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枢軸国とは? わかりやすく解説

枢軸国

読み方:すうじくこく
英語:Axis powers

「枢軸国」とは、主に「第二次世界大戦において連合国敵対したドイツ・イタリア日本・その他同盟諸国の意味用いられる用語である。2020年代現在では「西側諸国退治する東側諸国(中露その他の国々)」を指して「枢軸国」と呼ぶ場合もある。少なからず敵国」のニュアンスを含む表現ともいい得る。

「枢軸国」の基本的な意味

「枢軸国」は、基本的には、第二次世界大戦における国家関係を指す意味で用いられる歴史用語であり、もっぱら連合国(the Allies)」との対比において用いられる。そして「枢軸国」とは「連合国戦った同盟諸国」のことである。

枢軸国は、ドイツイタリア日本の3国が締結した日独伊三国同盟」を中心とし、東欧諸国日独伊傀儡国家などが加わる形で成立した

日独伊三国同盟」が結ばれるまでにもいくつかの段階がある。始まり1936年ドイツ日本の間で締結した日独防共協定とされる日独防共協定正式名称は「共産インターナショナル」に対す日独協定」で、国際的な共産主義運動指導する組織コミンテルン」の自国での活動を防ぐために協力するという内容であった1937年にはイタリア加わり、「日独伊防共協定」が成立。その関係を強化しようという目的三国同盟締結交渉始まった1940年9月ベルリン調印された。

第二次世界大戦で、ハンガリールーマニアブルガリアフィンランドタイなどが枢軸国側加わった具体的な国名明記はないが、国際連合憲章第53条・第107条で旧敵国として言及されているのがこのうちタイを除く7か国であるというのが日本政府の見解細かくいえば枢軸国側の一覧にその他多く国名があがるが、連合国国家として承認していない、傀儡国家であったなどの理由により敵国条項対象はなっていない。

第二次世界大戦1939年9月ドイツ軍ポーランド侵攻したことで火蓋切られ独ソ不可侵条約秘密議定書もとづきソ連ポーランド東部占領したポーランド同盟関係にあったイギリスフランスドイツ宣戦布告し1941年12月7日日本軍真珠湾攻撃したことにより翌日アメリカ日本宣戦布告太平洋戦争勃発し第二次世界大戦アメリカ正式に参戦するドイツとイタリア同月アメリカ宣戦布告し交戦地域拡大世界的な大戦争へと発展していった。開戦後しばらくは枢軸国側優勢とされていたが、ソ連との戦闘長期化アメリカ本格的な参戦により最終的に敗北1943年イタリアが枢軸国で最初に降伏し1945年5月にはドイツ正式に降伏同年9月日本正式に降伏したことで第二次世界大戦は幕を下ろした

「枢軸国」の発音・読み方

「枢軸国」の読み方は、「すうじくこく」である。

「枢軸国」の語源・由来

枢軸axis)」は「物事活動中心となる大切なところ」を意味する言葉である。「枢軸国」という言葉にも「中心となる国」という含意込められている。

1930年代半ばドイツとイタリアが関係強化を図る中、イタリア首相ムッソリーニが、「ローマベルリンを結ぶ線がヨーロッパ諸国回転軸になる」という趣旨発言をし、これが人口に膾炙して「枢軸(国)」という表現定着した、と伝えられる

ちなみにローマベルリン直線で結ぶとほぼ南北に垂直の線が引かれる

「枢軸国」と「連合国」の違い

第二次世界大戦において「枢軸国」に敵対したのが「連合国」である。アメリカ、イギリス中国ソ連などを中心に26か国が参加中心となった4か国が発議し1942年1月1日ワシントンで「連合国共同宣言」に署名翌日に他22か国の代表が署名した。後に連合国中心となり現在の国際連合設立し日本1956年12月18日80番目の加盟国となった

すうじく‐こく〔スウヂク‐〕【枢軸国】

読み方:すうじくこく

第二次大戦前から戦時中にかけて、日本ドイツ・イタリア3国を中心として米・英・仏などの連合国対立した諸国家。1936年ムッソリーニローマベルリンを結ぶ垂直線枢軸として国際関係転回する演説したことに由来。→連合国3


【枢軸国】(すうじくこく)

Axis.
1936年結ばれた大日本帝国ドイツ第三帝国イタリア王国による同盟と、それに同調した国々のこと。
第二次世界大戦米国英国などの連合国敵対する


枢軸国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/20 03:58 UTC 版)

  枢軸国及びその植民地
  連合国及びその植民地
  真珠湾攻撃後に参加した連合国
  中立国

枢軸国(すうじくこく、旧字体樞軸國: Achsenmächte: Les forces de l'axe: Potenze dell'Asse: Axis powers)とは、第二次世界大戦時に連合国と戦った諸国のことである。

具体的にはドイツイタリア日本日独伊三国同盟を中心に、ハンガリールーマニアブルガリア東欧諸国、さらにフィンランドタイなどの国が含まれる[1]。他に連合国が承認していない国家としては、フィリピン第二共和国ビルマ国スロバキア第一共和国クロアチア独立国満洲国中華民国南京政府などがあるが、これらは全て日独伊などの傀儡政権とされるため、枢軸国には含まれない場合もある。

ヴェルサイユ体制における植民地を「持たざる国」であることと反共主義を共通の基盤としていた[2]

前史

アドルフ・ヒトラー率いるナチス党政権下のドイツと、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王の元、ベニート・ムッソリーニ率いるファシズム体制下のイタリア王国はどちらも類似した権威主義的体制であり、思想的に近いものがあった。しかし両国の関係は必ずしも良好ではなく、1934年にヒトラーとムッソリーニの初会談が行われたときも特に成果は生まれなかった。この会談直後の6月24日に、ハンガリー王国の首相ゲンベシュ・ジュラは、「ベルリンとローマとは、枢軸の両端を成している」と演説を行い、両国の関係が均衡状態であることがヨーロッパの平和につながると語っている[3]。しかし同年7月に、オーストリア・ナチス党主導によるオーストリアの首相エンゲルベルト・ドルフース暗殺事件が起こると、ドイツとイタリアの間には緊張状態が生まれた。

ベルリン・ローマ枢軸

1935年、イタリア王国がエチオピア侵攻第二次エチオピア戦争)すると、イタリア王国は国際社会から激しく非難された。オーストリアの合邦(アンシュルス)のためにイタリアとの両国関係改善を望んでいたヒトラーは、この期に両国の関係を改善しようと動き出した。1936年9月、ドイツは無任所相ハンス・フランクをイタリアに派遣し、首相であるベニート・ムッソリーニの訪独を要請した。しかし、ムッソリーニは外相のガレアッツォ・チャーノを訪独させると発言したにとどまり、自身の訪独は明言しなかった。10月にチャーノが訪独し、ヒトラーと会談した。この会談ではいくつかの合意が行われたが、条約協定が結ばれたわけではなく、特に重要な関係が成立したわけではなかった。

しかしチャーノが帰国すると、ムッソリーニは次のような声明を出した。

チアノ外相のベルリン訪問によって、多くの問題について独伊両国間に諒解が成立したが、そのうちの若干は現下の国際情勢において特に重要なものである。 このドイツとイタリヤを結ぶ絆、ローマ=ベルリン線は他国を隔てる隔壁ではない。協調と平和の意志を持つすべてのヨーロッパ諸国が、その周りを回ることができる枢軸である。 — 児島襄訳、第二次世界大戦 ヒトラーの戦い 文春文庫刊 1巻 P497

この後、「ローマ・ベルリン枢軸」という言葉は両国の関係を表す言葉として世界に浸透した。この発言をヒトラーは、実態のない合意を大げさに見せるムッソリーニのパフォーマンスと見ていた。翌1937年9月にはムッソリーニの訪独が行われ、両国の協調関係が強まるにつれ、枢軸の語は広く使われるようになった。

1938年3月のオーストリアの併合後、5月にヒトラーはイタリアを訪問した。すでにドイツの優勢は明らかであり、各国新聞の呼称も「ベルリン・ローマ枢軸」と改められた。1939年5月22日には条約が結ばれ、両国の協力関係は軍事同盟に発展した。この条約は通称『鋼鉄協約』と呼ばれる。

日本について

日本は1936年(昭和11年)11月に国際政治上の実体的効果はともかくとして日独防共協定を結び、さらに1937年(昭和12年)11月の日独伊防共協定の成立によって、日独伊3国の関係についてローマ・ベルリン・東京枢軸という言葉が生まれたとされる。防共協定成立当初は、との外交関係への配慮から防共が強調されていたようだが、満洲国問題、国際連盟からの脱退と国際社会で孤立を深めていた日本にとって独伊両国は数少ない友好国であった。また、国際政治上は現状維持を指向する英・仏に対し"持たざる国"として武力による領土拡大を目指す傾向に加え、さらに国内政治上は大正デモクラシーの時代が終わり、反民主主義・反自由主義的傾向を強めつつある日本は独伊と体制的にも近い国と、互いにあるいは国際的にもみなされるようになった。1937年(昭和12年)の日独伊防共協定の成立時、東京市内でそれを祝う提灯行列が起きたとされる[4]が、1938年12月にはラジオ番組中の「大建設の歌」〈柴野為亥知作詞〉の中で「防共は東西一に枢軸は今や厳たり」と唄われ[5]、その意識は相当程度広められていたと考えられる。これは、多少の紆余曲折はあったものの1940年9月の日独伊三国軍事同盟に至る。その後、第二次世界大戦中において日独側にたった交戦国は枢軸国とよばれた。

第二次世界大戦

第二次世界大戦における枢軸国は連合国と交戦した国々であるが、枢軸国全体で統合された戦争指導は最後まで行われなかった。このためドイツの対ソ開戦日本の対米開戦は事前に通知(宣戦布告)されておらず、交戦相手も統一されていないなど、枢軸国の足並みが揃うことは無かった。

1939年

1939年に勃発したポーランド侵攻に参加した枢軸国はドイツとその影響下で独立したスロバキア共和国のみであった。

1940年

1940年に行われたドイツによるフランス侵攻が成功すると、イタリアと、前年にイタリアの侵攻を受けて同君連合を形成していたアルバニア王国も枢軸国に加わり、連合国に宣戦布告した。8月16日に行われた第二次ウィーン裁定によって、ドイツはルーマニア王国への駐屯権を獲得し、ルーマニアを枢軸国の影響下においた。

9月には日独伊三国条約(以降、『枢軸条約』と表記)が結ばれた。ただし、この時点ではこの条約に加入することは枢軸国として参戦することと同じではなかった。11月にはハンガリー王国、ルーマニア、スロバキアが『枢軸条約』に加入した。

1941年

1941年3月1日、ドイツ軍はブルガリア王国に進駐して『枢軸条約』に参加させた。3月25日、ユーゴスラビア王国も『枢軸条約』に参加したが、2日後の3月27日にはクーデターが発生した。ユーゴスラビア新政府はドイツとの協調関係を維持すると声明したが、ヒトラーは許さずユーゴスラビア侵攻に踏み切った。戦後、ユーゴスラビアはハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア、そして独立したクロアチア独立国セルビア救国政府モンテネグロ王国によって占領された。

6月22日独ソ戦が始まった。ハンガリー、ルーマニア、クロアチアも参戦し、さらに冬戦争でソ連の侵略を受けていたフィンランドも7月10日に参戦した(継続戦争)。独ソ戦開始の際にヒトラーはフィンランドを同盟国と呼んだが、実際にはフィンランドはドイツと同盟を結んでおらず、あくまで共同参戦国であるという主張を行っていた[6]。しかしフィンランド領内にはドイツ軍が駐屯しており、11月25日に防共協定に参加している。フィンランドはソ連側からの講和交渉を拒絶し、イギリスによる宣戦を受けている[7]

12月8日、日本はコタバル上陸(マレー作戦)及び真珠湾攻撃を行い、アメリカ合衆国とイギリスに宣戦布告した。 オランダ政府は12月10日に日本政府に対して「日本がオランダと密接不可分の関係にある米英両国に対し戦端を開いたので、日蘭間に戦争状態が存在するに至った」と通告した。12月11日、ドイツは条約上の参戦義務は無かったがアメリカに宣戦布告し、他の条約参加国も追随した。しかし日本はソ連との間に日ソ中立条約を結んでおり、ソ連に宣戦することはなかった。 日中戦争で日本と交戦中であった中国は日本とドイツ、イタリアに対して正式に宣戦布告を行い、連合国に加入した。12月11日には日独伊単独不講和協定が結ばれ、枢軸国陣営が成立した。また同日、日本とタイ王国の間で日泰攻守同盟条約が結ばれた。

1942年

1月8日、条約締結に反応したイギリス軍とアメリカ軍がタイに対して攻撃を行った。このため1月25日にタイ王国はアメリカ・イギリスに対して宣戦布告した。11月21日、北アフリカの植民地を失ったヴィシー政権に業を煮やしたドイツは、フランス全土を占領した(アントン作戦)。

1943年

前年からのスターリングラード攻防戦はドイツの敗北に終わり、枢軸国にとって戦局は悪化の一途をたどるようになった。フィンランドはこの時期からアメリカを仲介としてソ連と休戦交渉を行っている[8]7月24日、イタリア王国でクーデターが発生した。ムッソリーニは逮捕・監禁されたがドイツによって救出された。9月8日イタリア王国は連合国との休戦協定締結を発表したが(イタリアの降伏)、9月23日にはドイツによってムッソリーニを首班とするイタリア社会共和国が成立し、枢軸国として戦闘を続けた。またアルバニアはドイツの占領下に置かれ、ドイツ主導による傀儡政権の統治下に置かれた。10月3日、イタリア王国はドイツに宣戦布告した。

10月21日、日本の支援の下自由インド仮政府が成立した。自由インド仮政府軍はインドの宗主国であるイギリスに対して戦闘を行った。11月16日大東亜会議において大東亜共同宣言が宣言された。この宣言は「大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ」とあるように、日本と同盟しアメリカ・イギリスと戦うという内容であった。この際、日本は会議参加国に対して米英への宣戦布告を要求した。ビルマ国はイギリス・アメリカに宣戦布告したものの、フィリピン第二共和国は宣戦を拒絶した。

1944年

この年の後半になると東部戦線は崩壊し始めた。8月24日、ルーマニアはクーデターによって連合国側につき、ドイツに対して宣戦布告を行った。9月9日にはブルガリアでもクーデターが発生し、連合国側について枢軸国に宣戦した。9月19日、継続戦争を戦っていたフィンランドはソ連と休戦条約を結んだ。その後フィンランドは駐留ドイツ軍と交戦した(ラップランド戦争)。10月15日にはハンガリーも対ソ休戦を発表しようとしたが、ナチス・ドイツと親独派の矢十字党が共謀するクーデターであるパンツァーファウスト作戦によって「国民統一政府」が成立し、枢軸国側に留まった。

西部戦線でも8月26日にパリが連合軍によって奪回されるなど、ヴィシー政権とドイツによるフランス支配は終焉を迎えた。

1945年

3月、日本は支配下に置いていた仏領インドシナからベトナム帝国ラオス王国カンボジア王国を独立させ、傀儡政権を樹立した。しかしヨーロッパは完全に連合国側の手に落ち、欧州の枢軸国は次々と降伏し、脱落していった。4月25日にはイタリア社会共和国が崩壊し、5月8日にはドイツ軍が降伏した。最後に残った日本もソ連対日参戦を受け8月15日に降伏受け入れを表明し、9月2日には正式な降伏文書調印を行った。

枢軸国の一覧

枢軸国

枢軸国の影響によって成立した国家・政権

これらの国家・政権はいずれも枢軸国諸国の傀儡国家として、特にドイツおよび日本の強い影響下にあり、国内から枢軸国の勢力が消滅した時点で崩壊している。現在、これらの政権は、現存する国家につながる正統な政権であったと見なされていない(継承国)。

宣戦布告を行った政権

宣戦布告を行っていない政権

枢軸国の影響によって成立した組織

枢軸国寄りの中立国

枢軸国の占領下にあったが枢軸国と見なされない国

  •  デンマーク - 1940年4月9日にドイツによる侵攻を受けて占領される。1945年まで占領下にあったが、国王やフォルケティングの存在は認められ、1943年の戒厳令施行まで一定の自律的な行動は認められていた。また、国内ファシストの一部がデンマーク自由師団英語版として独ソ戦などに参加している。一方で駐米大使ヘンリク・カウフマン英語版などが連合国側寄りの外交活動を続けたため、連合国扱いを受けている。

枢軸国寄りの態度をとった国

  • イラン - 中立を宣言していたが、レザー・パフラヴィーは親独派であり、その態度は枢軸国寄りであった。そのため、イランが枢軸国陣営に加わることを恐れて、イギリスとソビエトはイランに軍を派遣して軍事介入し(イラン進駐)、レザー・パフラヴィーを退位、国外亡命させた。
  • イラク - 1941年に親枢軸派のラシード・アリー・アル=ガイラーニー英語版が軍事クーデターで首相となり、ドイツ・イタリアに接近していたが、それが原因となってイギリス・イラク戦争が勃発し、親枢軸政権は崩壊している。詳細はイラク王国の項参照。
  • アルゼンチン - 実権を握っていたフアン・ペロン中佐の下枢軸国に好意的な立場・政策をとっていた。1945年になって連合国側として参戦しているものの、戦後は戦犯として連合国から追われていたナチス・ドイツ高官の逃亡を手助けしている。
  • ソビエト連邦 - 独ソ不可侵条約の元、ポーランドへの侵攻では共闘するなど1941年のドイツによるソ連侵攻まで極めて親独的な立場・政策をとった。フランスのダラディエ政権は1939年末から1940年初めごろにイギリスにソ連への宣戦布告を提案している。枢軸国側やソ連側でもユーラシア枢軸構想(日独伊ソによる四国軍事同盟構想)があったが実現しなかった。

備考

戦後における枢軸国

連合国軍の占領下に置かれ、連合国による内政の指導を受けた。また主立った枢軸国は戦後の国際連合敵国条項で「旧敵国」として不当に指定され、国連の原加盟国になることができなかった。日本、ドイツ、イタリア、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、フィンランドがこれに該当するとされている[10]。タイは自由タイ抗日運動などの活動が認められ、敵国とはならなかった。また、連合国の植民地や枢軸国の占領地に成立した国は現存する国家につながると見なされておらず、敵国扱いを受けていない。

脚注

  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典小項目事典「枢軸国」 コトバンク
  2. ^ 精選版 日本国語大辞典「枢軸国」 コトバンク
  3. ^ 斎藤孝『戦間期国際政治史』(1978年)、208p
  4. ^ “けふの大祝賀”. 読売新聞. (1937年11月7日) 
  5. ^ その火絶やすな ; 大建設の歌 : 陸軍省情報部發表 - Webcat Plus”. Webcat Plus. 2022年1月28日閲覧。
  6. ^ 百瀬宏 1975, pp. 99–100.
  7. ^ 百瀬宏 1975, pp. 100–104.
  8. ^ 百瀬宏 1975, pp. 106–107.
  9. ^ 長崎暢子「自由インド假政府をめぐって--第2次世界大戦におけるインド民族運動と日本」『東洋史研究』50(2)、東洋史研究会、1991年、231-255頁、NAID 40002660173 
  10. ^ 1990年6月11日の衆議院安全保障特別委員会における赤尾信敏外務省国際連合局長の答弁

参考文献

  • 百瀬宏「第二次大戦中のソ連のフィンランド政策 : 戦後への展望によせて (I) (20周年記念号)」『スラヴ研究』第20巻、北海道大学、1975年、97-113頁、NAID 110000189249 

関連項目

外部リンク


枢軸国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 08:08 UTC 版)

ウラヌス作戦」の記事における「枢軸国」の解説

スターリングラード占領するという決定延期されていたが、東部戦線更なる部隊を送るよう同盟国圧力をかけている間、ブラウ作戦において、ドイツ軍同盟国軍が幅480km、長さ数百km戦線形成していた。例を挙げるならば、ドイツ第6軍は約400kmの戦線攻撃を行う間、さらに約160kmの戦線防衛をも担当していた。南方軍集団分割して設立されB軍集団残り半分A軍集団とされ、コーカサス周辺作戦行動行った)は、書類上は強力な部隊見えたB軍集団にはドイツ第2軍第4装甲軍第6軍及びルーマニア第3軍イタリア第8軍ハンガリー第2軍ドイツ軍16自動車化歩兵師団所属していた。さらに予備戦力として第48装甲軍団と1個歩兵師団所属していたが、装甲軍団はすでに疲弊し切っていた。そして、ドイツ軍部隊大部分スターリングラードコーカサスでの作戦先頭立っており、ドイツ軍側面防衛するのは同盟軍となっていた。 ドイツ総統アドルフ・ヒトラードイツ軍側面防衛する同盟国各軍信頼示している間、その実多く場合同盟軍将校士気低く兵士の質も悪く武器旧式多く器材を馬が引いている状態であった例えば、部隊機械化問題では、ルーマニア第1装甲師団にはおよそ100両のチェコ戦車38(t)戦車所属していたが、これはドイツではすでに一線級の戦車ではなかった。また、使用していた対戦車砲3.7 cm PaK 36もすでに旧式化しており、ソビエト赤軍戦車T-34撃破するには威力不足であった上に、弾薬が不足気味であった。そのためルーマニア軍度重なる要請行い、それを受けたドイツ7.5 cm PaK 40を1個師団に6門の割合提供した。これらの部隊例えば、ルーマニア第4軍長さ270kmの戦線防衛担当ルーマニア第3軍は140kmの戦線担当するなど、戦線に非常に広大な範囲渡って展開することとなったドイツはその戦力について疑念持っていたが、イタリア第8軍は、ハンガリー第2軍ルーマニア第3軍の間を担当した通常同盟国各軍ドイツ軍より良好な状態に無く、さらにソビエト赤軍との何ヶ月もの戦いで、さらに戦力低下させていた。そしてソビエト赤軍高司令部は新たな戦力増強ドイツ軍対抗していたが、それに対してOKHはそれら戦力消耗した部隊でさえも戦線維持するために使わざるを得なかった。さらに1942年5月から11月行われたドイツ軍の攻勢の間、ドイツ軍最良師団グロースドイッチュラント師団第1SS装甲師団フランスへ連合軍上陸する可能性生じたため、A軍集団からフランスへ移動した第6軍スターリングラードの戦い多大な犠牲被っていた。例えば、ドイツ22装甲師団戦力状態は、時折ルーマニア第1装甲師団変わらない状態になることがあった。そして、ドイツ軍防衛線が戦力見合わず、伸びきっており、例えば第XI軍団長さ100kmの戦線担当していた。

※この「枢軸国」の解説は、「ウラヌス作戦」の解説の一部です。
「枢軸国」を含む「ウラヌス作戦」の記事については、「ウラヌス作戦」の概要を参照ください。

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