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2020-09-22

徳三郎の駅前屋台

駅前で徳三郎が五平餅を売る姿は、戦前の果名村の風景のものであった。もともとは村の者ではなかった彼が屋台を営む姿は年月とともに周囲へ溶け込み、その存在に疑問を抱く者はもはやなかった。

木造駅舎の改札を出ると、小さな広場の向こうに商人宿がある。その軒先に徳三郎は質素屋台を据え、七輪に火を起こし、金網に五平餅を載せて客を待つ。

森深い谷間に取り残されたような果名の駅にあえて降り立つ人々は当時それほど多くはなかった。早朝から町で用を足して帰ってきた村人を除けば、大きな荷物を担いで山間の村々を歩いてきた行商人や、近隣の温泉場から渓谷へ遊びに来る湯治客くらいであった。

そのような駅の前で生業を営む必要が何処にあったか、餅を買いに訪れる村人が冗談めかして尋ねたことは一度や二度ではなかった。その度に徳三郎は含羞めいた笑みを穏やかに浮かべるばかりであったという。

柔和で笑みを絶やさなかった徳三郎には村内で客がついたものらしく、屋台は続いた。だが五平餅だけで生計を立てることは難しかったのか、同じ屋台支那そばも売り始めている。当時はまだ新しい食べ物であった支那そばを作ることのできた徳三郎は、都会育ちであっただろう。村に唯一残されている屋台写真には「羅宇麺」と書かれた立札が見える。徳三郎の作る支那そば温泉客のあいだでも評判を呼んだものらしく、当時の温泉街の冊子には「果名ノ羅宇麺」として紹介されている。

だが屋台の繁盛は徳三郎の逮捕により終焉を迎える。ある晴れた日、駅から出てきた男女二人連れの姿を認めた徳三郎は、広場で女に襲いかかった。馬乗りになって首筋に千枚通しを突き刺そうとしたところで村人に取り押さえられている。警察の調べに対し徳三郎は「許せなかった」とだけ語り黙秘を貫いたとされる。徳三郎が村にやってくる前の恋愛事件に起因する私的怨恨説が村内でまことしやかに取り沙汰されたが、真相不明なまま村は戦時体制突入していった。

戦後まもなく、徳三郎の駅前屋台一時的に復活している。神社の軒下で寝泊まりしている人物が徳三郎であることに気づいた自作農家の幣原元彌氏が徳三郎の身柄を引き取り、再び屋台を持たせた。徳三郎の人となりを知っており、彼が作る支那そばの味を懐かしんだ幣原氏が「おめが羅宇麺をまた食わせてくれや」と懇請し、元の場所屋台を設置する資金援助を申し出たものであった。

近隣の温泉地は進駐軍保養地として接収され、果名村にも米兵ジープが度々姿を現すようになった。米兵から手に入れたコカ・コーラ支那そばスープに隠し味として入れる手法を徳三郎が考案したのはこの頃であるとされる。彼が生み出した味は、再起を助けた幣原氏への感謝を込めて「おめが羅宇麺」と名付けられ、中部地方を中心に戦後日本に広まった。



(『果名村史 近代編』、果名村史編纂委員会、2018、p.98-101)

  • うわぁ ラストで台無しやぁ...

  • 果名温泉の泉質は硫黄泉で酸性度は高く石膏分を含み、典型的には乳白色の湯を湧出し、皮膚疾患や自律神経不安定症、冷え性に効くとされる。現在の果名温泉にあたる場所で湯治が行...

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