および朝鮮半島出身の人々は含まない)、長崎で約7万人(人口の28%)の人々が死亡した。爆心地から半径2km以内の死亡総数を100%としたとき、被ばく2週間以内に88.7%が、第3から第8週までに11.3%が死亡した。半径1.2km以内での死因の内訳は、爆風による外傷が20%、放射線障害が20%、熱線と二次的な火災による熱傷が60%であった。 (http://www.ri
修学旅行で5月に長崎市を訪れていた横浜市の公立中学校3年の男子生徒5人が、被爆遺構を案内していた被爆者で語り部の森口貢(みつぎ)さん(77)=長崎市=に「死に損ない」などと暴言を吐いたり、やじを飛ばしたりしていたことが分かった。森口さんは学校に抗議し、校長が電話で謝罪した。 森口さんは原爆投下後に長崎市中心部に入り、入市被爆をした。小学校の教諭を退職後、1998年から被爆遺構の案内や講話をしている。現在は「長崎の証言の会」の事務局長を務め、案内や講話の回数は年100近いという。 森口さんや学校によると、3年生119人が5月27日、長崎市を訪れ、証言の会の会員9人が班ごとに被爆遺構を案内した。 森口さんは10人ほどを爆心地から600メートルほどの山里小学校へ案内。原爆で多くの児童が亡くなった話を始めようとした際、この班とは別行動をしていたはずの男子生徒5人が近づいてきて、うち数人が「死に損な
安倍晋三首相がオランダ・ハーグで開かれていた核セキュリティサミットの記者会見で、プルトニウムを大量に国内に保有している理由を外国記者にただされ、釈明に追われる一幕があった。 プルトニウムは核兵器に転用が可能だ。原発の停止などで使うあてがなくなったプルトニウムを大量に国内に保有すれば、日本が核兵器保有を目指していると疑われかねない。この疑念が顕在化した一幕だ。 「日本や他国に危険をもたらしうるものを、なぜ持ち続けるのか」 2014年3月25日に行われた記者会見で出た質問は、以下のようなものだ。質問の主は米AP通信記者。 「日本は今でも9トン以上のプルトニウムを国内に保有している。この理由は何か。近い将来に利用する目的があると指摘する専門家もいるが、あなた(安倍首相)は『将来利用しないものは持たない』とも発言している。日本や他国に危険をもたらしうるものを、なぜ持ち続けるのか」 これに対して、安
英紙ガーディアン(電子版)は20日、米南部ノースカロライナ州ゴールズボロ上空で1961年1月、飛行中の米軍爆撃機B52から核爆弾が外れて地上に落下し、奇跡的に起爆を免れた事故の詳細を伝えた。爆弾は広島に投下された原爆の260倍の威力があり、大惨事になる恐れがあったという。 機密指定を解かれた米公文書を基に報じた。事故の存在は一般にも知られていたが、同紙は核惨事の瀬戸際だったことを初めて裏付けた「決定的証拠」としている。 同紙によると、61年1月に飛行中のB52がトラブルを起こし、搭載していた2発の水素爆弾が機体から外れ、同州ゴールズボロ郊外の牧草地などに落下した。 このうち一つは、四つある安全装置のうち三つが解除された状態となり、最後に残された「低電圧の単純な構造のスイッチ」が起爆を止めたという。(共同)
The Polaris Dawn crew is back on Earth after a historic mission
全世界で月2億人が見るとされる米国の旅行者向け口コミサイト「トリップアドバイザー(TA)」で、原爆の資料を集めた広島平和記念資料館(広島市中区)が、「外国人に人気の日本の観光スポット」として2年連続1位になった。 被爆者の遺品や写真など、当時のすさまじさを物語る展示資料に心を揺さぶられる人が多いようだ。 「地球上の全ての人が見るべきだ」「悲しみを誘うが、有益で必見」「日本旅行のハイライトになった」。TAの資料館のページに書き込まれた口コミだ。 TAの運営会社によると、ランキングは前年4月からの1年間、日本語以外の20言語の口コミを対象に5段階評価の平均値や、コメント数などから集計されている。資料館は2012、13年と連続でトップ。13年の2位は伏見稲荷大社(京都市)、3位は東大寺(奈良市)だった。 理由の一つには1996年12月、原爆ドームが世界遺産に登録され、「ヒロシマ」への関心が高まっ
※本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ています Web漫画「原爆に遭った少女の話」がTwitter上で話題になっています。 作者の祖母が経験した被爆を、聞き語りをもとに漫画化した作品です。全89ページ・8章から成り、原爆にあう前の生活から、被爆後の壮絶な日々まで描かれています。絵柄がさわやかな分、爆弾投下後の光景は際立つものがあります。昨年に第7章までを公開し、今年の8月6日に終章を追加して完結させました。今後、英語翻訳にする計画もあるそうです。 なお、同じく被爆体験を描いた「はだしのゲン」のアニメを、8月31日までGyaO!が無料配信しています。 Kindle版も advertisement 関連記事 Googleストリートビューで原爆ドーム内部を公開 原爆ドームの内部をGoogle マップのストリートビューで見られるようになった。 エゾノー:「銀の匙」実写映画化決定 2014
「プラトーン」「JFK」などで知られる米国の映画監督オリバー・ストーン氏(66)が4日、広島市内で読売新聞のインタビューに応じ、「原爆投下は戦争を終わらせるために必要だったというのは幻想だ。(米国人として)被爆者に謝罪したい」と語った。 ストーン監督は昨年、第2次大戦前夜の1930年代からオバマ大統領登場までの米国の現代史について、独自の視点で描くテレビドキュメンタリーシリーズ「もうひとつのアメリカ史」を制作。その中で、原爆投下はソ連(当時)へのけん制が目的で軍事的に不要だったと主張している。今回は原爆忌に合わせ広島、長崎を初めて訪問、被爆者との対話などを予定している。 インタビューで、ストーン監督は、原爆を投下した米国は英雄であると教わってきたと説明したうえで、「80年代までそうした幻想に疑問を差しはさむことはなかったが、歴史をもっと深く見るようになった。私は歴史に対して建設的でありたい
広島、長崎、沖縄を初訪問するオリバー・ストーン監督=オリバー・ストーン事務所提供 【井上未雪】8月に広島、長崎、沖縄を初訪問する米映画監督のオリバー・ストーン氏(66)が朝日新聞の書面インタビューに応じた。ストーン監督は原爆投下の経緯に疑問を投げかけるドキュメンタリーを手がけている。今回の訪日で、当時の米政権内では多くの反対論を押し切って原爆投下が実行されたことなど「憂慮すべき史実の数々を多くの日本人に知らせたい」としている。 ストーン監督は昨年、第2次世界大戦前夜の1930年代からオバマ大統領登場に至る米国現代史を独自の視点で描くドキュメンタリーシリーズ「もうひとつのアメリカ史」(全10本)を制作した。脚本はアメリカン大学歴史学科のピーター・カズニック准教授(65)と共同執筆。特に原爆投下には1本を充て、当時の米政権内には反対する声が多く、原爆を使わずに日本を降伏させることができたに
戦後60年ということで、様々なテレビが特集を組んでいます。明日は ・終戦記念日(日本の一般人の皆様) ・敗戦記念日(日本の思想家、社会派の皆様) ・独立・解放記念日(韓国と中国などの皆様) ・戦勝記念日(アメリカなど戦勝国の皆様) です。あちこちで、それぞれの記念日が祝われるのでしょう。 「原爆投下の是非」という問題について、下記の3つの視点から書いておきます。 (1)原爆を落としたアメリカの行動の正当性 (2)原爆を落とされた日本の行動の正当性 (3)原爆が落とされたことの影響 ★★★ (1)原爆を落としたアメリカの行動の正当性 ふたつの主張があります。 ひとつは「戦争を早期終結させるために原爆は必要、有効であった」「原爆を落としてなければ、日本は本土決戦までやっていた。落とさなければ、アメリカでも日本でも、もっと多数の犠牲者がでたはず」したがって「アメリカはある意味ではいいことをしたの
「人形が怖い」との意見で被爆再現の人形撤去へ…原爆資料館 1 名前: シンガプーラ(家):2013/03/17(日) 09:36:39.05 ID:0t22kIY+0 広島市は14日、原爆資料館(中区)に展示している、やけどを負った被爆者の姿を再現したプラスチック人形を2016年度にも撤去する方針を示した。館内の展示を遺品などの実物資料に切り替える見直しに合わせる。印象が強く、広く知られた人形の撤去について、来館者たちの受け止めが分かれた。 人形は女性、女学生、男児を模した3体。焼けただれた皮膚で、がれきの中をさまよう。先代のろう人形を1973年から展示し、91年に現在の人形に替えた。 この日、市議会予算特別委員会で議題に上った。委員の一人が「旅行代理店のアンケートに、 人形が怖いとの意見があった」と指摘。石田芳文・被爆体験継承担当課長は「本館リニューアル後は、 展示しない方向で検討してい
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