はてなキーワード: ウルスラとは
ドイツのネオナチ活動家、ウルスラ・ヘードヴィヒ・メタ・ハーバーベック=ヴェッツェル(ウルスラ・ハーバーベック)氏が2024年11月20日にお亡くなりになられました。96歳でした。
Germany: Inveterate Holocaust denier Haverbeck dies at 96 – DW – 11/21/2024
世間的には「ナチスばあちゃん」としてよく知られており、かなりの高齢でホロコースト否定の主張を公に行って、逮捕を繰り返していた人として有名でした。刑法の民衆煽動罪の条項にきっちりジェノサイド否定の禁止を謳う項目のあるドイツで堂々とホロコースト否定の主張を行う人でした。
日本ではハーバーベック氏の逮捕がニュースになると、「何もそんな高齢の人まで逮捕しなくとも良いのに」という反応が多かった様に思われますが、推測ですけれど彼女もそう思われることを狙っていた様にも思えます。自分が高齢であることにより、宣伝効果があると思ったのかもしれません。確かに、彼女の逮捕の事実は何度も世界中にニュースが配信されました。ハーバーベック氏への支援者も多かったし、彼女はそれらの支援者に煽られていたのかもしれません。
しかし、彼女の主張はめちゃくちゃだったことはあまり知られていません。
「600万人もアウシュヴィッツのガス室で殺されたなんて嘘っぱちだわ!」
600万人もアウシュビッツのガス室で殺された、だなんて説はありません。アウシュヴィッツでの犠牲者数は戦後から色々な説がありましたが、アウシュヴィッツ博物館の歴史部門の主任が歴史学的にはほとんど初めてとなる入念な調査を行ったところ、110万人(〜150万人)と推計され(1990年頃)、現在も広く認められています。ホロコーストでのユダヤ人の犠牲者数は概ね600万人とされていますが、その内訳は大雑把には、アウシュヴィッツやその他の絶滅収容所で概ね300万人が殺され、ソ連を中心に、ナチスドイツの移動虐殺部隊(アインザッツグルッペン)が主体となって100〜150万人を殺害、その他の強制収容所などで概ね50万人、ゲットーなどその他の場所で概ね100万人程度とされています。なお、600万人という数字は、人口統計的に算出された、戦前戦後のユダヤ人人口の差によるものであって、ホロコースト否定派がよく言う様な「事前に決まっていた数字」なのではありません。
他にも、
「アウシュヴィッツは単なる労働収容所だったのよ。絶滅収容所だなんて嘘っぱち!」
などと、否定論に都合のいい当時の資料だけを用いた否定説を主張したり、
(※アウシュヴィッツ収容所は、元々は強制収容所としての機能しかありませんでしたが、のちにユダヤ人を大量殺戮できるガス室を設置した絶滅収容所としての機能も併せ持つことになります)
「ユダヤ人はドイツに宣戦布告したのだから、ドイツはユダヤ人を強制収容所に合法的に捕虜として抑留できたのよ!」
などと、当時の新聞に「ユダヤ人がドイツに宣戦布告!」と修辞的に書いてあっただけで、当時国を持たない「ユダヤ人」が宣戦布告などできるわけもないのに、そんな馬鹿げたネオナチの主張を真に受けて堂々と主張したり。
(※これはナチ党が政権を獲った後、ナチ党(主にナチ党の私設部隊だった突撃隊SAによるもの)によってドイツのユダヤ人商店などに対する暴力的な行為が行われたことに怒った英米のユダヤ人たちが、ドイツ製品の不買運動を始めたことを「ドイツに宣戦布告」と書いただけのことだった)
ともあれ、2018年にはホロコースト否定の世界を事実上牽引してきた様なフランスのロベール・フォーリソンも亡くなっており、その他大勢の古株の修正主義者も他界、ハーバーベック氏も逝去されることにより、一つの時代が終わった感があります。ホロコースト否定者は米国を中心に今でもいっぱいいますけれど、中心となる勢力はほとんど力を失っている様な状況で、今後は単なるよくある陰謀論の一つとして生き延びるだけにとどまるだろうと予想されます。
前回はこちら
https://anond.hatelabo.jp/20200911202150
精神的に不健康な作品・コンテンツの例として、青年向け漫画も取り上げる予定だった。もつあきさんと無望菜志さんと朝凪さんを取り上げようと考えていた。
迷った挙句に書かないことにした。男性しか読んで楽しめないものは書くべきではないと考えたからだ。かといって、私がボーイズラブの世界に足を踏み入れるわけにもいかず。
その代わり、ブクマコメントで要望のあった、精神的に健康なコンテンツを取り上げてみようと思った。
各編ひとつずつ選んで紹介する。ひとつにつき1000字程度。たまにネタバレをする。
久しぶりに読み返して、精神的に不健康な作品ってそもそもどんなものなのか?と自らに問いかけることになった。
これは面白い。「何も聞かずに読んでみて!」と無条件で人に勧めることができる数少ない漫画だ。
火の鳥。生き血を飲むと不老不死になる。彼女(?)は人間世界を見守っている。たまに人間に捕まえられて血を取られたり、稀に自分から血をあげることもある。その血を巡ってドラマが繰り広げられる章編もあれば、そもそも生き血を飲みたいという展開のない章編もある。
精神的に不健康な描写が数多くある。不老不死がテーマなだけに理不尽な死も多い。エロもあるし、グロもある。昔の漫画なのでよくない言語表現もある。
でも、読んでいるうちに何が何だかわからないまま時間が経って、読み終えると心が静かになっている。何も考えられない。心が作品に持っていかれる。
前々回の記事で、『完全なる経営』から読み取ることができる、精神的に健康な人間の要件として以下の5つを挙げた。
・今の状況をありのままに捉え、不確実な状況でも耐えることができる
・夢中になれる物がある
火の鳥に出てくる主要人物は、このいずれかを必ず持っている。持っていないこともあるが、成長とともに持つようになる。
どのシーンも主人公に厳しい。安息の時はない。あったとしても理不尽に打ち砕かれる。各編の主人公には欲しいものや、なりたいものがある。それらを目指して戦い続ける。
彼らが生の終わりを迎えた時、死の跡には必ず何かが残っている。
精神的に健康/不健康な作品を分かつものは、破壊と創造のバランスなのだと思う。精神的に不健康な作品やコンテンツは、最後は何かが崩壊して終わる。対して、精神的に健康な作品というのは、最後に何かが創造される。
物語の過程で、登場人物が絶えず営為を繰り返している。だから読者の心に爪痕が残る。
精神的に健康になりたいのなら、土日の朝にやっているアニメを見るのが近道かもしれない。
人として正しい道へと導いてくれる作品が多い。
プリキュアはその筆頭だろう。プリキュア作品を見た児童は、正しい人格の在り方や、仲間のために何をしてあげればよいか、敵に対してはどのような態度で接すべきかなど、社会生活を営むうえで大事なことを学べる。
大人が視聴すると、忘れかけていた大事なことを思い出させてくれる。
今やっている『ヒーリングっどプリキュア』だと、15話がよかった。のどかとラビリンがあることをきっかけに喧嘩となり、冷戦状態になる。なんというか、リアルなのだ。ラビリンが問題行動を起こすきっかけも、のどかが怒った理由も。ケンカ中の態度も。
イザという時にケンカが裏目に出てしまう。信頼関係がなくなったせいで〇〇に失敗する。
ラテの仲介によって二人は仲直りするのだが、これもまたリアルだ。現実でも、こんなやり取りを見たことのある人がいるのではないか。
創作の世界に生きている人間を、現実に生きているように描く。これができるのは一流の作品だ。当たり回はいくらでもある。騙されたと思って是非視聴してほしい。
(余談)
大人が児童向けアニメを見ても面白くないという意見もある。特に作画。児童向けアニメというのは、1年間放送する関係で1話当りの予算が少ない。作画がよくないイメージが強いのではないか。
その点は安心だ。ハートキャッチプリキュア!の辺りから予算が上がっている(ような気がする)。それまでのプリキュアシリーズというのは、月に一度は作画が崩れてプリキュアの顔がおっさんになるという事態が生じていた。
いい時代になった。ただし弊害もある。スタッフがお気に入りのプリキュアが贔屓されるようになった(※今は特定のキャラが贔屓されることはない)。個人的意見になるが、キュアムーンライトの変身時の作画枚数が少ないのは、キュアサンシャインの変身バンクを盛大にするために暴走したスタッフのせいだと思っている。
プリキュアシリーズがたくさんありすぎて選ぶのがしんどいと思われた貴方には、私が選んだ大人向けのプリキュアを紹介させてもらう。作品紹介は最小限に留めている。
キャラデザは子ども向け。物語はシリアス。ファッションショー回にスタッフの愛を感じる。
本物の友情を描いている。硬派で軟派。中学生なのに色気がある。
男の子向け? 保守寄りの価値観をベースにしている。お笑い描写に定評がある。
★Go!プリンセスプリキュア(2015年)
誇りや気高さ、心の強さを描いている。みんな大好きキュアトゥインクル。
少女の友情がメイン。スイプリに比べれば甘々な感じ。最後の方は泣ける。
フリーゲームだ。一時期話題になったので知っている人もいるだろう。
主人公やヒロインは、病気や障害を持っている。主人公である中井久夫は、ある時に心臓病であることが判明し、30まで生きられるか怪しいという状態で物語がスタートする。
ヒロインの障害は様々だ。目が見えない子、話すことができない子、足がない子、手がない子、火傷のある子……。
この作品の、いったい何が精神的に健康なのかといえば、キャラクター同士の人間関係の深みを追体験できることだ。
外国人の有志が作ったゲームなので、そのあたりの深みはとんでもない。愛情で繋がるシーンが感動的なのと同じく、信頼が消えるシーンもまた同じくらいの衝撃で心を抉ってくる。
笑美のルートがよかった。外国人から見たときの模範的な恋人同士ってこうなのかな、というのが伝わってきた。個人主義・秘密主義を貫いていた笑美が、心の弱さを久夫に見せられるようになる過程に癒された。
テキスト量が凄まじいゲームなので、ホームページを読んで感じるものがあった子をプレイするのがいい。
某動画サイトではお馴染みのシリーズであり、2011年頃までは定期的に動画投稿をしていた。
このシリーズは、各作品の制作時期によって印象がてんで異なる。
初期の作品は見るに堪えない。まさに精神的に不健康だ。理不尽な死は基本であり、人権侵害を地でいっている。実際に見てみるのが一番早い。
初期に投稿されたのは、邦子が子どもの頃に作ったと思われるものだ。キャラクターはとりあえず雄叫びを上げ、とりあえず戦闘に突入し、とりあえず死ぬ。そんな作品としか言いようがない。ただし、作者のセンスが飛び抜けているので結果的に面白いストーリーになる。
邦子が大人になってから作ったと思われる作品は、初期のものとはまるで違う。理不尽な死が基本であるのは変わらないが、以下の特徴が挙げられる。
・視聴者のテンションの変化を読んでプロットを組んでいる。ハリウッド映画を研究している。
・真面目でひたむきなキャラが無残な死を遂げるのが減った
高橋邦子は大人になってしまったのだと思う。新しめの作品を視聴すると、このことがよくわかる。
精神的に若くないと、ああいう作品を作るのは難しい。例えば、会社員として適合してしまうと、そっち方面のアイデアが湧いてこなくなる。
これまでに30ヵ国語以上に翻訳され,1000万部以上を売ったとされる。架空の町マコンドの創設から、その滅亡に至るまでのブエンディア一族の歴史が描かれる。
ブエンディア一族は、みな自らが決めた使命や、本能のままに生きている。長生きした者もいれば、短命だった者もいるが、誰一人例外なくキャラクターが濃い。
キャラの立ち方について、「根が明るい」とか「聡明」とか「向こう見ず」とか、そういう言葉で表すのではなく、具体的なエピソードで表現している。
読了後は放心状態になる。静かな気持ちの中で、この本を選んでよかったという感慨を得ることができる。
大衆向けの作品でありながら純文学でもある。思わず吹き出してしまうシーンもあれば、「お前ここで終わるんか…」みたいに物悲しいシーンもある。
一番のおススメは文章だ。一文字一文字が読書中の脳に突き刺さる。以下の例はほんの一部だ。
屋敷のなかが恋であふれた。アウレリャノはその恋心を、初めも終わりもない詩にうたい込めた。メルキアデスからゆずられたざらざらの羊皮紙や浴室の壁、自分の腕にまで詩を書きつけた。あらゆるものに、変身したレメディオスの姿を認めた。午後二時の睡魔をさそう風のなかのレメディオス、薔薇の穏やかな息遣いにつつまれたレメディオス、蛾の浮いた静かな水時計のなかのレメディオス、明け方のパンの匂いにただようレメディオス。いたるところにレメディオスがいた。永遠に変わらぬレメディオスがいた。 P.73
ホセ・アルカディオが寝室のドアを閉めたとたんに、家じゅうに響きわたるピストルの音がした。ひと筋の血の流れがドアの下から洩れ、広間を横切り、通りへ出た。でこぼこの歩道をまっすぐに進み、階段を上り下りし、手すりを這いあがった。トルコ人街を通りぬけ、角で右に、さらに左に曲り、ブエンディア家の正面で直角に向きを変えた。閉っていた扉の下をくぐり、敷物を汚さないように壁ぎわに沿って客間を横切り、さらにひとつの広間を渡った。大きな曲線を描いて食堂のテーブルを避け、ベゴニアの鉢の並んだ廊下を進んだ。アウレリャノ・ホセに算術を教えていたアマランタの椅子の下をこっそり通りすぎて、穀物部屋へしのび込み、ウルスラがパンを作るために三十六個の卵を割ろうとしていた台所にあらわれた。
「あらぁ大へん!」とウルスラは叫んだ。 P.142~143
モンカダ将軍は起きあがって、シャツの裾でべっこうの分厚い眼鏡をふき、次のように言った。「恐らくね。しかし、わたしが気にしているのは、銃殺されるかどうかということじゃない。結局のところ、われわれのような人間にとっては、銃殺は自然死と変わらないんだから」。 P.172
現実世界ではありえない現象を何度も何度も描くことで、読者に対してこういう世界なんだなと思わせる。慣れてしまうと、どんな不思議な情景が現れても自然に読める。この小説はマジックリアリズムの極致にある。
時間のある人は図書館で手に取ってみよう。時間のない人はほしい物リストに放り込もう。
イラスト形式で人生に役立つ知恵を提供している。あなたも動画を見たことがあるかもしれない。
このコンテンツも、高橋邦子と同じく、作者が人間的な成長を遂げたタイプだ。
初期の頃は、インターネット上の疑問やネタを集めて電撃ランキングやその他まとめ的な成果物を作り、電ラン子というキャラクターに解説させるスタイルだった。
だが時を経て、そういったランキングで使うテーマや疑問、ネタを自らの手で作り出すようになった。
そこまで珍しい作風ではない。ほかにも、「ネタざんまい」や、「これ本当かも」、「アシタノワダイ」、「セカイノフシギ」など、イラスト形式で日常・非日常の疑問を解説するページはけっこうある。
フェルミ研究所が、類似コンテンツよりも抜きん出ているところ――精神的に健康な要素というのは、ひとえに笑いだ。
他に比べて、フェルミ研究所が一番笑えるし、絵も可愛いし、ネタが豊富だ。他のコンテンツは、ストーリーの傾向がシンプルな意味で「精神的に不健康」である。
一応はディスる内容なので、どのコンテンツがこういう内容で精神的に不健康である~といった具体的な説明はしない。
一般的な傾向として、ストーリーが語られる中で不幸になるキャラが存在している。そんな、不幸になった人物をラストに描くことで、視聴者に「ざまあみろ」という感情を吐き出させる。
精神的に健康な人間は、そういったコンテンツを好まない。再生ボタンを押したとしても、臭いを感じた時点でページを閉じる。
フェルミ研究所にしても、初期~中期にかけてはやりたい放題やっていた感がある。
恋愛を扱った回だと、童貞を煽るようなナレーションを連発したり、女性キャラが恋愛に挑んで失敗した男性に辛辣なセリフを吐いたりしていた。
今では、そういった描写は少ない。むしろ、恋愛に挑む若者を応援するような作品を作るようになっている。
青年向け漫画で活躍している。性別非公表。一般的なエロ漫画に比べて絵が独特なので見たらすぐにわかる。
男女別の作品を好む傾向として、「男性はシチュエーションに萌え、女性は人間同士の関係性に萌える」というのがある。
このふたりはこういう関係で、あの時こんなことがあって、だから今はお互いにこう思っている、といった情報がさりげなく挿入されている。読者はこれから行為をする者同士の気持ちを知ることができる。
では、肝心の行為をしているシーンはどうかといえば、これがまた…略
はてな匿名ダイアリーなので、あまり詳細に書くことはできない。一般的な男性であれば満足できる。「スミヤでは抜けない」といった意見もあるが、漫画をよく読んでいないからだ。
肉々しいタイプの絵柄ではないので、作中の行為だけを見て興奮するのは難しい。ふたりの関係性を理解したうえで楽しむのが筋といえる。
男性向けのエロ漫画において描かれる女性というのは、実は女性ではない。女の姿をした男だ。最初は嫌がっているものの、性的な興奮によりスイッチが入り、快楽に抗えなくなる。最後は自ら求めるようになる――愛よりも肉を優先せざるをえない。それが男だ。
スミヤの作品は純愛が多い。ふたりの愛情を描いたうえで行為を表現する。最初に愛情がない時もあるが、ラストではお互いに何らかの感情が芽生えたことが示唆される。
それらに触れて、多くの感情を得ることができた。もちろん、他の作家からも得られるものは多かったけれども、ここでスミヤを紹介したのは、「これって男性からも女性からもウケるんじゃないのか?」と私が勝手に思ったからだ。面白くなかったらごめんなさい。
※年齢や年齢差等は考えないものとする
ナウシカ:超常的過ぎてついていけない
老人になった時にじいと姫様プレイならしたい
クシャナ:血塗られた道過ぎてついていけない
大怪我して死ぬ時があったら殿下の腕の下で鼻歌聞きながら死にたい
ドーラ:傑物過ぎてついていけない
いい女と言うべきなのかもしれないがあれについていくバイタリティが自分には無い
ちひろ:年齢は考えないといったがちひろやサツキやメイはさすがにちょっとな シータもだけど
キキ:リアルなキツさを感じる あれにアプローチし続けるトンボはちょっと不自然
大人でもああいう人に辛抱強くアプローチするの結構辛いのに十代でそれができるトンボは大物過ぎ
ウルスラ:個人的にアート系はもういい 友人としてはよさそうだが結婚したら一緒に居る意味を見失いそう
マダム・ジーナ:人間味の無い男のロマンって感じ 結婚したらどうなるかとか考えられない
エボシ御前:ジーナと同じくなんか人間味を感じないキャラ 「凄い女リーダー」以外の情報がないっつーか
フィオ:すき
わかります。
金曜ロードショーでやってる時はウルスラの家に泊まるあたりからしか見れません笑
年取ったら見れるようになるかなーと思っていましたが、まだまだダメそうです
もともとジブリで育った人間だ。小さい頃ぎゃん泣きする私にジブリを見せたら泣き止んだらしく、味をしめた母親はずっとジブリを流していたらしい。
トトロ、ラピュタ、ナウシカ、紅の豚、思い出ぽろぽろ、ぽんぽこetc
歳を重ねて観るたびに新しい発見があり、今も話の内容は更新中。
でも魔女の宅急便は別。キャラもストーリーも好きなのにあまり観たくない。
トンボが1人の時は話せるキキが、その他大勢と一緒にいるトンボには冷たくしてしまうところ。
大雨の中仕事をして服が濡れてパーティの待ち合わせに行かないところ。
キキが魔法を使えなくなるところ。
観ていると胸がかゆくなる。ひーつらい観てられないと歯がゆくなる。これはあれか。上手くいかないキキと自分を重ねてるのか。見た当時の感覚がまだ残ってるのか。
宮崎駿がまだ声優をちゃんと起用していたという作品として魔女の宅急便が挙げられることがあるが、高山みなみの声はあまりキキの見た目に完璧にハマってるという感じではない。そのことはとくに冒頭から前半にかけてのシークエンスにおいて顕著で、画面に映るキキから想像される声と、実際に発する声を比べてみると、少し低くハスキーに聞こえるはずだ。高山みなみはもともとウルスラ役として入ったのをキキとの二役に抜擢されたという経緯からもわかる通り、高山みなみの声とバッチリ適合しているのはウルスラの方だ。ウルスラのようなキャラクターにとって、頼りになるお姉さんの声がうまい高山みなみはとてもマッチングしている。一方で、キキのような幼い少女については、より幼い声を出す声優の方がマッチしているように思えるはずだ。
しかし結局のところキキは、映画全体を通して高山みなみでしかあり得ないという感覚に貫かれている。なぜかといえば、キキとウルスラは表裏一体であるキャラクターだからだ。そのことはこの映画の山場の一つにもなっている。かつてキキと同じように悩んでいたウルスラとの出会いと交流が、キキの成長を支えていく。高山みなみが二役で演じきった山小屋のシーンは宮崎駿のアニメの中でも1,2を争う名シーンと言っていいだろう。
これは少女の可愛さを愛でるために「少女らしい」声質の声優をあてがってしまうような、オタク的想像力からは生み出し得ない価値だ。ここには後の宮崎駿作品でオタクから非難されるような配役と同じ思想がある。
15年ぶりくらいに見た。
最後のトンボ救出シーンは不要論もあるらしいが、やはりあったほうがいいでしょ。
このシーンにまつわる素敵なピースが数多くある。
事故を写す白黒の家具調テレビだったり、テレビにかじりつくバーサさんの静かでゆっくりとした興奮ぷりだったり、「夏にたまにこんな風がふく」という窓をゆらす風の描写だったり。デッキブラシのオヤジや、デッキブラシで飛行するキキを写すために画面に入ってくる街の描写。
どれも愛おしい。
チラというよりパンモロシーンも結構あって、これはいかんでしょと思った。
中身が成熟しつつあることを考えると、13歳のパンツはやはりだめだよ、ぱやお。
少女・幼女はぱやおが世界で最も愛するものだから、まあ仕方がないとして。
ナウシカの婆様、ラピュタのドーラ、トトロの「めーいちゃーん」のババア、魔女宅の奥様、紅の豚で働く老婆。
とにかく少女か老婆なんだよ、女は。
ハウルでは主人公がその2つの属性をもつわけで、ぱやおの女に関するある種のこだわりがこの点にあると見て間違いないんじゃないのって思った。
フェミニストに嫌われるわけだ。
上野千鶴子が言うには、13歳は初潮の来る年齢であり、黒い魔女服がつつむキキの体は女性性を帯びてうんちゃら…
というのには、うなづくことはできなかったが。
今回は2度再生したわけだが、1回目は普通にまわし、2回目は人物や筋を見ずに背景の書き込みだけを見た。
圧倒的に美しいな、街も海も空も緑も。
ウルスラが「夏の間は(山小屋に)いるつもりだから」と言ってたり、トンボが「夏休みの間に飛ばすんだ」みたいなことを言っていたので初めて認識した。
お友達の感じはいかにも夏休みを謳歌する富裕層のクソガキドモであるところは記憶にあったが、トンボの「家」そのものが写っていることに改めて気づいた。
あの家は金持ち。
パン屋のオソノさんちや、何度か映る港湾労働者の家とは明らかに違う階層。
いやー映画っていいですね。