はてなキーワード: 物理量とは
数の概念は文化や歴史によって変化してきた。古代ギリシアでは、1は数ではなく単位とされていたが、現代では自然数の集合 N の最小の要素とされている。
数の概念は哲学的な問題を引き起こすことがある。無限や超準数といった数は直観に反する性質を持つ。例えば、無限は自分自身に加えても変わらないという性質を持つ(∞+∞=∞)。超準数もまた通常の数の演算法則が成り立たない(ω+1≠1+ω)。
数は実在するのか、それとも人間の心の産物なのかという存在論的な問いもある。数の実在主義は、数は客観的な実在であり、人間の心とは独立して存在すると考える。数の構成主義は、数は人間の心の産物であり、人間の言語や思考に依存して存在すると考える。プラトニズムは、数はイデア界に存在する普遍的な実在であると考える。ピタゴラス主義は、数は万物の根源であると考える。論理主義は、数は論理的な体系から導き出されるものであると考える。
数の概念は数学の基礎付けにも関わる。数学の公理や定理は、数の概念に基づいて構築されているが、その正当性や完全性には限界がある。ゲーデルの不完全性定理は、数の概念を用いた形式体系には矛盾しないが証明できない命題が存在することを示した。
数の概念は、かつて客観的な現実を表すものと考えられていたが、量子論の発展により、数はより複雑で主観的なものである可能性が高まった。古典物理学では、数は物理量と一致していたが、量子論では、数は物理量とは別の抽象的な概念として使われている。
自我や自由意識と同様に、数の本質はまだ解明されていない。しかし、量子コンピューターは数の概念を利用して作られており、数は物理システムを表現する有効なツールであることは、どのレイヤー、スケールにおいても明らかである。
数の概念は私たちの知識や理解を拡張するものであり、同時に私たちの疑問や不確実性を増やすものでもある。
数の概念は、私たちの世界に対する見方を変える力を持っている。(どやああああ)
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量子観測とは、量子系の状態を測定することで、その状態を確定させることです。量子系の状態は、一般に複数の可能性の重ね合わせになっていますが、量子観測によってその重ね合わせが崩れて、一つの可能性に収束します。この現象を「波動関数の収縮」と呼びます。
情報理論的エントロピーとは、情報の不確かさや乱雑さを表す物理量です。エントロピーが高いほど、情報が不確かで乱雑であると言えます。量子系の状態に対しても、エントロピーを定義することができます。量子系のエントロピーは、その状態の重ね合わせの度合いによって決まります。重ね合わせの度合いが高いほど、エントロピーも高くなります。
したがって、量子観測を行うと、量子系の状態が重ね合わせから一つの可能性に収束するので、エントロピーが下がるということになります。これは、量子観測によって、量子系の状態に関する情報が得られることを意味します。量子観測は、情報の不確かさや乱雑さを減らすという観点から見ると、情報の圧縮や整理といった操作に相当します。
一頭の牛が年間に生産する乳量は年々増加の一途を辿り、現在ではおよそ9000kgに達している。
一昔前までは、年間に10000kgを出す牛はスーパーカウと呼ばれ、人間で言えば100mを10秒台で走る超人のような扱いだったが、今日本記録は年間に30000kgを突破している。
平均で年間9000kgと書いた。一度産むと約300日の期間搾るので、1日平均で30kgにもなる。もちろん変動があり、ピーク時には40kg近く出す。凄まじい量ではないか?
乳牛は体重が600〜700kgくらいだ。つまり体重の5%が乳として出ていく。乳の原料は血である。血は体重の8%くらいだ。
体を流れる血液が毎日総入れ替えされるくらい、飲んだ水と食べた餌が血となり、乳となる。成分だって、ヒトの乳に比べずっとずっと濃い。
もちろん、水を飲む量は出す乳の量よりはるか多い。餌も凄まじい。糞尿もすごい。呼吸も凄けりゃゲップもすごい。牛のゲップが温暖化の原因というのも納得する。彼女らは、生きる化学プラントだ。
牛を正面から見ると、左右対称ではないことがわかるだろう。片側に巨大な発酵タンクを備えているからだ。牛は草食というのは嘘だ。発酵タンクで飼育する微生物を食べてる。エビオス錠を主食にしてるようなものだといえば、凄まじさがわかるだろう。もう少し言うと、ヒトは不要になった老廃物を尿から捨ててるが、牛は胃袋に捨て微生物の餌にするエコシステムを持ってる。他にも、生理学生化学的に、もう化学プラントとしか思えない能力がたくさんあるのだが、専門家に譲る。
さて、前振りはこの辺に、酪農は夢がある。乳価が乳質にもよるがおよそ100円。
一頭が9000kgも出せば年間に90万円売り上げる計算になる。20頭で1800万、50頭で4500万、100頭で9000万、これだけ売上が出せる農業というのはなかなかない。
もちろんこれは売上で、売上は凄まじくても、経費と減価償却を差っ引くとなんも残らないというのが昨今の酪農危機ではあるが、売上高はロマンだ。
大量の水を運び、餌を運び、糞尿を始末して、乳を搾る。1日に何トンもの物理量を動かす、それはロマンだ。
そして、牛飼いは上手い人と下手な人の差が激しいというのもロマンだ。
上手い牛飼いというのは、ある種の異能の持ち主だ。しかしどのへんがというと説明が難しい。
機械より速く搾るとか、そういうわかりやすいスキルもあるのだが、何故か受胎率がよく、何故か事故(病傷)が少ない。
何故気がつけるのかを調べると、牛のことをよく覚えているからだ。
考えてもみてほしい。ヒトはしばしば、自分自身のことでも、前に生理が来た日すらしばしば忘れるのだ。よい牛飼いは分娩予定日や前回発情が来た日を、食べた餌の量を、よくよく覚える。よく見てるから、発情行動を見逃さないし、どんなに遠くでも斑紋からその行動した個体を識別する。もちろん健康異常もすぐ気付く。牛飼いに休日はなく、ほぼ365日、ずっと働く。「この牛の母ちゃん、その母ちゃん」と親子三代の思い出を語る。自分からしたら異能としか思えない。
ビックバン以前は正方向の時間の流れがないといいます。そういうなかで物理量や量子状態が変化しているといいます。しかしそのような物理量や量子状態の振る舞い様を物理学の専門的な知識がない人が見たら、「正方向の時間の流れの中で、物体がランダムに変化しているだけ」と、通常の時間があるかのように錯覚してしまうだけなのではないですか?
ビッグバン以前の世界についての理解は、物理学の専門知識がない人でも一定の理解を持つことができますが、そのような世界で物理量や量子状態が変化しているという概念は、一般的な時間の流れとは異なるものであるため、理解するのは困難でしょう。
通常の時間は、過去から未来へと流れるものであると考えられていますが、ビッグバン以前の宇宙には正方向の時間の流れが存在していないと考えられています。そのため、そこで物理量や量子状態が変化しているということは、通常の時間の流れとは異なるものであり、物理学の専門的な知識がなければ、その振る舞いを説明することは非常に困難でしょう。
一般的な時間の流れがない世界で物理量や量子状態が変化しているということを理解するには、物理学の専門的な知識が必要です。そのため、物理学の専門的な知識がない人が見た場合、通常の時間の流れがあるかのように錯覚してしまう可能性があります。
(x,y,z)についてxとyまでは普通の平面座標として、zを電束密度の値でとったグラフ=曲面だよ。電束密度=f(x,y)ということで平面座標ごとにプロットして得られる曲面。
もとをたどればchatgptのこの回答から始まってる。
電束密度を真上から見て特定の密度間隔ごとに線を引くことは、等電束線と呼ばれます。等電束線は、単位時間あたりに垂直な面積を通過する電磁力線の本数が一定となる曲線です。一方、電気力線は、電場の方向を表すベクトル場として表現されるものであり、電束密度とは異なる物理量です。
電気力線と等電束線は、一般には異なる曲線となります。ただし、等電束線の近似として、ある一定の密度間隔ごとに電気力線を描くこともできます。この場合、等電束線と異なり、電磁力線の本数が一定となるわけではなく、密度が一定となる線となります。しかし、このような描き方は、本来の電気力線の性質を正確に表現するものではなく、注意が必要です。
こういう意見をよく見るけど、個人的には「たかが絵」という言い回しが「絵」をバカにしているとはあまり思わない。この感覚は説明するのが少し難しい。
一つのありがちな説明として、「現実の方がよほど影響力があるだろう」という意味で「たかが絵」という言い回しが使われるのだ、と言えば、説得できる人も少なくないだろう。私もフィクトセクシュアルなので、そのような説明は嫌いじゃない。しかし、ここで私は、一人の「オタク」として、「たかが絵」という言い回しを擁護したい。
私は「オタク」である一方、「たかが絵」に入れ込むこと、熱を上げること、時間や金銭を(自身の生活が崩壊するレベルまで)注ぎ込むような、極度な「オタ活」には否定的だ。ガチャやブラインド商法のような売り込み方も嫌いなので、たとえ推しアニメや推しキャラのグッズでも、そのような売り方をされると意地でもお金を出したくない。
私にとってそれは、どこまで言っても「たかが絵」だ。
それはなぜか。
さて、私が「たかが絵」を好むのは、「そのヒューム値が低いから」と説明したい。
ヒューム値とは、SCP財団の創作設定で使われる、架空の物理量だ。それはしばしば「現実度」と説明されるが、ヒューム値の高い実体はヒューム値の低い実体へ自らの「現実」を押し付けることが出来る、らしい。なかなか面白い設定だと思う。
つまり、私は「たかが絵」を鑑賞する時、そこに「たかが絵」を見るのではない。そこに「私自身の現実」を見るのだ。
私は結局のところ「私自身」が好きなのだ。実際、私はいくらかオートセクシュアルの傾向がある。
https://twitter.com/Kaworu911/status/1462797280218546176?s=20
「マンガはひとつの読みしかできない」と東京都の役人が愚かしいことを述べたことがありましたが、どんな表現でも複数の「読み」があり、解釈があり、誤読が発生します。百人の読者がいれば百の脳内で百の物語が生まれます。最多数派は「作者の意図」に近いクラスターを形成するにしても完全一致はない
私は、これこそが「たかが絵」の本質であり、それ故に尊い文化的営みなのだと信じている。
それは存在しないぞ。少なくとも物理で言う意味での「量子化」は、サンプリングやスペクトル分解とは全く違う構造。
サンプリングとスペクトル分解が同じではないかと思うあたりかなり鋭いかもしれないと思うので、何かを感じ取ってるのかもしれないけど、そこはもうちょっと詳細を聞かないと分からない。
物理で言う「量子化」の結果はハミルトニアンとか物理量ごとの(無限次元空間に作用する)線形作用素が得られて、それは要は行列みたいなもんなので、そいつのスペクトル分解というのはある。
だからいわゆる「エネルギー準位の離散化」とかそういうものが出てくる。(いやもちろん連続スペクトルの場合もあって、それは無限次元ヒルベルト空間の可分性とかに関わってるんだけど…)
インターネットを知の集積とみていた時代の発想には、データの物理量って概念がなかった。
テキストだけがデータみたいな発想で、動画を配信してどうこうみたいなことを具体的に考えてなかったから、ストレージと回線が数万倍レベルで大きくなってもまだ足りてないなんて思いもよらなかったし。
同じ理由で、検索できないデータを閲覧するのに時間がかかる限界、全てのデータを集積するサーバーを維持し続けるなんてコスト的に不可能って限界のことを考えていなかった。まさか光速度が理想の速度に足りてないなんて。
そりゃ雑談も論文もを全てまるまる集積してデータベースにして全て検索かけてふるいにかけることができたら、きっと知の集積が完成したんだろうね。
でもそれは無理だった。
寝れない。寒い。それでスマホをいじっていたらこういう記事が流れてきた。
この宇宙の時空はスムーズなのかチャンキーなのか https://twitter.com/Kyukimasa/status/1197488567162789889
おれは化学系なのでこういう問題については口を出した事はない(我々の扱う領域ではほほ確実である)が、分析機器の精度が上がっていけば最終的には全部チャンクになるのが当然なのではないかという気がしてならない。
だってハイゼンベルグの不確定性原理によれば二つの物理量を同時に測定できないんだからそもそもスムーズであるという結論は出せないよね。というか一見スムーズであっても解像度を上げて尚スムーズであるという保証はないよね。
そう考えると冒頭の「この宇宙の時空はスムースなのかチャンキーなのか」という問いかけは、無意味で、「どの程度にチャンキーなのか」が問題となるのではないか。
それに記事後半の「γ線バーストを拾うタイミングを厳密に計測する」、それも複数個所で、というのはそれが可能なら面白いかもしれないが実行してどのくらいのデータが得られるか、となるとかなり怪しいのではなかろうか。