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AkaNisinのブックマーク (395)

  • 伯と孟 - てぃーえすのメモ帳

    適長稱伯、伯禽是也。 庶長稱孟、魯大夫孟氏是也。 (『白虎通』姓名) 「嫡長子は『伯』、庶長子は『孟』と称す」ということについて一応メモっておく。 後漢代に常に『白虎通』の通りに字が命名されているとは限らないが、三国志の時代の人物たちで字に「孟」が使われてる者も同じような意味を込めて命名されている可能性は大いにあるだろう。

    伯と孟 - てぃーえすのメモ帳
    AkaNisin
    AkaNisin 2015/06/06
    『白虎通』で規定された嫡庶の字
  • 吉本は吉本ではないかもしれない - てぃーえすのメモ帳

    二十三年春正月、漢太醫令吉與少府耿紀・司直韋晃等反、攻許、燒丞相長史王必營、必與潁川典農中郎將嚴匡討斬之。 (『三国志』巻一、武帝紀) いわゆる後漢末の「吉の乱」。だが吉は吉じゃなかったかもしれない。 (耿)紀以(曹)操將簒漢、建安二十三年、與大醫令吉㔻、丞相司直韋晃謀起兵誅操、不克、夷三族。 【注】 「㔻」或作「平」。 (『後漢書』列伝第九、耿秉伝) あっ・・・昨日までの記事に出てきた「㔻」(「不」+「十」)が使われている・・・。 つまり「吉」は『後漢書』で「吉㔻」と書かれている部分があったわけで、それはつまり「吉丕」ということになる。 しかも、注で「平」とするテキストもあったと言っている。 つまり少なくとも唐初の段階で、「吉」でも「吉丕」(吉㔻)でもなく、「吉平」と書いていた書もあったわけだ。 帝知國舅染病、令隨朝太醫前去醫治。此醫乃洛陽人、姓吉、名太、字稱平、人皆呼為吉平

    吉本は吉本ではないかもしれない - てぃーえすのメモ帳
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    AkaNisin 2014/08/20
    吉本?吉㔻?吉丕?吉平?吉太?
  • 郡公と二千石 - てぃーえすのメモ帳

    (王)浚字彭祖。母趙氏婦、良家女也、貧賤、出入(王)沈家、遂生浚、沈初不齒之。 年十五、沈薨、無子、親戚共立浚為嗣、拜駙馬都尉。太康初、與諸王侯俱就國。三年來朝、除員外散 騎侍郎。元康初、轉員外常侍、遷越騎校尉・右軍將軍。出補河内太守、以郡公不得為二千石、轉東中郎將、鎮許昌。 (『晋書』巻三十九、王浚伝) 晋代、王沈の子の王浚は父の爵位を継ぐ形で(父は郡公を固辞し続けていたが)郡公となった。 その後、官界に位を得た王浚は一度は河内太守に任命されたが、「郡公は二千石(=太守)にはなってなはいけない」ということを理由に東中郎将に配置換えされたという。 他の同格の官位は問題ないが郡の長官だけダメということっぽい。 この時代では既に昔からの慣習でしているだけになっているのかもしれないが、おそらく発想としては「自分の領土とは別の土地も支配する」というのが何かひっかかったのではなかろうか。

    郡公と二千石 - てぃーえすのメモ帳
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    AkaNisin 2014/08/20
    郡公は二千石(=太守)にはなってなはいけない
  • 尚父 - てぃーえすのメモ帳

    董卓賓客部曲議欲尊卓比太公、稱尚父。卓謀之於(蔡)邕、邕曰「太公輔周、受命翦商、故特為其號。今明公威徳、誠為巍巍、然比之尚父、愚意以為未可。宜須關東平定、車駕還反舊京、然後議之。」卓從其言。 (『後漢書』列伝第五十下、蔡邕伝) 董卓の賓客や部下は董卓をかの太公望に比肩する存在へと引き上げ、董卓に太公望と同じ「尚父」の号を与えることを目論んだ。 それについて董卓が蔡邕に諮ったところ、彼はこう答えた。 「太公望は周を助け、天命に従って殷を討ったため、特に「尚父」と号したのです。今、貴方の武威や人徳は大変大きなものではありますが、「尚父」の太公望と比べてみると、私には釣り合うものには思えず、まだその時期ではないと考えます。関東を平定し、皇帝陛下を長安から洛陽へと戻らせることができて初めて、そのことを議論すべきでしょう」 なんとなくイメージしてた感じからすると、ここで素直に従う董卓というのも新鮮だ

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    AkaNisin 2014/08/20
    董卓と蔡邕
  • 邑主 - てぃーえすのメモ帳

    舊典、諸王女皆封郷主、乃獨封(劉)蒼五女為縣公主。 (『後漢書』列伝第三十二、東平憲王蒼伝) 漢代の制度では、諸侯王の娘は「郷主」とされるものであったらしい。 皇帝の娘は「公主」である。 で、皇帝の宗室ではあるが皇帝の娘でも諸侯王の娘でもない者(王未満の侯の娘など)はどうされたのかというと、魏においてこのように定められている。 丁酉、改封宗室女非諸王女皆為邑主。 (『三国志』巻三、明帝紀) おそらくだが、公主>郷主>邑主という序列を定めたのだろう。 それまでは、邑主に当たる者も郷主としていたが、諸侯王の娘との差別化を図ったということだろうか。 なお、「郷主」はあったが「亭主」は無かった模様。

    邑主 - てぃーえすのメモ帳
    AkaNisin
    AkaNisin 2014/08/20
    宗室の娘の身分制定
  • ノノ〃 - てぃーえすのメモ帳

    時遭元二之災、人士荒飢、死者相望、盜賊羣起、四夷侵畔。 【注】 臣賢案、元二即元元也、古書字當再讀者、即於上字之下為小「二」字、言此字當両度言之。後人不曉、遂讀為「元二」、或同之陽九、或附之百六、良由不悟、致斯乖舛。今岐州石鼓銘、凡重言者皆為「二」字、明驗也。 (『後漢書』列伝第六、訒騭伝) 李賢注によれば、この文中で「元二」と書かれているのは「元元」(万民のこと)の誤りなのだそうだ。 で、どうしてそうなったかというと、ここは元々は「元〃」と記されていたのだが、そんなことも知らないアホが「〃」を漢数字の「二」にしてしまったからなのだ、という。 どうやら当時残っていた銘文などでもこういった用例がある、と言っているようだ。 つまり現代使われている「〃」(Wikipediaいわく「ノノ字点」などと呼ぶらしい)は、中国ではこの頃には使われていたということが文献資料から確認できるわけだ(李賢は唐の

    ノノ〃 - てぃーえすのメモ帳
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    AkaNisin 2014/06/19
    古代中国のおどり字
  • 『晋書』の載記について

    できたら近いうちに前回の李氏の話のつづきを書きたいと思っているのだけど、その前にやや史料のお話をしておいたほうがよさそうなので。 といっても、今回の記事は李氏ではなく、匈奴劉氏の政権である漢・趙を中心に書きます。李氏はいずれ。長文&やや専門的なので、その点ご了承ください。 『晋書』載記 特徴としては以下が挙げられる。 ①載記冒頭に序文がついていること。 ②十四国が項目に立てられていること(漢・前趙、後趙、前燕、前秦、後秦、成・漢、後涼、後燕、西秦、北燕、南涼、南燕、北涼、夏)。 ③名臣などの伝が載記末尾に付記される場合があること。 ④君主の即位には「僭」字を必ず使ったり、晋の軍隊を「王師」と表記したりすること。 ②などは特に不思議に思わない人もいるだろうが、じつはとても重要である。念頭に置いてほしい。 『晋書』はいろいろと問題が指摘されてはいるものの、五胡時代の史料で体系的にまとまったかた

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    AkaNisin 2014/05/28
    『十六国春秋』と『晉書』と北魏の正統論。すごく勉強になりました
  • 老母>>>妻子 - てぃーえすのメモ帳

    趙咨字文楚、東郡燕人。大司農陳奇舉咨至孝、躬率子孫耕農為養。 盜嘗夜往劫之、咨恐母驚懼、乃先至門迎盜、因請為設、謝曰「老母八十、疾病須養、居貧無儲、乞少置衣糧、子餘物無所惜。」諸盜皆慚歎、跪曰「所犯無状、干暴賢者。」言畢奔走。 (『東観漢記』趙咨伝) 後漢の趙咨という者はかなりの親孝行であった。 かつてヒャッハーな盗賊どもが夜間に強盗に現れたが、趙咨は騒がしくなって母を起こしてしまわないように自ら門を開けて事を用意して待ち構え、ヒャッハーたちにこう言ったという。 「私の母は八十歳で病気になっており、十分に栄養を取らせ養生してやらねばなりませんが、我が家は貧乏であまり貯えもありません。お願いですから母の分の事や衣服は残していただけませんか。子や他の財産は自由して構いませんから」 ヒャッハーは「アンタのような素晴らしい方から強盗しようとしたなんて恥ずかしい」と自分たちの所業を悔やみ、

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    AkaNisin 2014/03/03
    劉安も母ではなく妻を差し出してた
  • 伍子胥の怨霊 - てぃーえすのメモ帳

    永平八年、舉孝廉、稍遷、建初中拜楊州刺史。 當過江行部、中土人皆以江有子胥之神、難於濟渉。(張)禹將度、吏固請不聽。禹窅言曰「子胥如有靈、知吾志在理察枉訟、豈危我哉?」遂鼓楫而過。歴行郡邑、深幽之處莫不畢到、親録囚徒、多所明舉。吏民希見使者、人懐喜悦、怨徳美惡、莫不自歸焉。 (『後漢書』列伝第三十四、張禹伝) 後漢の時代、張禹という者が揚州刺史となった。 そこで領域内を見回ろうと思ったところ、中原出身の人間は皆「長江には伍子胥の怨霊がいるので長江を渡ることが出来ない」と言い、行きたがらない。 張禹は行こうとしたが部下たちが止めようとするので、「伍子胥の怨霊がもしいたとしても、私は領内を見回りしようとしているのだから、どうして我々に危害を加えることがあろうか?」と言い、ついに長江を渡って領内の見回りを実行した。 おそらく、伍子胥の怨霊が中原人に仇なすという迷信があったのだろう。 ということは

    伍子胥の怨霊 - てぃーえすのメモ帳
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    AkaNisin 2014/03/03
    後漢(六朝)の伍子胥説話
  • 真実は孟徳新書より奇なり - てぃーえすのメモ帳

    魏書曰太祖自統御海内、芟夷羣醜、其行軍用師、大較依孫・呉之法、而因事設奇、譎敵制勝、變化如神。自作兵書十萬餘言、諸將征伐、皆以新書從事。 (『三国志』巻一、武帝紀注引『魏書』) 先日の記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20131126/1385392748)についてなんだが・・・。 曹操は十万余言の「兵書」を自作し、諸将にその自作兵書に基づいて戦わせるようにさせたという。 先日の話によれば、曹操の時代、曹操の支配圏では兵書の単純所持が禁止され、お上に提出を求められていたらしい。 つまり当時の将が指揮の参考に兵書を見ようと思ってもこれまで存在していた兵書は取り上げられていた。つまり曹操の兵書を見るしかなかった、ということか? 曹操が自分の兵書を普k・・・いややめておこう。

    真実は孟徳新書より奇なり - てぃーえすのメモ帳
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    AkaNisin 2013/12/30
    曹操時代の兵法所持禁止と対となる魏武孫子
  • 単純所持禁止 - てぃーえすのメモ帳

    轉為武徳侯庶子。二十二年、坐其宗人吉等起事被收。先是科禁内學及兵書、而(吉)茂皆有、匿不送官。及其被收、不知當坐等、顧謂其左右曰「我坐書也。」 (『三国志』巻二十三、常林伝注引『魏略』) 『魏略』の吉茂伝によれば、後漢末当時、曹操の支配圏においては内学(讖緯の学)と兵書の所持が禁じられていたらしい。 だが吉茂はそれを隠し持っていた。 吉茂の遠縁である吉が反乱を起こすと、連座して当時武徳侯庶子だったという吉茂も捕縛されたが、事情を良く理解していなかった吉茂は「私は書物を隠していたから捕まった」と言ったのだと言う。 当時、兵書の私的所持がご法度だったらしいというのはなかなか興味深い。 「官に送らなかった」とあるので、単に禁止するというよりは兵書の利用を全て公的機関で統制しようということだったのかもしれない。

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    AkaNisin 2013/12/30
    曹操による緯書と兵書の所有禁止
  • 列女志補説 - FC2 BLOG パスワード認証

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    AkaNisin 2013/12/18
    献帝の皇后は曹節ではなく曹憲か
  • 宗室の範囲 - てぃーえすのメモ帳

    姚・媯・陳・田・王氏凡五姓者、皆黄・虞苗裔、予之同族也。書不云乎?『惇序九族。』 其令天下上此五姓名籍于秩宗、皆以為宗室。世世復、無有所與。 (『漢書』巻九十九中、王莽伝中) 皇帝になった王莽は、漢の劉邦が同じ一族の劉氏を「宗室」(皇室)と定めて特権を与えたのと同様に「宗室」の範囲を定めた。 「姚・媯・陳・田・王」の五姓は全部同族なので全部「宗室」にし、徭役免除という漢の劉氏へ与えられたのと同じ特権を与えることにしたのだという。 陳氏や王氏は特に人口の多い大姓であるし、田氏も斉ではかなりの大族である。 これらを全部皇室扱いしようというのだから王莽のスケールはけた違いである。 多分財政面のダメージもけた違いだと思うが。

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    AkaNisin 2013/08/14
    莽新の宗室(13.8.12
  • 高祖十二年 - てぃーえすのメモ帳

    (高祖十二年)三月、詔曰「吾立為天子、帝有天下、十二年于今矣。與天下之豪士賢大夫共定天下、同安輯之。・・・(後略)・・・ (『漢書』巻一下、高帝紀下) 漢の高祖十二年、高祖劉邦は詔の中で「俺は天子となり天下を統べるようになって十二年になる」と言っている。 この高祖十二年とは漢の高祖が漢王になってから十二年目ということであり、項羽を倒し皇帝の称号を王たちから奉られてからは十二年たっていない。 この時の漢の公式設定では、劉邦が秦王の降伏を受け入れた時点で天下の主たる地位は劉邦に移転していた、ということになっていたのだろうか。

    高祖十二年 - てぃーえすのメモ帳
    AkaNisin
    AkaNisin 2013/05/29
    高祖元年の起点について(13.5.28
  • 青牛さん - てぃーえすのメモ帳

    数日前のhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20130513/1368373407の記事なんだが・・・。 三烏・五鹿・青牛・白馬、所謂志*1也。凡厥姓氏、皆出屬而不可勝紀也。 (王符『潜夫論』志氏姓) 王符によればその頃「青牛」という姓がある、とされていたようだ。 後漢末ヒャッハーの一人「青牛角」は王符より後の時代だろうから、実は「青牛角」は自称とか綽名とかではなく、元々の姓名だったと言う可能性も微レ存ということである。 *1:この「志」は「旗」の意味ではなかろうか。旗にかかれたシンボルを姓とした、ということでは。

    青牛さん - てぃーえすのメモ帳
    AkaNisin
    AkaNisin 2013/05/19
    青牛姓について2、または後漢末群賊の綽名について(13.5.16
  • 青牛 - てぃーえすのメモ帳

    昨日の記事の後、ツイッターで「青牛」について「こんなのもあるよね」的な話になったので、それらの「青牛」についても紹介しておく。 甘始・東郭延年・封君達三人者、皆方士也。率能行容成御婦人術、或飲小便、或自倒懸、愛嗇精氣、不極視大言。甘始・元放*1延年皆為操所録、問其術而行之。君達號「青牛師」。凡此數人、皆百餘歳及二百歳也。 (『後漢書』列伝第七十二下、方術列伝下) 後漢末の方士には有名な左慈や甘始・東郭延年・封君達といった人たちがいて、若さを保つ方法や四十八手、飲尿健康法などを知っていたそうだ。 そのうち封君達は「青牛師」と呼ばれたのだという。 自黄巾賊後、復有鄢山・黄龍・白波・左校・郭大賢・于氐根・青牛角・張白騎・劉石・左髭丈八、左髭丈八・平漢・大計・司隸・掾哉・雷公・浮雲・飛燕・白雀・楊鳳・于毒・五鹿・李大目・白繞・畦固・苦唒之徒、並起山谷輭、不可勝數。 (『後漢書』列伝第六十一、朱儁伝

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    AkaNisin 2013/05/19
    青牛姓について1(13.5.13
  • 中国史全文検索系サイト、三国時代関係用 - 雲子春秋

    知ってる人は多いけど、もしかしたら知らない人がいるかもしれないので。 新漢籍全文資料庫 http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ihp/hanji.htm 「免費使用」をクリック。 あとは検索ボックスに検索したい文字をいれるだけ。 おもに正史が検索できる。 三国演義もある。 中央研究院漢籍電子文献 http://hanji.sinica.edu.tw/ 「瀚典全文檢索系統 2.0 版」をクリック。 表中一番上の「漢籍全文資料庫」をクリックすると上の新漢籍全文資料庫につながる。 表二番目の「古漢語語料庫」からは次の四つの項目にとべる。 左側のチェックボックスにチェックをいれると、その中だけを検索できる。 1「上古漢語語料庫」には前漢以前の史書や儒学の経書、諸子百家などがある。 2「中古漢語語料庫之一−東漢」からは、抱朴子、世説新語、捜神記などを全文検索できる。 3「中

    中国史全文検索系サイト、三国時代関係用 - 雲子春秋
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    AkaNisin 2013/05/19
    三国志関係電子テキスト(13.5.15
  • 三国関係者の干支 - 雲子春秋

    先日、とある人が「自分は曹丕と干支が同じ、十二支だけじゃなく十干まで同じなんですよ」とお話しされていた。 それを聞いて三国時代(後漢末、晋初含む)の人物の干支を調べてみたくなったのでやってみる。 生年がわかる人物が少ないのでやりにくそうだけど。 生年調査は主に黒竜江人民出版社から出ている『中国歴史人物生卒年表』を用いた。←作業半ばで気付いたがよく見たら干支まで書いてた。 間違いとかはあるかもしれないです。そのが何をもとにして生年をだしてるのかはようしらん。まあ出版物やしだいたいあってるやろ(適当) 表は横列が十二支、縦列は十干。名前の後ろの()内は生年。名前の前に生年。 自分の十干十二支がわからない人は https://www.n-p-s.net/jikkanjunishi.html で確認してみてね☆ 表示の関係から表は二つにわける。 子〜巳 十干\十二支 子 丑 寅 卯 辰 巳 甲

    三国関係者の干支 - 雲子春秋
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    AkaNisin 2013/05/19
    三国関係者の干支(13.5.16
  • 牛金毒殺の時期 - 雲子春秋

    久しぶりの更新。 野球シーズンでブログはオフシーズンだからしゃーなし。 『晋書』によると、石に刻まれた「牛(牛氏)が馬(司馬氏)の後を継ぐ」という文を信じた司馬懿によって牛金は毒殺されたという。 『晋書』巻六、元帝紀 初,玄石圖有「牛繼馬後」,故宣帝深忌牛氏,遂為二榼,共一口,以貯酒焉,帝先飲佳者,而以毒酒鴆其將牛金。而恭王妃夏侯氏竟通小吏牛氏而生元帝,亦有符云。 この『晋書』では「初め」とあり、毒殺時期は不明である。 『太平御覧』に引かれた王隠の『晋書』(上の『晋書』とは別物、現存せず各書への引用がわずかに残る)には次のようにある。 『太平御覧』巻七百六十一 器物部六、所引王隠『晋書』 宣帝既滅公孫淵還。作榼兩口,二種酒,持著馬上。先飲佳酒,塞口;而開毒酒與牛金,金飲而死。 ここでは牛金の毒殺を司馬懿が公孫淵を滅ぼし還った頃のこととしている。 つまり牛金の死亡時期は238年頃ということに

    牛金毒殺の時期 - 雲子春秋
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    AkaNisin 2013/05/04
    王隠『晋書』は元帝の勅命による編纂(13.5.3
  • 太史公曰 - てぃーえすのメモ帳

    而桓譚新論以為太史公造書、書成示東方朔、朔為平定、因署其下。太史公者、皆朔所加之者也。 (『史記』巻十二、孝武紀注『索隠』) 前漢末の桓譚『新論』によれば、司馬遷が『史記』を東方朔に見せたところ、東方朔は論評を加えて「太史公」を称して書き込んだのだという。 『史記』の巻末にある「太史公曰」は東方朔が作ったものだ、というのである*1。 *1:もちろん司馬遷だと言ってる人もいるし司馬談だと言ってる人もいるし、楊綠作であるという説もある。

    太史公曰 - てぃーえすのメモ帳
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    AkaNisin 2013/05/04
    『史記』太史公曰くは東方朔かby『索陰』