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carと昭和に関するwhaleboneのブックマーク (5)

  • じどうしゃ~昭和は遠くになりにけり

    今から30年以上も昔、私が中・高生だった1970年代後半のお話。青木小夜子の「FMバラエティ」やタモリの「オールナイトニッポン」、野沢那智&白石冬美の「ナチチャコパック(パックインミュージック)」などを聴くのが楽しみだったラジオ少年が最初に買ってもらったラジカセがソニー製品(多分CF-1630)。実家のテレビもトリニトロン、‘79年のウォークマン登場でAV機器=ソニーブランドは確立された。同じ頃、地元福岡のスーパーは黒船ダイエーに駆逐され、郊外にはダイエーの大型商業施設が続々と誕生した。ついには獅子のいなくなった地に鷹の球団までをも誘致してくれて福岡はダイエーの城下町と化した。高校生の頃、いろいろ参考書に手を出したが、中でも気に入っていたのは『前田の物理』(前田和貞・著、代々木ライブラリー)。代々木ゼミナールの名物講師、前田和貞による独特な図解がとてもわかり易かった。日のネタ『じどうし

    じどうしゃ~昭和は遠くになりにけり
  • http://www10.ocn.ne.jp/~awjuno/sub600.html

    私の75年の人生の内、50年以上を一技術屋として自動車の開発とともに過ごした。戦争とともに生まれ(張作林爆殺)、中国との15年戦争を経て敗戦にいたる18年の幼少年期と、残りの自動車とともに生きた2つの時期が私の人生の凡てである。終戦の年、原爆投下の瞬間を僅か20数キロ離れたた江田島から目撃した。戦後自動車会社に入ったお陰をもって、この日全土の廃墟の中から立ち上がり30年後には世界一の自動車大国になるという発展の大ドラマの中に生きる事が出来た。多くの犠牲者を出した太平洋戦争に生き残った世代は、分野は異なれ、同じような生きがいのある人生をおくる幸せに恵まれたといえる。数年の差で自分も戦争の犠牲者となっていたかも知れないし、戦争があと1年続いたら現在の自分があったかどうか、人間の運命は計り知れない。 私は昭和26年(1951)いすゞ自動車に入社し、当時はトラックとバスを生産するだけであったが

  • JAMA -JAMAGAZINE-

    [第25回] 連載の第25回目は、日国内市場におけるクルマのネーミングについて、1955(昭和30)年から2010(平成22)年初頭までの約55年間を見通して、時代や社会との関わり、また車名の変遷・推移などを、さまざまな観点から林光氏に考察していただいた。末尾に掲げた車名一覧を参照しながら、お楽しみいただきたい。 日の車名は、「日語」で始まった 車名をまとめた一覧表を見て、驚いた(参照)。その種類の多さはもちろん、クルマ好きを標榜している筆者も知らない車名がけっこうあったからである。このメーカー別の車名の一覧は、まさに戦後日の産業の歴史そのものであり、これを眺めているだけでも十分楽しめると思う。 さらに、車名とその名前が出てくる時期とを合わせて見ていくと、まさにそのクルマが走っていた時代が浮かんでもくるのだ。 筆者は、個人的な思いとして、「女性にとって何歳でその映画に出会った

  • 国立国会図書館デジタルコレクション

    whalebone
    whalebone 2013/04/07
    1940年。オオタ号、電気車、木炭車と関連法規など
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