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2011年10月31日の日記

2011-10-31

http://anond.hatelabo.jp/20111031215258

それだとせっかく出てきたミルキとヒソカが関わってこない。

キルアが3つのおねだり(軽い)を聞いた直後にヒソカ乱入してアルカを瀕死に追い込む。

お願いは必然的にアルカの再生になって、次のおねだりが重くなってしまった…という展開を一つ挟むんじゃない?

投げ売り堂の10月の結果と雑感。

今月も増田への投げ売り堂10月の結果と雑感を書き込みます今日は長めになりそうで。

10月9月Google Analytics データ

目名10月9月増減
ユニークユーザー45241983+2541
ページビュー187368777+9959
平均ページビュー1.401.60-0.20
平均滞在時間2.472.59-0.12
新規訪問数27.45%29.90%-2.45%

詳細はいものように以下の Analytics の PDF に書いてあります

投げ売り堂の10月の Analytics PDF

雑感。

今月は引き続き Amazon仕様変更の対策と若干の機能追加に終始しました。

Amazon仕様変更殆ど問題無く修正でき、エラー等もありませんでした。

Amazon Product Advertising API 仕様変更対策(続き)

フィギュアだけ対応してたのですが、DVDBDゲーム対応しました。

特撮DVDBDは「keywords」ゲームは「Node」でそれぞれ10ページづつ商品を辿るようにしています

ゲームはさほど商品の差は感じませんでしたが、DVDBDは商品数が1/4くらいに・・・

個別ページで Amazon レビューが確認できるように。

個別ページで Amazon レビューを確認できるようにしました。

はいえ、API からそのまま iframe に張っているだけなのでいつでも出せるような機能

今回の仕様変更で出品者情報殆ど取れなくなった分、他の商品の情報を載せようと思い設置しました。

今月の予定

一応予定しているのが「アニメDVDBD」復活と「PC関連商品」を新たに追加し

cookie で保存の表示商品を切り替えるオプションを設置する予定です

今後はこのサイトに置いても需要がありそうな商品の種類を合間を見て増やしていこうと思います

後はやるやる言ってるキーワード検索の改修・・・

結局、私は父が嫌いだったなと思った

私は父の遺品の携帯電話に触れるのも嫌だった

さすがに父が亡くなった時は泣いたけど、それは父を失った悲しみというより、私自身の後悔から来た涙だった

の子供に嫌われたまま死んでしまった男の人生はどんなだったか想像して泣いた

もしもこんなことにならなければ、いつか私と父が和解することはあったのだろうかと何度も考えた

でも、どんなに想像を巡らしたところで、それはもう絶対に訪れることのない場面ばかりだ

それが悲しくて泣いた


私は、自分自身が父のことをこんなにも嫌っていたのに、人一倍、人から嫌われることを恐れている

私は、自分が人から拒絶された時、真っ先に父のことが脳裏にうかぶ

一度、人から嫌われてしまったら、もうその人との関係は終わりだと思う

取り返しがつかないと思う

それがもし、私が愛した相手だったら

私は愛しているのに、相手が私を嫌いになってしまったら…

私が話しかけても相手は無視をする

私が近づいたら相手は一歩引く

私が追いかけたら相手は必死に逃げる

耐えられない

でもそれは、全部、私が父にしてきたことだった


嫌われたくない

父のようにはなりたくない

私は父と似ていると思う

私も、結局最期には嫌われてしまうんじゃないかと思ってしま

そうしたら私も死ねばいいのかな

父のように死ねばいいのかな

そろそろ「会いに行けるアイドル」を超越して「抱きに行けるアイドル」と称した風俗嬢歌手ユニットとか出てきても良いころだと思うんだが。

からスティーブ・ジョブスへの弔辞

A Sister’s Eulogy for Steve Jobs

モナ・シンプソン (Mona Simpson)

2011年10月30日

私は母子家庭一人っ子として育てられました。

しかったので、そして父はシリアから移民だと教えられていたので、

父については、オマル・シャリフのような人ではないか想像していました。

裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。

のちに面会したとき、私は、父は理想燃える革命家で、アラブ新世界を導く人だったのだと、

から転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。

私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。

二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。

25歳になってその人に出会いました。

それが兄でした。

私は当時、ニューヨーク処女作を書こうとしていました。

他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌仕事をしていました。

ある日、弁護士が私に電話をかけてきました。

その弁護士は、上司健康保険をねだるような、カリフォルニア中流階級の娘である私に、

「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。

同僚編集者たちは騒然となりました。

時は1985年、そこは新興文芸雑誌の事務所、

それでも私は大好きなディケンズ小説の筋書きに放り込まれたようでした。

弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。

一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ

私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズ後継者

何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。

初めて会ったときスティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。

オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブユダヤの顔立ちでした。

私たちは長い散歩しました。

偶然にも二人ともそうするのが好きでした。

何を話したのかはあまり覚えていませんが、

とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています

彼はコンピュータ企業で働いていると言いました。

コンピュータのことはあまり知りませんでした。

私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。

コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。

Cromemcoという名前でした。

スティーブは、そのときまで待ったのは良かったと言いました。

彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。

これからスティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います

つの期間、合計27年間に渡って、私は彼を知っています

期間を区切るのは年数ではなく、生き様です

彼の充実した人生

彼の病気

彼の死。

スティーブ自分の愛するもの仕事しました。

彼は頑張って働きました。

毎日働きました。

とても単純ですが、本当のことです

彼は散漫の対極のような人でした。

彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。

スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。

彼はAppleを追い出されて、つらい時期を過ごしました。

彼はシリコンバレー指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。

スティーブはそこに招待されなかったのです

彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。

スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。

イノベーターにしては珍しく、スティーブは物事に忠実でした。

シャツが気に入れば、同じものを百枚注文しました。

パロアルトの家には、黒いコットンのタートルネックが、

おそらくこの教会にいる全員分はあると思います

彼は流行や小道具を好みませんでした。

自分と同世代の人が好きでした。

彼の美学はこういう言葉を思い起こさせます

ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの

スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。

彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。

パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーNeXT に通い、

あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。

それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、

ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。

愛について話す時間の長さにかけては、スティーブ女の子並でした。

愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。

はいつも、一緒に働く人々の恋愛生活を気にしていました。

女性が気に入るかもしれない男性を見つけると、

独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。

彼がローリン出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。

「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」

リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族愛情を注ぎ続けました。

彼はどの子にとっても実の父親でした。

リサの彼氏と、エリン旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。

リード卒業パーティに出席した人はみな、リードスティーブゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。

ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。

はいつでも、どこでも発露するものだと彼は信じていました。

スティーブ皮肉や冷笑や悲観とは無縁でした。

私は今も、そのことを学ぼうとしています

スティーブは若くして成功した人でした。

彼はそのことで孤独を感じていました。

私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。

ロスアルトから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。

二人にとって、リサとリードエリンイヴ普通の子供として育てることは重要でした。

彼らの家には押し付けがましい美術品などはありませんでした。

スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、

夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。

一種類の野菜をたくさん。

一種類だけです

ブロッコリー

旬の野菜

簡単な調理。

とれたてのハーブなど、適切なものを適切なだけ。

若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。

ジーンズを履いて待っていてくれました。

家族会社電話をしたときには、秘書のリネッタが

「お父さんは会議ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。

リードが毎年ハロウィン魔女のかっこうをしたがったときには、

スティーブ、ローリンエリンイヴ魔女になりました。

彼らはキッチン改装に取りかかったことがあります

何年もかかりました。

そのあいガレージでホットプレートを使って料理しました。

同じころ建設されていた Pixarビルはその半分の時間で完成しました。

パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。

バスルームは古いままでした。

ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。

スティーブは目利きでしたから。

彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。

何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。

パロアルト自転車屋に行って店内を眺めて、

その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。

そして実際、買いました。

スティーブ謙虚でした。

スティーブは学びつづけるのが好きでした。

彼はある日、育ち方が違っていれば自分数学者になっていたかもしれない、と言いました。

彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードキャンパスを歩くのが好きでした。

最後の数年間、彼はマーク・ロスコ絵画の本を研究していました。

それまで知らなかった美術家を知ってから

未来Appleキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。

スティーブは物好きなところがありました。

イギリス中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッドオースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?

はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。

たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、

きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います

彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム

彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、

ニューヨークタイムズを開いて会社特許の特集をみたとき

こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。

四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブ楽しい人生を送りました。

彼は幸福大事しました。

そしてスティーブ病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。

それまで彼は、パリ散歩するのが好きでした。

彼は京都で手打ちそばを見つけました。

スキーでなめらかに滑降しました。

ドタドタとクロスカントリーしました。

もうできませんでした。

最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。

ですが、私が驚くと同時に彼の病気から学んだことは、

多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。

兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。

彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。

メンフィス病院廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、

そこで座って一休みして、

引き返してまた歩きました。

彼は毎日歩みを数え、毎日より遠くまで進みました。

ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。

あなたならできる」と彼女が言うと、

彼は目を見開いて、唇を引き締めました。

彼は挑戦しました。

いつもいつも挑戦しました。

その試みの中心には愛がありました。

彼はとても直情的な人でした。

その恐ろしい時節、私は、スティーブ自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。

目標をさだめていたのです

息子リードの高校卒業エリン京都旅行

家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。

病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。

看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。

トレイシー、アルチュロ、エラムです

スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき医師はすべてを、氷をも禁じました。

私たちは標準的なICUユニットにいました。

スティーブは普段割り込んだり自分名前ものを言わせたりすることを嫌っていましたが、

このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。

「これが特別治療だよ」と私は伝えました。

彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。

挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。

そしてiPad病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。

新しい液晶X線装置設計しました。

特別さが足りないと言ってユニットをもう一度描き直しました。

妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。

一生のお願いから、頼む、と彼はメモ帳に書きました。

こちらを見上げて、お願いだから、と。

彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。

私たちは自分が何年生きられるか知りません。

スティーブ健康だったころには、その最後の数年にも、

彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。

オランダ造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。

三人の娘はまだ結婚していませんし、二人はまだ女の子です

私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。

私たちはみな、最後には、途中で死にます

物語の途中で。

たくさんの物語の途中で。

ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、

スティーブの死は私たちにとって突然でした。

二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。

どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです

火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。

声には熱と愛情がこもっていました。

同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまたかのようでした。

申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、

私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。

彼がさよならを言おうとしたとき私は引き止めました。

「待って。行きます空港タクシーで行くから。きっと着くから

「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」

着いたとき、彼はローリン冗談を言い合っていました。

毎日一緒に暮らしてきた夫婦のように。

視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。

昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。

そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。

呼吸が変わりました。

つらそうに、やっとの思いで息をしていました。

彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。

これが私が学んだことです

彼はこのときにも努力していたのです

死がスティーブに訪れたのではありません。

彼が死を成し遂げたのです

彼はさよならを言い、すまないと言いました。

約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。

そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。

フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。

彼はその夜を越しました。

ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。

彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。

やらなければならないことでした。

はいまだに、厳しいハンサムな顔立ちをしていました。

絶対主義ロマンチストの顔立ちをしていました。

その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。

山を登っているようでした。

その意志、その使命感、その強さと同時に、

そこにはスティーブ不思議を求める心、

美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。

その数時間前に出た言葉が、スティーブ最期言葉になりました。

それは三度繰り返す単音節言葉でした。

船出の前、

彼は妹のパティを見て、

子供たちをゆっくり見て、

人生の伴侶ローリンを見て、

そして皆の肩の向こうを見ました。

スティーブ最期言葉は次の通りです

OH WOW. OH WOW. OH WOW.

何も考えなくても暮らせる社会を!

みたいな話を見たんですけど、無理でしょー。

理想論とか何とかいう前に、システムとしてそんなん実装できないっしょ。

少なくともオレは無理だ。そんな仕組み思いつかない。

これはこないだ読んだ新書受け売りなんだけど、日本て割とついこの前までそんな感じだったらしいじゃん。

専門家がアレコレさばいて取りなしてくれて、"一般人"はなーんも知らんとのほほんとしてて良い世の中」。的な。

で、それが崩れたわけでしょ。そういう感じだった世の中を支える要素が崩壊して今に至ってるわけでしょ。

こんなん巻き戻しが効くわけが無い。いや巻き戻せたとしてもたぶん同じように崩壊するルート辿るだけなので巻き戻す意味が無い。

じゃあどうするって、なんつーか避けて通れないのがやっぱ個人がある程度なんとかするルートになってくるでしょこれは。

学習して自分なりに真偽の判断を下すちからを培っていくっていうのもあるけど、

それ以上に自分集団心理とかにハマってね?」みたいな自省とか客観的な見直しみたいな能力がまず要る。気がする。

「丸投げ」時代に何を丸投げてきたかって判断と責任を丸投げて来たわけで、何をどこまで誰に投げるのかってのを見抜くちからと、

「投げた」という判断の責任自体はどう転げ回ろうと己に帰ってくるってのをちゃんと引き受けることができるような何かがもう今後無いとダメでしょ。

「引き受けることができるような何か」っていうのは個人の能力かもしれないし単に覚悟とかかもしれないしひょっとして何か社会システムみたいなのが一枚嚙めそうなところでなんか何とも言えない名状し難きところなんですが。

あるいは案外想像力の欠落とかがそこを担ってしまえるのかもしれない。個人的にはそれは勘弁だけども。

http://anond.hatelabo.jp/20111031192301

おいおいまさかその論法でみんなから賛同が得られると思ったのかい坊や

http://anond.hatelabo.jp/20111031210917

サイト管理だって10%もとっときゃなんとかなるんじゃない?

そもそも出版社がやらなけりゃならないもんでもないし

甲斐ない自分への叱咤激励

「昔は楽しかった」 なんて言っちゃうときは立ち止まってるときなんだ。

思い出してみろ!お前の楽しかった昔を。

その時のお前は過去の事なんて気にしてるヒマ無かっただろ。

常に今日明日をより良いものにしようと、ただ一生懸命に生きていたはずだ。

それがどうだ。

今のお前は過去の思い出に浸るばかりで目の前のものから目を背けてはいいか

やりたくないことを先送りにしていないか

昔のお前はそうだったか

しかった頃の自分にも劣るような現状では、あの時のような楽しさなんて味わえるわけ無いじゃないか

いい加減やる気出せよ、やれば出来んだろ。

口だけじゃなくやってきた実績があんだろうが。

下を見るな、上を見ろ。

時間無駄にするな、生産性を上げろ。

大丈夫、お前が選んだ今だ。きっと悪いようにはならないさ。

そうして今お前を見下している奴らを見返してやれ。

無い物ねだりはもうやめだ。

お前自身の選択を信じろ。

道は開けている、閉ざしていたのはお前自身だ。

明日やろうは馬鹿野郎だ、今から本気だす。

http://anond.hatelabo.jp/20111031171751

人間性に問題ある人を現す言葉として やくざと使ったのでは?

仰るとおり、手に負えない相手として「やくざ」という単語を用いています。古式ゆかしきヤクザさんはカタギの人に迷惑はかけないといいますし。

弱い人間が強い後ろ盾を持つ事で「勘違い」してしまうとこうなる、って事ですね。

何かの役に立つとか、何か新商品を開発するとか、新しい技術革新 そういうものが無い世界から、かも

「お客さん」がいる仕事、いい物を作って評価や喜びの声を得る機会がある仕事は、誰もが一度は経験したほうがいいと思うんですよね。

自分はモノを作る世界からそうでない職種に移って、周囲を見るにつけひしひしとそれを感じています

「お客さん」を相手にしたことがない人は自分のお給料の出所を軽んじる傾向があるように思うし。

形として何も残らず工夫の余地もない類の単調な事務職を無目的にずーっとやっていると、プロ意識があるとはどういうことか、自分仕事に誇りを感じるとはどういうことか、を知らずに老いていきかねないなと思うし。

とまあ脱線しましたが、やっぱり最終的には人間性の問題ですよね。

http://anond.hatelabo.jp/20111031200228

単語を構成する文字を間違えるのはありえない、「ねこ」をネカとは間違えようがない、というのはわかるけど

「だわ」って単語じゃないよね?

助動詞の一部「だ」と終助詞の「わ」に分けられるものじゃないの?厳密な用語は知らないけど。

「だは」と書く人々は、きっと「は」と「わ」の働きの違いが頭に入ってないんだと思う。

  

もともとは、数年前に「ほんま(本当に)」を「本間」とあえて変換するのが若者の間で流行ったのと同じように

あえて間違った表記にするのがカッコいい、みたいにして始まったのではないか?と私は推測しているんだけど

今となっては「だは」はアタマの弱い人を見分ける指標みたいになってるのが面白い

 

   

それとは話がズレるけど、カギカッコを正しく使えない人が結構いるのが気になる。

・その時父が「そうだよな」と言ったんですけど  と書くべきところを

・その時「父がそうだよなと」言ったんですけど  (カッコの中身にセリフ以外も入れちゃう)

・その時父が「そうだよなと言ったんですけど、~・・・・ (カッコを閉じない)

  

こんな風に間違えてるのをネット上(小町とか)でちらほら見かける。

推敲してないとかそういう問題じゃない、そもそも用法を理解してないんじゃないか?と思える例多数

アルカの念は愛の能力だよ

シルバ親子は願いの軽重基準を誤解してるよ。

「あの時は億万長者は最高に重かった」とか

「今回はパソコン一台だから軽いだろう」とか

なんとなく早合点して金銭的価値で測ってるよ。


からキルアは予想外にヘビーなおねだりをくらって

体の数箇所持っていかれるレベルの重傷を負うよ。


基準は愛の有無だよ

アルカが願いをかなえるときに見てるのは

実はその願いの利己心や強欲だよ。

「億万長者にしてー」は我欲だったから、対価のおねだりはすごく重くなったよ。

パソコンちょうだいー」もただの我欲から、対価のおねだりはすごく重いよ。


「お兄ちゃんをたかたかいして」の対価が軽かったのは

かなえるのにお金がかからいからじゃなくて、

願いの動機が愛だったからだよ。

あの願いはひたすら弟を思う兄の愛の塊だったから、

かなえるときに重い対価は発生しなかったよ。


「失敗すると最愛の人がミンチになる」がこの能力の真の特徴へのヒントだよ。

最悪なヒントだよ。



以上を踏まえて次週以降の展開をまとめるよ

まずキルアミルキのパソコンの代償として

臓器くれレベルのおねだりをされて引き受けるよ。


願いをかなえるモードになったアルカに、

ゴンを助けてやってくれ!」と頼むよ。

これは大事な友を助けたいという純粋利他心の願いなので

対価ほとんどなしで叶うよ。


更にもう一度おねだりモードになったアルカに

おんぶのような容易なおねだりされて、

思い出などを語りながら3回おんぶを引き受けるよ。


また願いをかなえるモードになったアルカに

「もうこんな能力は消して外で生きてくれ」と願うよ。


そしてゴンは回復して意識をとりもどし

カタ〇状態になったキルアは姿を消し、

正気に戻ったアルカはゴンを恨むよ。

劇中で数年飛ぶよ。

http://anond.hatelabo.jp/20111031171248

実際問題、やつらはそんなに無茶はしないよ。

そう、実際はどうあれ、本当に訴訟だ何だはしないんです。(家裁に行きかけたケースは過去あったらしいけど委細は知らない)

ただ、そういう知識っぽいものを高圧的にちらつかせてしつこくしつこく、窓口の若い子やおばちゃんをいじめ倒す。

とりあえずは客だから訴訟なんかになるわけないと思っていても邪険には扱えない。もっと他にしなきゃいけない仕事があるのに時間けがこそげ取られていく。

近くを通る他の客は不審げに見て行くし、上席の者が出てきても簡単にはひっこまない。邪険にしようものならそれをネタにしてやるぞ、という姿勢アリアリで、とにかく追っ払うのに時間がかかる。結果おばちゃんは無駄に疲れ果てるし、若い子は不必要に落ち込んでしまう。

まぁ最終的にはその人個人の人格性格の問題なんだけど、これをやっているのが『弁護士であるという現実にげんなりした、という愚痴でした。

http://anond.hatelabo.jp/20111031003142

というか、今まで傾かなかった理由は何だと思ってる?

PCの問題として、昔はメーカーマシンゲーム描画能力が貧弱過ぎるという問題があった。

貧弱だった頃のゲーム機だってそれ以上に貧弱だったでしょ。

プレイステーションセガサターンなんて、CPUは20MHz前後メモリ2~3MBとかだよ?

しかし、今はPC全体の性能向上とオンボード3D性能の向上によって、ある程度の描画能力までなら問題がなくなりだしている。

そんなミドルクラス以上のPCを持ってて、それをきちんと運用できてる人なんてごく僅かだよ。

そもそも自分PCがどの程度の性能なのかすら分かってない人の方が多い。

一方コンシューマでは、据え置き気に比べて絶対性能が微妙携帯機が威力を発揮しているなど、ゲームそのものに求められる描画能力が昔程重視されなくなっている。

重視されなくなったんじゃなくて、それなりのHD画質が「あって当たり前」になったってだけ。あって当然なクオリティから誰も求めない。

今更ゲームステレオ2ch音声を声高に求める人なんていないでしょ。

よく考えてみ。

あなたが想定する、「PC(Windows用)ゲームを買う人」ってどんな人?

性別、年齢層、家族構成、生活スタイル職業、なるべく細かく想像してみ。

その上で、そういう人間がこの国に何百万人といて、そのうちの何十万人かが、現行のゲーム機やその他の娯楽を差し置いてまでPC(Windows用)ゲームを買う状況って、現実に有りうると思う?

http://anond.hatelabo.jp/20111031192301

面白い発想だな

君のやってる仕事金もらえなくても続けたいほど面白いかい

その職場に俺を紹介してくれよ

http://anond.hatelabo.jp/20111031192301

金がもらえなかったら、それは仕事とは言わないだろう。

自分サヨク虐殺したいほど嫌いな保守派なんだけど、

TPPに関しては反対している人のパターンサヨクっぽく見えてしまう。

なので反対派の文章を読む気になれない。これどういう構図なの?

エンタメ離れたら、気持ちがラクに

以前は、テレビ音楽漫画アニメゲーム映画小説など

いろいろとエンタメが好きでわりと見てたり情報を追ってたんだけど

こころの中は苦しく、叫びたくなるようなわけのわからん衝動も多かった。

それから数年ほど忙しくしててエンタメから離れて、流行のシーンもわからなくなると

かえってこころの中は平穏に。

結局、エンタメから流れ出る性表現暴力表現にあてられてただけなんじゃないか

問題は自分ではなく、外部にあったのではないか?と

グラボ用にスト4ベンチを回して久しぶりに格闘ゲームを眺めながら思った。

http://anond.hatelabo.jp/20111031210320

ニートじゃない人たちも、空っぽの心に化粧してる人たちばかりだよ。

メディアが流す情報操作されたことを知る人々が急増している。

民主党にとってマスメディア人民支配ツールである

メディアを独占し、政府情報を独占するのは国家の常である

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