文学は出世のためならず 『カフカの生涯』『百代の過客』『明月記』
1924年に喉頭結核で死去するとき、フランツ・カフカは、人生のあらゆる局面で彼を支えた生涯の友人マックス・ブロートに自分の遺稿をすべて焼却するように遺言した。『断食芸人』などすでにいくつかの短編を発表していたカフカであったが、作家として生計をたてるという希望も第一次世界大戦勃発によりあきらめざるをえず、けっきょく一介の保険局員としてその生涯を閉じるのであった。 彼は、たたき上げで裕福な商人となった父ヘルマンとの確執に生涯なやまされた。文学に価値をみとめない高級ユダヤ商の父から、自分が終始うだつの上がらない保険局員どまりの男だと思われていることを彼はよくしっていたのだ。(池内紀『カフカの生涯』) ヘルマンの考える社会的な価値基準でみると、たしかにカフカはしがない薄給のサラリーマンにちがいない。もうすこし長生きして、彼がマックス・ブロートに「焼いてくれ」と頼んだ長編の『審判』や『城』や『アメリカ』が出版されたとて、目指すところが違う以上この父子は永遠にわかりえなかっただろうと思われる。フランツ・カフカが世界的に高く評価されるのは、1970年代を待たなければならなかったのだから。 文学が遅効性だということは、ほとんどだれでも認識していることである。しかしプルーストやジョイスとならぶこれだけの価値ある文学作品の評価が、まさか40年も50年もかかるとは、成り上がりのユダヤ商人の父でなくとも予見はできなかっただろう。しかし、社会的・商業的成功をおさめたはずの父ヘルマンは、50年後「フランツ・カフカの父」という立場に引き下がらざるをえないことになってしまう。 かといってどのような作家だろうとサラリーマンだろうと商人であろうと、自己の評価を自分の生前に置くか、その死後に託すかなどと明示的に選択することなどできはしない。その証拠にカフカだって友人のマックス・ブロートがその遺言通り彼の遺稿を焼却してしまっていたら、プルーストやジョイスに比するどころかウィキペディアにさえその名前はなかったかもしれないのである。 かようにその人の評価というものはコントロールしにくく、むしろ運任せにするしかないのである。たとえその作品の質が高かったとしても、世に出ることがなければ地中に埋まった人知れぬ財宝でしかないのだ。その上を歩く人にとって、それは存在しないと同義であり、存在し...