[go: up one dir, main page]
More Web Proxy on the site http://driver.im/

2013年12月30日のブックマーク (2件)

  • 真実は孟徳新書より奇なり - てぃーえすのメモ帳

    魏書曰太祖自統御海内、芟夷羣醜、其行軍用師、大較依孫・呉之法、而因事設奇、譎敵制勝、變化如神。自作兵書十萬餘言、諸將征伐、皆以新書從事。 (『三国志』巻一、武帝紀注引『魏書』) 先日の記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20131126/1385392748)についてなんだが・・・。 曹操は十万余言の「兵書」を自作し、諸将にその自作兵書に基づいて戦わせるようにさせたという。 先日の話によれば、曹操の時代、曹操の支配圏では兵書の単純所持が禁止され、お上に提出を求められていたらしい。 つまり当時の将が指揮の参考に兵書を見ようと思ってもこれまで存在していた兵書は取り上げられていた。つまり曹操の兵書を見るしかなかった、ということか? 曹操が自分の兵書を普k・・・いややめておこう。

    真実は孟徳新書より奇なり - てぃーえすのメモ帳
    AkaNisin
    AkaNisin 2013/12/30
    曹操時代の兵法所持禁止と対となる魏武孫子
  • 単純所持禁止 - てぃーえすのメモ帳

    轉為武徳侯庶子。二十二年、坐其宗人吉等起事被收。先是科禁内學及兵書、而(吉)茂皆有、匿不送官。及其被收、不知當坐等、顧謂其左右曰「我坐書也。」 (『三国志』巻二十三、常林伝注引『魏略』) 『魏略』の吉茂伝によれば、後漢末当時、曹操の支配圏においては内学(讖緯の学)と兵書の所持が禁じられていたらしい。 だが吉茂はそれを隠し持っていた。 吉茂の遠縁である吉が反乱を起こすと、連座して当時武徳侯庶子だったという吉茂も捕縛されたが、事情を良く理解していなかった吉茂は「私は書物を隠していたから捕まった」と言ったのだと言う。 当時、兵書の私的所持がご法度だったらしいというのはなかなか興味深い。 「官に送らなかった」とあるので、単に禁止するというよりは兵書の利用を全て公的機関で統制しようということだったのかもしれない。

    単純所持禁止 - てぃーえすのメモ帳
    AkaNisin
    AkaNisin 2013/12/30
    曹操による緯書と兵書の所有禁止