足立山中腹の観光道路途中に在る、朝鮮戦争時で戦死した連合軍兵士を慰霊するメモリアルクロスへの道沿いの岩場に、おびただしい数の石像が捨てられたように無造作に在る。 これらの石像は天明5年(1785)5月、小笠原藩小倉城下の京町2丁目の酒蔵業新屋河村親子が、五百羅漢安置の願いを広寿山に出し、許されて建立した五百羅漢像である。寛政4年(1792)に完成し、広寿山11代住職千巌(せんがん)和尚が開眼の法要を修した。 この岩山は江戸期には近くの広寿山福聚寺の境内であり、当初狐山と言われたが五百羅漢が安置されたので羅漢山と呼ぶようになった。 残念ながら現在はほぼすべてが首なしの石像となっており、幕末の長州との戦争で首を刎ねたとか、明治初めの神仏分離令による廃物毀釈で刎ねた、骨董ブームで盗まれたなど諸説有るようだが、メモリアルクロス建立時には連合軍によって立入り禁止になった時期もあり、真相は定かでないが