ジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』書評
『慈しみの女神たち』 ジョナサン・リテル 『われらが日々の尺』 シャルロット・デルボー 『ひまわり』 ジーモン・ヴィーゼンタール 『ホロコーストとポストモダン』 ロバート・イーグルストン 『20世紀を考える』 トニー・ジャット 『エクリ』 ジャック・ラカン 『ラカン』 福原泰平 『女中たち』 ジャン・ジュネ 『踏みはずし』 モーリス・ブランショ 『大理石の崖の上で』 エルンスト・ユンガー 『ヒトラーを支持したドイツ国民』 ロバート・ジェラテリー 『アイヒマン調書』 ヨッヘン・フォン・ラング 『オレステイア』 アイスキュロス など ■ ホロコーストへの同一化 シャルロット・デルボーの自伝的小説『われらが日々の尺』の語り手「わたし」は、ナチス強制被収容所時代からの友人であり奇跡的にともに生き延びた生存者仲間であるマリ・ルイーズとともに、戦後アウシュヴィッツ=ビルケナウを訪問する。旅に同行してきたマリの夫ピエールは強制収容所経験者ではなかったが、アウシュヴィッツについては妻から聞いた話によって博識でさえあった。しかし再訪したアウシュヴィッツに耐えられず帰ろうとする「わたし」に、ピエールは声をかける。「シャルロット、ここはきみの故郷、ぼくたちと、それから仲間たちといっしょにいた故郷なんだからね」。ピエールの知識は高かったかもしれないが、ピエールはそこにいなかったし、その知識をもってしてもアウシュヴィッツを「われわれの故郷」といいえる権利はないだろう。「わたし」はピエールの同一化にとまどう。 このピエールの失敗について、ホロコースト研究家のロバート・イーグルストンは「自分のものではない記憶を植民地化し同化しているということ」だと言う(『ホロコーストとポストモダン』)。 おおくの小説や映画が、おもに主人公と読者を同一化させて物語を展開させる。同一化がなければ、だれも小説を読んでドキドキもしないし悲しんだり喜んだりといった感情もわいてこない。だが同時に、同一化はピエールの「理解」を失敗させる理由となり、ホロコーストという人類最大の問題を矮小化さえしてしまう。 ジ...