坊っちゃんのピュアな瞳もたまらない…大正時代からのロングセラー、仙台発祥無添加石鹸が愛される理由
完了しました
仙台発祥の「坊っちゃん
完成まで13工程・60日
工場といえば、複数の機械が導入され、流れ作業で製品を作っていると思いがちだが、ここでは長年の経験と勘をもとに工場長以下、4人の職人が手作業で石鹸を作っている。まずは「仕込み」だ。原料の牛脂とヤシ油(ココナツオイル)、食塩水を専用のタンクに投入して、加熱
次は石鹸を作る「
その後、希薄食塩水を入れ、石鹸成分と不純物を分離させる「
その後は十分に乾燥させ、ピアノ線で作った器具を使って商品サイズになるまで切断し、検査、
絹織物製造との深い関係
坊っちゃん石鹸の原型は、絹織物の製造が盛んだった仙台市若林区で、1923年創業の「東北石鹸佐藤工場」によって、繊細な絹織物を洗う高級石鹸として開発された。当時、身体を洗う石鹸は粗悪品が多かったことから、創業者が「肌に優しい石鹸」を作りたいと改良した末に、翌年誕生したのが、坊っちゃん石鹸の前身だ。
当初は釜で炊いた石鹸素地の一番良い部分だけ使ったことから「釜出し一番」と名付けて販売していた。その後、長男(のちの2代目社長)が生まれた創業者が、親になる喜びと健やかな子供の成長を願って、長男の顔を思わせるレトロなデザインのパッケージを採用した。
汚れ落ちを良くする界面活性剤、見栄えを良くする着色料、劣化を防ぐ酸化防止剤などを使わない、石鹸素地のみで作った純粋無添加石鹸は「肌が荒れることなく、しっとりする」と、爆発的に売れた。
しかし、時代の変化とともに、苦境を強いられるようになったという。1970年代から石油から作られる合成洗剤が普及し、バブル経済期にはオシャレで高価な石鹸が誕生、その後、液体石鹸が主流となるなど、昔ながらの石鹸は徐々に隅に追いやられていった。
踏ん張ってきた地道な石鹸作りも、2008年に限界に達した。工場が老朽化し、後継者もいないため、2代目社長は廃業を決意した。このニュースが流れると、買い占め騒動が起きたという。そんな中、救世主が現れた。当時、畑惣商店の社長だった畑文雄さん(現会長)である。東北石鹸佐藤工場の石鹸の愛用者だった畑さんは、「地域が誇れるモノ作りの火を消してはいけない」と、2代目社長から09年、商標と製造技術を譲り受け、事業を継承、商品名も「坊っちゃん石鹸」に変更した。
次の100年に向けて
宮城県だけではなく、坊っちゃん石鹸のファンが全国にいるのは、口コミによるところが大きい。諸説あるが、例えば産科医が子供を産んだ母親に勧めたり、皮膚科医が患者に紹介したりしたことで、坊っちゃん石鹸の良さが広まったという。
鈴木一生・経営企画室長によると、「万能石鹸」という意味も大きいという。発売当初から、坊っちゃん石鹸は頭、顔、手、身体を洗うのに適しているだけではなく、食器や衣類にも使えるし、実際、今でも幅広い用途で使っている人も多い。諸伏昭和・工場長も「我が家ではシャツの襟の汚れや服のシミ落としに使っているが、うそかと思うほど良く落ちる」と話す。
それなら坊っちゃん石鹸は売れまくっているのだろうか。尋ねると、2人は少し悲しい顔になった。ジリジリと売り上げが減っているというのだ。鈴木室長は「愛用してくださっている方の高齢化が進み、そうなった。次の100年に向けて、どうやって若者や坊っちゃん石鹸を知らない人たちにアプローチしていくのかが課題だ」と説明する。パッケージのリニューアル、SNSを活用したPR方法など様々な角度から今、社内で議論を重ねている。
昔ながらの製法で60日もかけて作る坊っちゃん石鹸は薄利多売の商品であり、一定数売れないと経営を圧迫しかねない。諸伏工場長も「この石鹸じゃないと困るという人たちに、石鹸を届けるという使命を持って事業を継承した。しかし、消費者の裾野を広げないと事業を継続できなくなる。製品には絶対の自信がある。生産体制や製造方法を変えずに、どうやったら新しい顧客を獲得できるのか。解決策を見つけたい」と語った。